冷房の温度は、おそらく26度。目の前に置かれた七輪と、俺の腹を壊しやすい体質の間を取った温度だろう。
俺は弦巻さんに差し出された塩ホルモンを前に、8月の猛暑日由来ではない汗をかく。椅子に座った俺は、伏せ目がちに笑顔の彼女を見る。
「ほら、食べてちょうだいっ!」
「いいです。自分で取ります」
俺がそう口にすると、突如として腕が何者かに掴まれる。
逃げられないようにしたか、と思ったが、力強くその腕を俺の背中側に動かした何者かは、俺の手首に手錠をかける。
プラスチックのオモチャではないことは、冷房でキンと冷えきった金属感で分かる。汗が冷や汗に変わるのを感じる。
足に続いて手も縛られたか。俺は足元の鎖を見て、ため息をつく。
「いいから食べてちょうだい? お腹が空いてるのは知ってるわよ! 何か食べないと、あなたの笑顔がなくなっちゃうわ!」
「……口を開けろと?」
この部屋に入った時から、笑顔なんてのは大分薄れていたがね。
家に呼ばれた最初こそ、何かいやらしいことに持っていけないかと、男子高校生なりの欲を持っていたのだが、まさか玄関のドアを開けて早々に気絶させられるとは。
しかも、スマートフォンにあった俺のセクシー女優コレクションも見られた。すまない、乙アリスさん、石原希望さん、鳳カレンさん、その他ギャル系のセクシー女優さん。
弦巻さんはそれらを直接見たのか、SPのような人達に知らされたのかは知らないが、何故か俺を拘束して焼肉を食わせようとしている。
「弦巻さん」
「なにかしら!」
「ここは、どこなんですか」
「あたしの3番目の部屋よっ。広いでしょう?」
確かに広いことは分かる。羨ましいな。家具がベッドくらいしかないことに目を瞑れば。
天井からは、何やらキラキラとしたアクセサリーのついたヒモたちがぶら下がっている。どれが電気を消すヒモかは知らない。
「部屋、煙臭くなりません?」
「大丈夫よ! 匂いは消せるわ!」
「まあ、消せるは消せますが」
そういう問題ではないんじゃあないだろうか。
俺はとりあえず、彼女の目の圧がそろそろ空間にヒビを入れそうなので、出された肉を食べる。
噛みきれないプリプリとした食感の中に、少しの筋のようなもの。味噌っぽい濃いめのタレがついていて、いくらでも噛んでいられそうだ。
「ホルモンですか」
「ええ! 美味しいかしら?」
「そりゃあ……とても」
弦巻さんは「ふふっ。どんどん食べなさい」と、すぐに飲み込めないタイプの肉であるホルモンを大量に口に放り込んでくる。
肉はとんでもなく美味しいから、何かを言おうにも言いづらい。この人の事だ、高い肉を仕入れてきたのだろう。
というか、こんな人の指示に従わなくてもいいんだよ黒服さん。時には正しい道を示してやるのが大人だろう。
俺は全て噛み切って飲み込み、水を黒服さんから飲まされた後に言う。
「弦巻さん。最初にこういうのを焼くと、網が焦げますよ」
「あら、そうなのね! でも変えればいいじゃない!」
「……あなたのそういう所、嫌いじゃあないです」
ため息をつき、俺は自分語りを始める。
「俺は、こうしてあなたのやることなすことにケチをつけることしかできない。ネガティブ思考ここに極まれりって感じの男ですから」
「そんな事ないわよっ。あたしの知らないことをたくさん知っていて、あたしのためを思ってそう言ってくれるのでしょう?」
うぐ、と俺は飲み込みかけたホルモンが喉に少し引っかかる。自力で唾液で流し込み、俺は目を逸らして軽く笑ってみる。
「そう言われると、何も言い返すことはないのですが」
彼女は椅子に座りながら、幸せそうに目を細めて頬に手を当てる。
「あなたってば、本当にあたしが好きなのね」
そう言う弦巻さんは、本当の本当に俺のことが好きなようで、その好きを俺にも強要してくるのが嫌でも伝わってくる。
彼女は世の中に何個もある選択肢のうちのひとつを、『これしかない』と思い込んで突っ走るタイプだ。そうして彼女は今の破天荒かつ変なところで律儀な性格になったのだろう。
「こういう強引なところは、あまり良いとは言えませんし」
「ん? どういう事かしら」
「……分からないなら、大丈夫です」
いつの間にか口から飛び出ていた、原料が思考100%の独り言を誤魔化す。
弦巻さんは気にせず、鼻歌を部屋に響かせながら肉を焼いている。ものが少ないので、反響しやすいのだ。
そういえば、焼肉なんて何年ぶりだろうか。もしかして、家のホットプレートでやった焼肉くらいしか経験が無いかもしれない。すなわち、こういう本格的な焼肉は初めてだ。
BBQならしたことはあるが、我が家は俺も含めて全員の好物が基本的に海鮮なので、基本的に少し贅沢な外食と言えば寿司なのだ。
弦巻さんは引き続き肉を焼く。焼き上がって少し丸まった薄っぺらい肉に、レモンをかけて俺に差し出す。
「ほら、これはタンよ!」
箸につままれたそれを口に入れると、薄さからは考えられないほどの肉汁と、レモンと塩の爽やかな風味が口の中に広がる。牛の舌にしては美味いな。
「……あー、これ美味しいです。好きかも」
「ふふっ、笑顔になったわね!」
自然と彼女の笑顔に釣られて、俺も声を出して笑ってしまう。こんな状況だということも、一瞬だけ忘れて。
そうだ。俺は弦巻さんのことが好きなのだ。好きな人と美味しいご飯があるのだ、自然と笑顔にもなる。
未だに手や足に巻かれた、ひんやりとした金属のことを考えなければ。
「弦巻さん」
「何かしら!」
「この拘束はいつ外してくれるんです?」
これがなければもっと笑顔になれるのにな、と続けて言おうとした俺の口に、塩タンがぶち込まれる。
「外さなければ、あなたは逃げないわよね? だから、あたしは永遠に外したくないわっ」
「それは……素敵なアイデアだ」
笑顔でとんでもないことを口にするな、この人は。今に始まったことではないが、俺への加虐性がここまで高いのは初めてだ。
「俺がいつ逃げました?」
タンを咀嚼しながら言う俺の頬を、弦巻さんは椅子から勢いよく立って掴む。そして、ドアの方を見ていた俺の顔をギリギリと正面に戻す。
弦巻さんは笑顔のままで、俺を諭すように優しく言う。まるで、他の子を殴ってしまった園児に、静かに怒る先生のように。
「いま、目を逸らしたわよね?」
「っ……」
「こういうのを、逃げてるって言うんじゃあないかしら?」
ごもっともだ。俺は自嘲的に笑い、彼女と目を合わせる。
「分かりました。もう、俺はあなたから逃げません」
弦巻さんはその一言だけで顔を明るくし、俺の所まで来て抱きしめる。
普段はこうなると少しなだめて遠ざけるのだが、俺が動けないのをいい事に、正面から対面座位の体勢で抱きついてくる。胸に胸が当たっている。
少し煙臭い弦巻さんは、俺に熱い口付けをしてから言う。
「愛しているわ! あなたっ」
その名前で呼ぶのも、恥ずかしいからやめて欲しいと言ったはずだが。悪い気はしないが、単に恥ずかしい。
首筋にキスに次ぐキスを重ねる弦巻さんに、俺は呆れながら言う。
「俺も、あなた程ではありませんが好きですよ」
ピタッと、弦巻さんの動きが止まる。そして、俺の首の皮膚は彼女の歯で軽く噛みちぎられた。
声も出ないほどに驚く俺の首筋から、温かい液体がドロドロと流れる。そして、彼女は七輪の網をトングで掴んで投げ捨て、中の炭を取り出す。
何をするのかと思えば、俺の口に炭を近づけ、彼女にキスやハグをされてすっかりその気になった俺の下半身のテントを反対の手で強く掴む。
変な声が出そうになるも、命の危機に近い状況に、そういう気分はすぐに無くなる。しかし、掴まれたところに血が留まっているため、なかなかテントは撤収されない。
「あたしと同じくらい、あたしのことを好きになってくれないと嫌よ」
自分の急所を掴まれ、俺はなんだか素直に彼女の言葉に従ってしまいそうになってしまう。
手淫や口淫は、されている側ではなく、している側に支配権がある。その気になれば懐のハサミで切断したり、歯で噛み切ったりできる。
彼女に初めて歯を立てられた時のことを思い出している俺は、こんな状況にも関わらず少しだけ股間に血を巡らせてしまう。
弦巻さんはそんな事も露知らず、俺に向かって据わった目で語りかける。
「痛いと笑顔が消えるんでしょう?」
「……そうですね」
「炭は熱いわよ」
「そう、ですね」
彼女は「ほら」と言い、さらに炭を俺に近づけてくる。なまじ温度が高いだけに、冷や汗以外の汗も自然と溢れ出てくる。
額から垂れた汗が入る口を、俺は開ける。
「口を開けろと?」
「いいえ。だって外に痕をつけないと、あたしのモノだって分からないでしょう?」
くそっ。純粋な彼女に、色恋や性や独占欲を教えたのは、他でもない俺だ。俺は、過去の俺に首を絞められている気がして、バカバカしくなる。
そこで俺はふと気づく。なんだ、原因の大半は俺じゃあないか。ここで俺が折れなければ、どこで誰が折れるというのだ。いや、俺のテントの柱は折れそうだが。
テントなのに大黒柱があるとは、これ如何に。俺は自分の口内と生殖機能が惜しくなり、口を開ける。
「もうやめだ」
「……何が?」
後ろで水バケツを構える黒服さんに、「大丈夫ですよ」と言いながら、俺は彼女の目を見てハッキリと口にする。
「好きですよ。世界中の誰より、あなたが……結婚、したいくらいですよ」
弦巻さんは、両手と顔をだらんと下げて固まる。そのうち、彼女の背中は震え出し、喉から笑い声が漏れてくる。
「ふふっ、あははっ!」
顔を上げた彼女は、吹っ切れたように大きく口を開けて笑っていた。
俺から離れ、トングと炭を黒服さんの持つバケツに入れ、彼女は上を向いてくるくるとその場で回りながら喜んでいる。
そして、彼女は俺の背中の方から、椅子を挟んで俺に手を回し、抱きしめる。
「するのよね。あたし達、絶対に結婚よ」
「……同じ思い、ですね」
「ええ!! あなたに愛されないと、あたしって本当にダメなの!! だから……っ」
耳元で大きな声を出されたものだから、ビクッと驚いてしまう。そんな俺を見て、彼女はさらに笑い出す。
まだこめかみや額に残る汗を黒服さんに拭いてもらいながら、俺は彼女に、顔だけを動かして頬ずりをする。
弦巻さんは息を少しだけ荒くして、目を大きく開いて俺の首についた傷を舐める。血を吸うような勢いで。
「しましょうか。高校、卒業したら」
「ふふっ。うふふふ」
ごくり、と耳元で音がしたと思うと、彼女は俺の口の中に舌を無理やりに入れてくる。
レバーよりも濃く生臭い香りに、熱い彼女の舌の柔らかくヌルヌルとした感触。
俺の血って、こんな味だったのか。血のディープキスはしばらく続き、俺の黒目が裏返りそうになり、腰が跳ねた時、彼女は満足そうに唾液の糸を引きながら口を離す。
そして、ずりずりと俺に密着したまま下へと移動し、俺の濡れたズボンに愛おしそうに頬ずりをする。意趣返しか。
「素直なあなたが一番よ」
そう言う彼女は、ズボンの染みをひと舐めし、牛タンを食べる。
「120歳まで一緒にいましょう!!」
「長生きする気だ……」
イカれた人だが、俺のことが狂おしいほどに好きなのは、この数十分で嫌という程に伝わった。
あとは、自己肯定感が低いが故のプレイミス発言と、嬉し恥ずかし照れ隠しを避ければ、この部屋からもいずれ出られるだろう。
できるだけ前向きな期待をして、俺は彼女の咀嚼した肉を口の中に流し込まれながら、手錠と足の鎖が外れるのをひたすらに待つ。
出たいのもあるが、今の俺は彼女ともっと深く愛し合いたい。弦巻邸からの脱出の前に、まずはそれが最優先事項に来る自分自身に、思わず笑いが込み上げてくる。
俺も、それなりにイカれてきたかもしれないな。そう思いながら俺は、今までそれとなく遠ざけてきた弦巻さんの愛を、黒服さん数人の監視の元で受け入れるのだった。