認めない子 作:アイらゔU
レッスン場を出たレイは、後ろ手に扉を閉めると、そのまま廊下を少し歩いた。
扉一枚を隔てた向こうからは、まだ微かにルビーたちの声が聞こえている。
何やら自分が逃げた逃げていないで揉めているような気もするが、聞こえなかったことにした。
少なくともセンターについての意見はちゃんと伝えたのだ。あとは実際にステージへ立つ三人で決めるべきことであり、自分がこれ以上口を挟む必要もないだろう。
それよりも今は、こちらだ。
手に持ったスマホへ改めて視線を落とす。画面に表示されている名前を確認してから、レイは廊下の邪魔にならない壁際まで移動し、通話ボタンを押した。
「もしもし、お兄さん?」
『おう。今大丈夫か?』
聞き慣れた声が耳へ届く。
いつも通りの夏樹だった。特別慌てている様子もなければ、何か問題が起きたような緊迫感もない。そのことに少しだけ安心しながら、レイは背中を壁へ預けた。
「うん、大丈夫。今ちょうど手が空いたところ。どうしたの?」
『どうしたってほどでもねえんだけどな』
そこで一度、夏樹の声が途切れた。
電話の向こうから、僅かに椅子の軋むような音が聞こえる。おそらく事務所にいるのだろう。何となくその姿まで想像しながら待っていると、やがて夏樹が何でもないことのように続けた。
『お前、高千穂から帰ってきて何日経った?』
「…………え?」
予想していなかった質問に、レイは瞬きをした。
何日と言われても、帰ってきたのはつい先日のことだ。当然ながら東京へ戻ったことは連絡している。そもそも今回の高千穂行きは、レイにとって初めての遠征だった。黙って出掛けたわけでもなければ、帰ってきたことを知らせず好き勝手に過ごしていたわけでもない。
「何日って……えーっと」
頭のなかで、レイは指を折り数を数えるが、途中で放棄した。
「ん? 帰ってきたとき連絡したよね?」
『したな』
「無事に着いたよ、って」
『聞いた』
「……じゃあ、何?」
話が見えず、レイの眉間に薄く皺が寄った。
すると電話の向こうから、小さな溜息が聞こえてきた。
『帰ってきたって連絡は貰った。無事なのも知ってる。別にそこを言ってるんじゃねえよ』
「うん……?」
『ただな』
少し間を置いて。
『帰ってきたなら、顔くらい見せに来ても罰は当たらねえんじゃねえか? って話だ』
「あ…………」
レイは黙った。
今度は意味が分からなかったからではない。逆だった。
ようやく意味が分かったからこそ、返す言葉が一瞬出てこなかった。
高千穂から戻ったあとは、ミヤコたちのところへ帰り、今日もこうしてルビーたちのレッスンへ顔を出している。その間に夏樹へ連絡も入れていたから、自分の中では完全に報告を済ませたつもりになっていた。
だが、言われてみれば。
まだ直接、事務所の方へいっていない。
『今気付いたみたいな声出しやがったな』
「いや、その……」
図星だった。
別に忘れていたわけではない。避けていたわけでも、行くつもりがなかったわけでもない。ただ、帰ってきたという連絡を入れたことで、自分の中では一区切りついてしまっていただけだ。
「ごめん。顔出そうとは思ってたんだよ?」
『別に謝れって言ってんじゃねえよ』
夏樹はすぐに否定した。
声色にも怒っている様子はない。それどころか、本当にただ思い出したついでに電話してきただけのような口調だった。
けれど、わざわざ電話を掛けてきた。
帰ってきたことは知っている。無事だったことも知っている。それでも、直接顔を見てはいない。
その事実だけが、どうやら叔父としては少し引っ掛かっていたらしい。
『しばらく休みなんだろ?』
「うん。そうだけど」
『なら暇なときにでも来い。高千穂の土産話くらい聞かせろ』
「ああ、うん。それなら――」
レイは素直に頷いた。
「また行くよ」
『その《また》は、いつの事だ?』
「…………」
返事までの間は、ほんの一秒にも満たなかった。
それでも夏樹には十分だったらしい。
『おいコラ』
「いやいや、行くって! 本当に行くから!」
『だから、いつだって聞いてんだよ』
「お兄さん、なんか急に圧が強くなってない!?」
思わずスマホを耳から少し離し、レイは困ったように画面を見た。当然そこに夏樹の顔が映っているわけではないが、電話の向こうでどんな顔をしているのかは容易に想像できる。
行くつもりだったのは本当だ。
ただし『また今度』くらいの感覚だった。
その曖昧な部分を見事に見抜かれたらしい。
『お前の「また行く」は信用ならねえからな』
「そんなことないでしょ!? いくらなんでも!」
『じゃあ今日来い』
「今日!?」
今度こそレイの声が廊下へ響いた。
慌てて口元を手で押さえ、周囲を見回す。幸いにも近くに人はいなかったが、少し離れたところを歩いていたスタッフらしき人物が一瞬こちらを見た気がする。軽く頭を下げて誤魔化してから、レイは声を潜めた。
「急すぎない……?」
『何か予定あんのか?』
レイは頭のなかで考える──が、ミヤコに休みを取らされているので、予定も何もない。遊びに行く? とも少し考えたが、後々が怖そうなので今はおとなしくしているのだ。
「今はルビーたちのところにいるけど……このあとは、別に」
『じゃあ決まりだな、どうせしばらく休みなんだろ?』
「……それ知ってるなら、最初から今日呼び出すつもりだったでしょ?」
『さあな』
しれっと誤魔化された。
レイは小さく溜息を吐いたものの、嫌というわけではなかった。
夏樹のところへ行くこと自体に抵抗などない。むしろ高千穂へ向かう前には色々と世話になったのだから、帰ってきたあと直接顔を見せるくらいは当然だろう。それに電話で済ませていたとはいえ、自分から会いに行かなかったことについては、ほんの少し申し訳なさもある。
何より。
高千穂では、色々あった。
ただ旅行へ行って帰ってきただけではない。あの土地で見たもの。知ったこと。出会ったもの。その全てを電話一本で話すには、あまりにも多すぎる。
夏樹もそれを分かっているのだろう。
だからこそ詳しいことは、今のところ何一つ聞いてこなかった。
「……分かった」
レイは壁から背を離した。
「直ぐいきます。何なら今から出るよ」
『おう。いるからそのまま来い』
「分かった」
それで話は決まった。
随分と強引に決められたような気もするが、結局のところレイも断るつもりなど最初からなかった。スマートフォンを持ち直しながら、ふと閉ざされたレッスン場の扉へ視線を向ける。
向こうでは、今頃三人がセンターについて話し合っているはずだ。
少なくとも、自分が戻らなければ困るような状況ではないだろう。
『じゃあ、あとでな』
「うん。またあとで」
通話が切れる。
耳元からスマートフォンを離すと、廊下の静けさが戻ってきた。
画面には通話終了の表示。それを眺めながら、レイは小さく息を吐いた。
「……顔くらい見せろ、か」
怒られたわけではない。
心配していると言われたわけでもない。
会いたかったなどとは、もちろん一言も言われていない。
それでも、帰ってきたという文字だけの連絡では足りなかったらしい。
「……会うの、ちょっと怖かったり、する……なぁ」
そして、もうひとつ感じるのは漠然とした恐怖である。
これは、慣れるものではない。
おそらく、これまで会ってきた人たちの中でも間違いなくトップクラスに。見抜く力をもつ人だから。
北斗探偵事務所。
ここへレイが再びやって来たのは、夏樹からの電話を切ってからそれほど時間が経っていない頃だった。
見慣れた扉の前まで来て、足を止める。
ここまで来る途中、別に逃げ出したいと思ったわけではない。夏樹に会いたくないわけでもなければ、怒られるようなことをした覚えもない。それでも、電話を切った直後から胸の奥に居座っている僅かな緊張だけは、事務所へ近付くにつれて消えるどころか少しずつ大きくなっていた。
理由は分かっている。
高千穂へ行く前の自分と、帰ってきたあとの自分。その違い、この扉の向こうにいる男なら説明するより先に、何かを見つけてしまいそうな気がしていた。心配かけまいとする気持ちと────バレてはいけない、と言う気持ちが交錯している。
「…………」
レイは小さく息を吐き、扉を開けた。
「こんにちはー……」
「あ、レイ君。いらっしゃい」
最初に迎えてくれたのは渚だった。
事務所の中にいた彼女がこちらへ顔を向け、いつもの柔らかな笑みを浮かべている。その少し奥、デスクに座っていた夏樹も書類から顔を上げた。
「おう。来たか」
「来ましたよ。言われた通り、すぐに」
「やればできんじゃねえか」
くっくっ、と笑いながら迎えてくれたのは夏樹。
その姿を見たレイは、心外! と言わんばかりに顔を顰めた。
「僕、普段からそんなに言うこと聞かない人みたいになってない?」
「おー、なってるな? わかってんじゃん」
「なってないよ」
間髪入れず否定しながら中へ入る。
何も変わらない。
聞き慣れた夏樹の声に、渚の笑顔。電話の続きそのままのような軽いやり取りまで、何一つ変わっていない。
そして、夏樹も何も言わなかった。
レイの顔を見て、何かあったのかと聞くこともない。高千穂について尋ねることもなければ、じっとこちらを観察するような素振りすら見せなかった。
「適当に座れ。何か飲むか?」
「んー……じゃあ、お茶」
そう言うと、控えていた渚が奥から顔を出した。
「はいはい。ちょっと待っててね」
「あ、渚さん。僕、自分でやりますよ?」
「いいのいいの。久しぶりに来たんだから、お客さんしてなさい」
渚にそう言われてしまえば、それ以上断るのも野暮だろう。レイは礼を言ってソファへ腰を下ろし、背凭れへ身体を預けた。
向かい側では夏樹が手元の書類をまとめている。
ちらり。
レイは、その顔を盗み見た。
特に変わった様子はない。
もう一度、ちらり。
やはり普通だ。
「なんだ?」
「っ、いや、別に?」
「ならジロジロ見んな」
「見てないよ」
「二回見たろ」
「…………」
見られていた。
自分の方が観察されることを警戒していたはずなのに、先に観察していたのはこちらだったらしい。
やがて渚が用意してくれたお茶を受け取り、レイは一口飲んだ。温かいものが喉を通ると、それだけで無意識に入っていた力が少し抜ける。
夏樹もレイの向かいへ腰を下ろした。
「で、高千穂での仕事はどうだった」
「……うん」
ついに来た。
だが、その聞き方もあまりに普通だった。
探偵として何かを問い質すような声音ではない。ただ、帰ってきた甥から旅先の話を聞く。それだけにも聞こえる。
だからレイも、変に身構えるのをやめた。
「色々あったよ。本当に」
「だろうな」
「……聞く?」
「そのために呼んだようなもんだ。保護者は
夏樹の言葉に、レイは苦笑した。
それから少しだけ考え、何から話すべきか頭の中で順番を組み立てる。
高千穂へ向かったこと。
そこで自分たちなりに手掛かりを追ったこと。
そして――本来ならば、ただの遠征で終わるはずだったあの土地で起きたこと。
レイは一つずつ話した。
途中、夏樹が口を挟むことはほとんどなかった。
渚も同じだった。二人とも時折確認するように短い質問をするだけで、レイの話を遮ろうとはしない。
だからこそ、話せた。
自分の中で整理できていることも。
まだ整理できていないことも。
高千穂で何が起きたのかを、レイは可能な限り順序立てて二人へ伝えていった。今回の件には、最初から一つの賭けがあった。事件がどこまで報じられるか。
高千穂で起きたことをアイやアクア、ルビーたちには話さない。話すつもりもない。心配をかけたくないから。
でも、レイが幾らそう決めたところで、全国ニュースとして東京まで大々的に届いてしまえば意味がない。
幸い、その賭けには勝つことができたらしい。
事件は、少なくともこちらでは大きく報じられていない。
おそらく同じ頃から連日のように世間を騒がせている、政治家たちの大規模な汚職疑惑。そのニュースに話題を持っていかれたことも、理由の一つなのだろう。
一応これでも納税者の端くれとして、汚職事件に対して『おかげ』などとは口が裂けても言いたくないが、ただ今回に限っては、その騒ぎがレイたちにとって都合よく働いてくれたことだけは間違いなかった。
少なくとも今のところ、皆には高千穂で起きた事件を知っている様子はない。
そして何より。知らないままでいてくれるのなら、それが一番いい。
今回の件は、知られれば誰かが危険に晒されるようなものではないが、隠したい、隠し通したい想いは強い。
だからこそ、いつまでも抱え続ける必要もない。
忘れられるのなら、忘れた方がいい。
幸運にもミヤコたちも、最終的にはその方向へ舵を切ってくれた。
わざわざ思い出させない。掘り返さない。高千穂から東京へ帰ってきたのなら、少しずつ元の日常へ戻っていく。
ただ────心の奥では、今もなおしこりとして残ってる。
「――大体、そんな感じ、だよ」
長い話を終え、レイは小さく息を吐いた。
いつの間にか手元のお茶は随分減っていた。
夏樹はすぐには何も言わなかった。
腕を組んだまま背凭れへ身体を預け、少しだけ視線を下げている。渚もまた、先ほどまでの柔らかな笑顔とは違い、考え込むような表情を浮かべていた。
やがて。
「……そうか」
夏樹が短く言った。
「大変だったな」
「……うん」
それだけだった。
もっと何か聞かれると思っていた。
どこで、誰が、何をした。何故そうなった。お前は何を見た。
探偵ならば、いくらでも問いを重ねられるはずだ。
けれど夏樹は、それ以上掘り返そうとはしなかった。
「一応聞く。終わった話なんだな?」
「うん。少なくとも僕たちにとっては。……僕自身も大丈夫。無理してないよ」
「なら、いい」
簡単な言葉だった。
けれど、それで十分だった。
レイが少しだけ肩の力を抜いた、その時だった。
「ああ、そうだ」
夏樹が何かを思い出したように顔を上げた。
「アイツも心配してたぞ」
「……アイツ?」
「アイだよアイ」
「……………はい?」
思わず二度見をした。
夏樹はそんなレイを見ながら、何でもないことのように続ける。
「お前が高千穂に行ってる間も来たし――帰ってきてからも来てる。てか、しょっちゅう来てる。休憩場所にしてるわ」
「…………はい??」
今度の声は、明らかに先ほどまでとは違った。
レイの身体が僅かに固まる。
帰ってきてからも。
その言葉が、妙に大きく聞こえた。かなり頭の中が混乱しているが……、よくよく考えてみると、この場所、夏樹の事はアイも知っている。知らない間柄ではない。だから……別に問題ないはず、なんだ。
でも、不安はどうしても抜けないが。
「……いや、何で? 何をしに??」
「何しにって、お前のことだよ」
「僕?」
「他に誰がいんだ」
夏樹は呆れたように言ってから、テーブルに置かれていた自分の飲み物へ手を伸ばした。
「レイが帰ってきてから、様子がへん。何か隠してる気がする、ってな」
「…………」
心臓が一つ、大きく鳴った気がした。
夏樹がいつも以上にここまで強引だったのも、そのせいなのだろう。
レイは何も答えられなかった。
隠せていると思っていた。
少なくとも、何があったのかまでは知られていない。アイの前でも普段通りに振る舞っているつもりだったし、帰ってきてからも必要以上に高千穂のことを引きずらないようにしていた。
けれど。
「……アイ母さん、気付いてたんだ」
「当たり前だろ。ふざけているようでしっかり母親やってる。その辺はお前さんがよーくわかってるだろ?」
「……うん」
夏樹は淡々と答えた。
「何かあったんじゃねえかってのは感じてたみたいだぞ。帰ってきたお前を見て、な」
「…………」
「まあ、母に隠し事は難しいって事ね。その点、レイくんは心配かけるようなこと多過ぎ」
「う……で、でも、アイ母さんにもそれは当てはまることだし。と言うかアイ母さんの方が……………」
「そりゃそうだ。ほんと、似た者同士だよ、お前ら。どっちもどっちだ」
レイは、ふと別の不安が、頭をもたげた。
「……ちょっと待って」
「ん?」
レイの表情は、僅かに硬くなる。
「お兄さん、まさか……アイ母さんに
レイの言葉に一瞬、夏樹の目が細くなった。
それは怒りというより、聞き捨てならないものを聞いた時の顔だった。
「……おい、見損なうなよ」
それは低く、短く、そしてどこまでも重い声。
それを聞いたレイの背筋が僅かに伸びる。
「お前は身内だ。甥だ。けどな、それと依頼人として預かった話は別だ」
「…………」
「本人の許可もなく、勝手に他人へ漏らすような真似はしねえよ」
「でも、アイ母さんは――」
「母親だろうが何だろうが同じだ」
夏樹は即座に言い切った。
「身内だからいい。親だからいい。心配してるから教えてやる。そんな理屈で依頼人の話を勝手に漏らしてたら、探偵なんざ名乗れねえだろ。信用に関わる。そんなやつ、お前は信用出来るのか?」
そこにあったのは、叔父としての顔とは少し違う。
一人の探偵としての矜持だった。
どれだけ相手が近しい人間でも。
どれだけ、その人が心配していたとしても。
守るべき一線は変わらない。
「……ごめんなさい」
レイは素直に頭を下げた。
「疑ったつもりじゃなかったんだけど……ちょっと、焦っちゃって」
「分かってる。お前さんはある程度のラインは守ってるフシはあるからな。……まあ、向こうから来た場合はその限りじゃねーから、心配は尽きんが。あの外道記者みてーに」
夏樹も、それ以上責めることはしなかった。
すると、二人のやり取りを見ていた渚が、少しだけ苦笑しながら口を挟む。
「確かにね。私もハラハラしたわよ。アクアくんの気持ちもよく分かる。……それと、アイさんに対して、本当に何も言ってないよ。私からも保証するわ」
「……了解、です。それと、その説は本当にお世話になりました」
その瞬間。
レイの肩から、目に見えて力が抜けていた。
そして以前の鮫島記者の件を思い返して、助けに入ってくれた渚に対して頭を下げる。
あの場で叩きのめしてやりたい気はあったし、鮫島が暴走する事も無論わかってた。制圧するつもりだったし、やれる自信もあったが………周りがそれで良しとするわけがない。ましてや、刃物を持った相手なのだから。
そして────暫く談笑したあと。
「あ、ルビーからだ」
スマホが震え、目を通すとそこにはルビーのアイコンが表示された。
先に目をするのは、【新生・B小町のセンター大決定!!】の文字。
これ見よがしに改行しているので軽くスクロールし……、レイは小さく吹き出し、そして笑みをみせた。
「ふふ。やっぱりそうなった」
B小町のセンターは【有馬かな】に決定した様だ。
あれだけ、『やらんやらん』と言っていたかなも、多分現実を突きつけられ、そしていつも通り押しに弱く引き受ける形になったんだろう。
「じゃあ、そろそろ僕、行きますね?」
「おう。まあ、あれだ。今日は強引にすまんかったな」
「あははは、今更ですよ。でも、ありがとうございました、お兄さん、渚さん」
レイは頭を下げ一礼すると事務所の扉を開き、出ていった。
その後ろ姿を見送ると……夏樹はゆっくりとした動作で、深く背もたれに身体を預ける。
「………何だってこう巻き込まれちまうんだ? レイは」
レイが消えた扉を見つめたまま、夏樹は考える。
波瀾万丈――そんな言葉すら生温く思えるほど、あの少年の人生は何かと平穏から遠い。
閉じられた扉を見つめたまま、夏樹は深く息を吐く。
本人からすれば、恐らくはどれも望んで首を突っ込んだことではないのだろう。
それでも、振り返ってみれば一度や二度では済まない。
今までの件も、今回の高千穂もそうだ。
探偵という仕事柄、夏樹自身も普通なら一生縁のないような出来事をいくつも見てきた。それを踏まえてなお、レイの周囲で起きることは妙に多い。
それを偶然、ただその一言で片付けるには、少しばかり回数が重なり過ぎていた。
「ほんと……
呆れたように呟く。けれどその声音に、面白がるような色はない。
ただ純粋に、叔父として、もう少し平穏に生きてくれてもいいだろうにと思う。天はどれだけの試練をあの少年に課すつもりなのだろうか。
類稀なる才――そんなありきたりな言葉ですら形容しきれない何かを持って生まれ、それを一度は奪われた。
それでも前を向いて歩き出し、失ったものが再び芽吹き始めたと思えば、今度はまた別の何かに巻き込まれる。
【北斗の星】に生まれ、【一番星】の元へと流れた。
星から星へ、まるで運命に引かれるように、平穏から遠ざかっていく。
そう、それはまるで――呪縛のようだ。
そして、そんな少年の背中を見送ってから、まだ幾らも経たない頃。
北斗探偵事務所に、新たな来訪者があった。
それは偶然か。それとも、夏樹が今しがた思い浮かべた『呪縛』の続きだったのか。
少なくとも、その扉の向こうに立っていた人物もまた、レイという少年を案じてここを訪れた一人だった。
そして何より――。
北斗の星から去った少年と入れ替わるように、その扉を叩いたのは、彼が流れ着いた先の