神の姿とは、何たるか。
全てをゼロにしたゼニスの前に現れた白皙の蟲は、例えばソレであるかのように、少なくとも一人の男には思えた。
「完成」されたはずの世界にソレは現れた。
全てがゼロの意思に導かれ、個性も、目的も必要が無い。ないことこそが美徳である。あったからこそ、個性も、目的も、欲望も、意思も世界にあったからこそ嘆き悲しんだ意思が神と化し、その神は自らなにもなき無と化し、この世界を完成させたのだ。
神の在り方なら美徳である。だから無こそは美徳である。
そうあまねく世界にしらしめていたはずのそれに、その蟲は言葉すら使う価値もないとばかりに、物言わずして残忍に告げたのだ。
まだ、「有る」癖にくだらない。と。
世界の頂点で「正しい世界」に生くるはずの民に見守られながら、細く、長く、しなやかな無垢そのもののごとき腕が、偉大なゼニスを抱き寄せた。それは戦いなどではないかのようだった。恐ろしい異常事態、おぞましい状況、冷静に考えればそうであるのに。
それはなぜか。
戦いというのは所詮、対等な間柄同士の行いだ。当事者同士を対等にする行為だ。
彼女はその範疇に生きていない。
ソレは、「支配」の存在。支配者は、戦いなど行わない。
ソレは不思議な姿をしていた。
醜いと呼んでいいのか、美しいと呼んでいいのか。
巨大な蝿の様な蟲だった。汚物にたかる蟲風情が緋色の翅と金の装飾で女王の様に飾り立てている悍ましく滑稽な姿のようにあるいは見えた。
しかし、長く伸びる手、巨大な手。きら、きらと瞬く金の爪が輝くその三対の手中に抱かれる瞬間こそは、それはきっと、それこそ全てが無とならんばかりの安らぎではないか。そう思わせるだけの圧倒的な美しさが彼女にはあった。
蝿の目のように目立つ白くまるく膨らんだそれはよくよく見れば人型種族の女性の胸部のようで、そう思わせる証拠にその下には、大きさこそ巨大であれどもぐりんと逆さになったかのような、人型種族の端正な女性の顔が付いていた。
彼女は、三対の腕に抱かれるがままの「無上」の頂天、シャングリラ・ファンタジアの腹部に、そっと、静かに口づけを堕とした。
残忍な託宣は、それで充分であった。
それと同時にシャングリラの身体にぼこ、ぼこと卵が湧きだした。そしてそこから、真っ白な、真っ白な、水晶の如き無色透明の、シャングリラの「無」など愛らしい若造の理想論でしかなかったと謡い上げんばかりの無そのもの、無垢そのものの純白の、大量の蛆が生まれて彼の腹を貪った。
そして、民たちは見てしまったのだ。そして、思ってしまった。「思わされて」しまった。
「無」そのものであったと、産まれた時から教わっていたあの神に。
「あった」のじゃないか。あんなに、蛆に食われるだけの腹の肉が。
それは、絶望か、失望か、それを現す言葉など少なくともその世界になかった。在りうべからざる事象をさす語彙など産まれる必要が無かったがため。
そんな世界の民が抱く名すらも知れぬ想いをよそに、白い蟲は、彼女は優しく微笑んでいた。優しく神を抱きしめていた。彼女が声も出さずに謡う唄は哀れな敗者への侮蔑にあらず、青々しい若者よ、理想に燃えた小僧っ子、よくやったよく頑張った、今一度よくおやすみなさいと、優しく彼をいたわる子守歌であるかのようですらあった。
「無」が持っていた「有」。それがこそげ落ち、シャングリラがはらわたをすべて失いだらんと停止した……「無」のゼニスならそんな概念は必要なかったはずのものを、それは「停止」という言葉を使うに足り得てしまったのだ、その彼女の前では……その瞬間に、蛆はずるずると集まりその肉を一体化させ、やがてそれは白い人型となる。
そして伽藍洞と化したシャングリラの腹の孔に納まるようにその人型が納まると同時に、「停止」していたはずのシャングリラだった体は、動き出した。……その人型にわずか遅れて、その人型が動くように。
何が起こったのか。詳しいことなど、誰も分かろうか。あの白い蝿の正体すら分からぬ中で。
だが、少なくとも皆、これだけは分かった。
ああ。
神は死んだ。
「……『ない』。ゼロの、力……が……『ある』……」
彼女が口を開いた。
シャングリラ・ファンタジアの無とははたして本当にただの彼女には及ばぬつまらぬ力だったか。
それともそんなことはなかった、彼は確かに偉大な存在であった、全てを護らんとした意思で在り世界を完成させたゼニスであったのか。
それがその場において意味をなさない問と化す。確かに偉大な神として君臨していたはずのそれを、確かに世界を変え平和を作り出したはずのゼニスを、悼む気にもならなければ蔑む気にもなれないほどに、圧倒的なまでにただ「彼女」だけに、彼女は意識を引き付ける。
それこそが、支配者というものだ。
「悪からぬ」
異形が、怪異が。美しい彼女とは違いただただ醜い二人の蝿が彼女の後を追うように現れた後、彼女はそう告げた。
それは、光栄な言葉であるかのようだった。
ただの発言が、光栄たり得る。それはどのような存在か。
例えば、「神」はそれなのだ。
しかし、一人のジャスティス・ウイングだけが、気付いていた。少なくとも確信した。
彼女は、世界を見て言ったのではない。
自分というただ一人の男を見て与えた。神の光栄を。
自分を見つめた彼女の目が、人型の顔の眼孔の奥底にあるか、蝿の目のように輝く水晶玉か、その区別すら彼にはできる確信があった。
それほどまでに、彼女はただ一人を見つめていた。