■中央暦一六四〇年四月
イルメリア専制公国 領都マリポリ
ユリアは小食堂の窓際で、遅い昼食を取っていた。
オムレツに似たスフガートは、報告書の束に遮られ、冷めかけていた。
扉が控えめに叩かれた。
「ユリア様、お食事中、御無礼を」
「どうしましたか?」
入ってきたのは、領主館付きの側近だった。普段より足取りが速い。手には通信紙の束を持っている。
「沖縄でパーパルディア船乗員が武装蜂起。現地警察と戦闘状態にあります。死傷者も出ている模様です」
ユリアはスプーンを止めた。
「あら。予想よりも遅かったですわね」
側近は一瞬言葉を失ったが、すぐに姿勢を正した。
「いかが対応いたしましょう」
「国営放送局に状況報道を要請。映像資料は確認済みのものだけを使用、事実だけを報道なさい」
「承知しました」
「同時に、大隊規模の派遣部隊を編成。日本政府から正式要請があれば即応できるように。細部は軍務長官に一任します」
「はっ」
ユリアは、少し考えてから続けた。
「それと、武田閣下との回線を用意なさい」
「赤山首相ではなく、武田閣下でございますか?」
「ええ」
ユリアは皿の上に視線を戻した。
「あの政権は動けません。動くべき方に、状況を伝えます」
「直ちに手配いたします」
彼は一礼すると、足早に部屋を出ていった。
ユリアは銀のスプーンを指先でくるりと回した。
「…スフガート、冷めてしまいましたわ」
*
日本 那覇港
発端は酒場で起きた乱闘だった。
那覇に寄港していたパーパルディア皇国の商船乗員が、地元住民へ暴行を加え、警察に拘束された。
事件そのものは、港町では珍しくない類のものだった。
ただ、今回は相手が悪かった。
拘束された船員は、商船団の古参水夫だった。
酒場の外では罵声が飛び交い、警察署の前には皇国船員たちが集まり始めていた。
沖縄県警は、当初、これを単なる騒動と捉えていた。
実際、その時点では交渉を行えば済む程度の話だった。
だが、皇国の船員は、カトラスや斧、マスケット銃等を船から持ち出していた。
最初の発砲で、警察署の窓ガラスが粉々に砕けた。
続いて、警官数名が倒れた。
彼らは怒声を上げながら警察署に突入し、拘束された仲間の奪還を試みた。
そこに、他の皇国船の船員が加わったため、事態はさらに悪化した。
通報を受けて出動した警察官や、近隣住民までが巻き込まれたのである。
路上では、斧を持った皇国人が警官に襲い掛かった。
マスケット銃の鉛弾を受け、逃げ遅れた市民が倒れた。
夜明け前には、那覇港周辺は半ば戦場と化していた。
日本側の死傷者は、一般市民を含む数十名にのぼった。
長崎事件の再来である。
赤山内閣の対応は鈍かった。
彼らは、事態を認めたくなかったのである。
官邸は即座に情報統制を行ったため、新聞各社や放送局はこの事件を知り得なかった。
加えて、内閣は保安隊の出動を拒否した。
保安隊を認めれば、それを擁護する親イルメリア派の伸長に繋がる。
それは、彼らが最も嫌うものだった。
この状況を変えたのは、日本国内の報道ではなかった。
*
事件翌日の正午。
イルメリア国営放送は、街頭テレビや大型スクリーン、ラジオ放送を通じて、沖縄での騒乱を報道した。
燃える家屋、負傷者を運ぶ警察官、マスケット銃を構えた皇国船員の映像が日本中に流れた。
日本国民は政府の発表より先に、外国放送で沖縄の現実を知った。
翌朝、国会前は群衆で埋まった。
学生や復員兵、主婦や会社員までが議事堂前へ押しかけていた。
外国の武装勢力が一般市民を殺害し、政府がそれを隠した。
その事実が、人々を激高させた。
「沖縄を守れ!」
「何のための政府だ!」
「保安隊を出せ!」
赤山内閣は、完全に追い込まれていた。
不信任案が提出されたのは、その三日後。
前年十一月に成立した赤山政権は、半年を待たず崩壊した。
事件から一週間後、参議院緊急集会において、保安隊行動承認が可決された。
状況を考えると、異例の速さであった。
戦後日本は、この瞬間、ようやく現実に引き戻された。
沖縄で流れた血が、日本という国の空気を変えてしまった。
スフガート:旧帝国(東ローマ帝国)時代から伝わる、卵にチーズと新鮮なハーブや野菜を加えたスポンジオムレツ。