Gott ist tot   作:hinoki08

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◆9.Good Spell

 

 ●

 粛々と春は近づいていった。アウトレイジ狩りも、順調だ。

 アウトレイジ達の目撃情報も、段々まばらになりつつある……そしてそれは、彼らの潜伏が上手くなってきたことを示していないのは、ツラトゥストラにはわかっていた。水晶の力の乱れと連動する自分の体調、もはや不快に酔っている方に慣れてしまったような体が、軽くなりだしてきたからだ。

 安定してきたのだろう。この世界は。

 

 そんな中の事だった。無法者とまた違う、不敬な名を名乗る者の噂がタブラサ・チャンタラムに飛び込んできたのは。

「……水晶の王?」

 闇文明のある城に、そう僭称するドラゴンが居るという。……そして。その情報を持ってきたものは知らなかった、ただの慮外者だと思っていたのだろうが。

「……ゴスペル?だと……?」

 ツラトゥストラには、その名に覚えがあった。

 

 

「私も彼のことは詳しく知りません。しかし、存在は聞かされておりました。彼は『裏教義』を知る者でした。表に出ぬオラクルの在り様を」

 旧オラクル教徒でも、一般信徒には存在を知られぬ、裏オラクル。それを為す裏教義を護るものの名こそが、「ゴスペル」であったはず。

 それが、なぜ、水晶の王と僭称を?

 いずれにしても彼をセレスに属させた覚えもない。その身で水晶の力を勝手に名乗られては沽券にかかわる、動かないわけにはいくまい。

 だが、その知らせを聞いて、タブラ=ラーサはじっと神妙に黙った後、言った。

「その者のもとにはわらわが出向こう、ツラトゥストラ。その城がどこにあるか言え。その者はわらわに任せ、お主はアウトレイジを狩り尽すことに尽力せよ」

「貴女様がですか?」

 当然の疑問を発したツラトゥストラに対して、彼女はさらりと返す。

「わらわの身に危険が及ぶ由もあるまい。……それに」

 その目は。何を、見ていたか。

「その者と話をしてみたい」

 

 ●

 闇文明の奥底、ブリティッシュ・パビリオンと名づけられた城に、彼らはいた。

 裏オラクル・セレスは。

 

「貴様か。クリス=タブラ=ラーサとは」

 瘴気に冷たく沈む闇文明の空気とは裏腹に、透き通るような美しいドラゴンが、招かれざる来客を落ち着き払って迎えた。

 彼の周りにはひらひらと、蝶が飛んでいる。そして、彼を囲み、ぶつぶつと一心不乱に何かを唱える、何かを唱えるだけの命たちがいる。

 その体には、何の生命力も感じさせない。「水晶の種」を、これほどに世界が変わってまで宿していない存在達が、オラクル・セレスのマスクとすら違う、完全に顔を覆い隠すような蝿の顔のマスクを嵌めて、ただ祈りを捧げていた。それ以外、彼ら彼女らは、何もしない。

 

「如何にも。お主がゴスペルか。……この者共は、何者かえ?不思議であるの、あれほどみんな宿すようになった水晶の種が無い」

「彼らは『真のオラクル』だ」ゴスペルは、冷徹に答える。彼の目には、「神」など映っていなかった。

 彼はただ、世界の侵略者を見つめていた。

「ゼニス様の教えを、真に信じていた。ゾロスター、あの詐欺師の欺瞞に心動かされぬ、真のゼロの力を宿せし者共だ。だから、私が保護した。ゼニス様たちの力を受け継ぐために世界に居る、この私が」

「なるほど。要するにツラトゥストラの教えすらも心に響かぬほど、誠に心のうちから『目的を持たぬ』者共か」

「貴様は、私を屠るために来たか」ゴスペルは戦う姿勢すら取りはしなかった。それは……断頭台に運ばれる、革命に負けた貴族の様だった。しかし断頭台の上にあって尚、貧民を見下す貴族の目だ。殺さば殺せ、それ如きで、我が誇りが傷つくことはないのだ、と。かえって暴力でしか解決できない貴様の野蛮を、私は白日の下にさらすのだと、そうとでも語りかけんばかりの誇りを、何の意志もない旧オラクル信徒しか見る者のいない闇文明の古城で、ゴスペルは見せつけていた。

「そのつもりもあるが、その前に問いたいことが多少あって参った」そしてタブラ=ラーサも、ただ淡々と返す。

「ゴスペル。ツラトゥストラもお主のことはよう知らん。お主は何者じゃ?」

「隠し立てをする必要もなかろう。私は、ゼニス様がこの世に生まれた際、ゼニス様の命に従う兵として生まれた命だ。それ以外に何であるかなど、私とて『知らない』。そして、シャングリラ様が無と化し、オラクルが産まれ、そのさまをずっと、ずっと、裏から見続けてきた。それこそが私の義務だった。それこそが私の献身だった」

「ほう。忠義な事じゃ。それで、わらわと……ツラトゥストラをお主、蔑んでおるかえ」

「蔑まぬ道理などあるまい。ゼニス様を殺した侵略者でありながらゼニス様の上に立つ者と僭称する貴様と、その教えを世界に広めたあの男だ」

 彼の手元には、書物がある。アルケミスト・ヒルズにように、その古城には無数の書がある。

「私は、すべて見てきた。貴様らがこの世に何をしたか。それを書き留め、それを忘れぬ。貴様らの罪を、この世から消さぬ。ゼロの精神を忘れぬ、正しいオラクルたちを守りながら、命が尽きるまで書き記す。貴様らは絶対に残さぬ、アルケミスト・ヒルズには残さぬ、罪にまみれし『オラクル・セレス裏教義』を、だ」

 不穏な言葉は出しながら、その会話は非常に淡々と進んでいた。どちらも、どちらにも何の物怖じもなかったがゆえに。

「……罪にまみれし。一つ問いたい」タブラ=ラーサは言った。

「お主は、ゴールデン・エイジ達のことをわらわ共に比ぶれば尊き者と思うておるのか」

「ああ。少なくとも、貴様らに比ぶれば」

「そうか」

 ふう、と彼女は一つ、嘆息した。

「可哀想じゃのう。報われぬ」

「誰がだ?」

「ツラトゥストラじゃ」タブラ=ラーサは、その場にいない扇動者の名を呟いた。

「お主らがどれだけ自らの大義をほざこうが、わらわは初めてこの世に舞い降りたあの日、水晶の種をあやつ以外に見出せんかった。じゃが事実として、あの裏切り者にも、その弟の方にも、世界の無法者にも、確かに水晶の種の気配があった。それを産まれさせたは、ツラトゥストラではないか。お主とて、そうじゃ」

 そっと、彼女はゴスペルに向かって指を差し出した。

「この館の中で、お主一人の心のうちには水晶の種がある。わらわ共の教えを肯んじず、昔のゼニスどもを正とせんとするが、お主の『目的』であろう。じゃがそれらは全て結局、ツラトゥストラのあとから生まれたのではないか。あやつは、この時代に種を撒いた。ゴールデン・エイジも、アウトレイジも、そしてお主も、あやつのおかげで目的を持ち、抗う者となれたのじゃ。素晴らしき命となれたのじゃ。あやつは感謝されこそすれ、なぜ蔑まれねばならぬ。なぜ刃を向けられねばならぬ。あやつこそが、この時代の父ではないか。この時代に心に水晶の種を宿すものは、皆あやつの子ではないか。悲しかろう。……子が親を手にかけるなど、悲しかろう。のう」

「神を殺し、逆らうものを殺す殺戮者に、そんな心があるなどとは失笑もの」ゴスペルは非常に淡々と返した。

「貴様は神ではない。神にも似合わぬ無知の命だ。あの男を過大評価している。あの男は、ただの小物にすぎぬ。非力だ」

 ……だが、その淡々と続き続けたやり取りは。

「異なことを。小物が故に、あやつは優れておるのじゃ」

 タブラ=ラーサのその一言で、崩れた。先に白旗をあげさせられたのは、ゴスペルの方だった。

「……何?」

「『運が良かった』。すべては」タブラ=ラーサは言う。

「シャングリラ・ファンタジア。アレはたしかに優れておったのじゃろう。存在するだけで、幾星霜の年月自分を神と崇めさせてきたのであるから。……あのお方様も、そうであった。あのお方様は無類に強大、しかしその力を振るいもせずとも、その威容の前にすべてがひれ伏すような力があった。何もせずして、あのお方様の周りには深淵の眷属が集まった。あのお方様ほどではなかれども様々な世界にそのような力のある者……『カリスマ』?確かそんな様に称されたものであろうか?そんなものを持った存在が居た……故、分かる。ツラトゥストラには、ソレがさほどあるとは思えぬ。逆に言おう。あやつは『カリスマの力無くして扇動者足り得る』のじゃ」

 タブラ=ラーサの、水晶の瞳。

 世界が全て塗り替えられた今でなお、昔の、蛆人形を宿さぬゼニスのみを心のうちに留めおくゴスペルと、セレスの教えなど一切心に入らぬ旧オラクルたちしか存在しないブリティッシュ・パビリオン。そこにあって彼女のその瞳が映し出すのは、あの日と同じなのだ。

「そのことを問うたことがある。あやつは当然のような面でこう返した……『そんなものは話次第でどうとでもなりますよ』と、ただ、それだけじゃ」

 蛆人形を宿さぬゼニスと、目的無くしてそれを崇める民しかいないあの世界に存在した時同様。

 その瞳は、この場に居ないツラトゥストラを見つめている。

「羨ましいことではないか。わらわには、それを言える力が無かった。わらわは所詮、『運がなければ』抗えんかったのじゃ」

 水晶玉の瞳を輝かせ、緋色の翅をはためかせ、女王の如き黄金のティアラを頭に直接生やした、威厳溢れる蝿の怪物は、そのしなやかな指をもどかしげに組んで、自分自身に語るように言った。

「わらわがこの姿を得たは、この権能を得たは、抗うて支配の存在となれたは、結局運が良かったのじゃ。運が悪ければ『小物』のまま、運命に甘んずるほかはなかった。然れども、大いなる権能を持つ者とは、そうであろう。皆、運が良かったのじゃ。運よく強大な力と、強力な権能を持って生まれたが故に上に立てたのじゃ。シャングリラとてそうじゃ。世界を平和にしたいと願ったものが、守護者共だけとはわらわは思わぬ。守護者共の想いの結実が、一つだったともわらわは思わぬ。けれどもそれらは、きっと運が無かったのじゃ。運が無かったが故に何も為せなかった。何も為せなかったからゼニスという大仰な名もつかなかった。ただ一人、運が良かったシャングリラ・ファンタジアが、強大な力を行使でき、崇められた。それだけじゃ。あのお方様とて、大方そうじゃ。あのお方様はそれだけの強大な運があった。世界そのものがあのお方様が楽しむための舞台になるほどの運を携え、あのお方様は産まれてきた。それだけじゃ」

「……何が、言いたい」

「ツラトゥストラは、その運もなくして、強大な力も権能もカリスマもなくして、ただ自分の思考一つでこの世を動かす。わらわをも退けるあのお方様などとは比べようもなき、わらわにはすぐ殺される身の上で、わらわに抗い、生き延びんとし、その一念でこの世を変えた。素晴らしかろう。見惚れもしよう。わらわは、あのような者に出会いたかった。願わくば小娘の折に。もしも小娘の自分に今一度声をかけられるのであれば、自分がこんな権能を得る未来より、あやつのことを伝えたい。運が良かろうが悪かろうが、運命を切り開く者が居る。その方がよほど、あの日のわらわには、籠の中で怯え続けたわらわには、救いとなろうというものじゃ」

 ……クリス=タブラ=ラーサ。偽の神、侵略者に怪物。そして「今の神」として君臨する彼女は。

 オラクル・セレスの民など誰もいない場で、滔々と、神のみ言葉をもって、ただ一人の男をそう賛美した。

「……それで貴様が良いなら、良かろう」短く、ゴスペルは言った。

「所詮、神になりたかろうが神たり得ぬ殺戮者が貴様だ。貴様自身の矮小から必死で目を背けようが、それは変わらんのだ」

 何の価値も、ないのだ。所詮は。自分を生み出したゼニスのみを崇める彼には。

 だが、そんな彼に、タブラ=ラーサは畳みかけた。

「ところで、お主に教えたいことがある」

「……申せ」

 ……教える、と、言いつつ、次に出てきた言葉はちぐはぐであった。それは、問いかけであった。

 

「何故お主、わらわ共を蔑んでおきながら、『水晶の王』を名乗っておるのじゃ?水晶の力はお主にとって、ゼニスを侮辱せし邪教の象徴にほか有るまい」

 

 ……その言葉に。

 はっと、ゴスペルは息をのんだ。まるで……「今気が付いた」ように。

 なんだったら、自分が「水晶の王」を名乗っていたことが、完全に無意識だったかのように。

 ……彼の周りを飛ぶ蝶が、ひらひらと羽ばたきを速めた。

 

「それのみではない。なぜ、この者共に蝿のマスクを嵌めさせる?ゼニスを殺せし邪神たるわらわの顔を?このマスクは顔の肉そのものに嵌め殺しであろう、この者共は闇文明の華畑からくすねてきた水晶のマナを吸うて生きておるな。なぜ、そのようなものを吸わせる?なぜお主は、わらわ共を見下しながらわらわ共の真似事をするのじゃ。わらわ共を肯んじず昔のゼニスたちを崇める者として、矛盾に他ならぬではないか」

「なぜ……なぜ?」

 ゴスペルは。

 明らかに、動揺した。……蝶の翅が、ひらひらと激しくはためく。

「なぜ、私、は……?……分からない。『分からない』……」

「教えてやろう」タブラ=ラーサはそっと、震える龍に囁く。

 

「お主の身体は、もうお主一人のものではない。お主がわらわの動向を逐一書き記すも、最早お主一人の意志ではない」

「えっ……?」

「『水晶の王』。アレ一人は、異質なるアンノウンじゃ。何とも知れぬ存在ながら……未だひらひらと勝手に飛び回ることをやめない」

 彼女は、見つめた。

 ゴスペルの周りに舞う蝶を。光のマナを宿した蝶を。

「勝手に飛び回っては、勝手にわらわの事を覚えて回る。わらわの為したことを、アレは全部覚えておる。自分が何者かもわからぬ身の上で。この世界でようようお主に憑りついたは、お主ほど自分と親和性のある命にやっと出会えたからであろう。『何者とも知れぬ命』で、『裏の歴史を覚え続ける』お主という命に……ちょうどよい。ほんにちょうどよいわ。わらわも求めておった、アレと親和性のある器を。いつまでもひらひらと飛び回り、目障りでならぬ」

「ちがう……」

 ゴスペルは、うめくようにそれを否定する。自分の中の明らかな矛盾を、掻き消さんとするばかりに。

「私、は……ゼニス様の僕……私はそのために……」

「うむ、それもそれでよかろう。そして、『そのお主』はどうにせよ不要じゃ。蔑まれるなど、嫌じゃ。ツラトゥストラが折角世界中飛び回って頑張っておるのに、こんなところでふんぞり返っているお主如きに蔑まれておるなど、わらわは嫌じゃ。わらわは、あやつが愛しい。あやつを蔑むものなど、世界に居て欲しゅうはない」

 すっ、と、神の託宣のように、彼女は告げる。ゴスペルに。そして……『水晶の王』に。

 

 

「お主ら、一体化せよ。水晶の王よ、もう、その体から二度と離れるでない」

 

 

 そして。

 かくん、とゴスペルの体の動きが止まった。それと同時にきら、きらとその体の一部は結晶化し……透き通るような蝶の翅が生えた。彼が蝶族のアンノウンと化したことは、明らかであった。

「神になりたかろうが、のぅ……」彼女はそれを見てふっと嘆息した。

「わらわは別段、神など望むわけでもない。ただ、自分の身で叶う安寧が欲しいだけじゃ。その最良の形が神になる事と、ツラトゥストラが教えてくれた、そのような者にやっとこの世界で出会えただけじゃ。水晶の王がお主に出会えたように」

 その顔は、穏やかであった。慈悲の笑みというわけでもないが。

 ようは、切羽詰まってやるほどのものを、彼女は最後まで見出さなかったのだ。真のゼニスの力の後継たる龍に。彼が最後まで、タブラ=ラーサに神聖など何ひとつ見出さなかったのと同様に。

「折角じゃ。お主、表には出せぬわらわの動向、裏教義とやら……それらは、護りぬけ。書き続けよ。確かに、消えて欲しゅうもない。表には出せぬ事だろうと、ツラトゥストラが、わらわのために行ってくれた全てのことの記録が、この世に残ってくれた方が良い」

 ……そう、言われるままに。

 ゴスペルだった命は、蝶族のアンノウン、水晶の王ゴスペルは、再び、帳面を広げた。新しく書き記すことが、世界で起きるのを待ち望むかのように。

 

 タブラ=ラーサは彼が完全にそうなったのを見届け、ふいに……何もしない、真っ白な信徒たちに目を止めた。

 殆どがヒューマイド。その顔を、オラクル・セレスの者とも違うマスクで嵌め殺しにされた。

 

 しかしその中に、いる。本物の蝿のような姿の超獣。もう、巨大な白い蝿である、そうとしか言いようがない者。蝿でありながら美しい水晶の蝿とはちがう、ただの蝿が。

「……水晶の王……」

 それらを見つめ、タブラ=ラーサはぼそりと呟いた。

「ほんに、いやなお方じゃ」

 そして、何も動かない、意志など、目的など何もない彼らに、力を降り注がせた。

 

 

 

「……タブラ=ラーサ様?」

「おお、帰ったか。……ツラトゥストラ」

 さて、しかし……アウトレイジ狩りの一連の仕事を終え、タブラサ・チャンタラムに帰還したツラトゥストラは、うつむいた顔をどう形容してもいいか分からない表情にしかめ、何からどう聞いていいものだかわからなかった。

 まず、タブラ=ラーサの周囲にうじゃうじゃいる、この、顔をマスクで嵌め殺しにされて……ついでに、背中に本物の蝿の翅を生やされたような者達は一体なんだ。

 そして、それ以上に疑問に思わねばならぬことまで。

「……何も、無いようじゃな……うむ。よかった。こちらもゴスペルは片付いた。ああ、この者共じゃが……ちと可哀想な身の上でな。わらわが世話をしたい。水晶の王などの下においてやるのは虫唾が走るのじゃ。何も考えておらん故、水晶の力を注げばさらりとわらわに隷属した。お主の仕事も手伝わせようぞ。なんぞ、新たな位階を考えてくれ。奴らのための部屋も増設させい」

「ははあ……それはその、承知いたしましたが……」

 さて。そんな彼等よりよほどおかしい事実が。アウトレイジ達もいよいよ大人しくなって、水晶の王ゴスペルもどうにかなったらしいのに。

 なぜ、タブラ=ラーサは蛆の姿になっているのだろうか。

 しかも。様子が以前とは違うのが余計におかしい。

 あの日ツラトゥストラが破いたローブ……それをそもそもまだ持っていたのか、というのも驚くべきことであるにはあるのだがもうそれはどうでもいい、それに胴体こそ包まれど、顔だけはちょこんと出して、あの日とは裏腹に落ち着き払っているのは、一体全体何が何だ。

「……タブラ=ラーサ様。なぜ、蛆の姿に……?」

 最早、素直に聞くのが一番だとツラトゥストラも判断した。そして、答えは単純明快であった。

「……今はこの姿が良いと思うただけじゃ。いかぬか?」

 ……その言葉に、彼は一転、すっと頭が晴れたような気がした。

 いけないことなど、無いだろう。

 水晶の力の大きな乱れが無いことは、そもそもツラトゥストラ自身にも分かるのだ。彼女の不調ではない。では……彼女は望んで、なっているだけで。

 そして、自分はあの、ゴールデン・エイジが暴れだした日にこそ知ったではないか。

 水晶の蝿も、淀んだ蛆も、ただただどちらも彼女である。クリス=タブラ=ラーサである。

 タブラ=ラーサがタブラ=ラーサとして存在して、何の不都合とて、そこにはないだろう。

 

「……いえ。私に分からぬ貴女様の御不調でなければ、良かったのです」

「それはない。安心せい。むしろ今は非常にすがすがしゅう思うておる」

「ならば、何の問題もありません。タブラ=ラーサ様」

 にっこりと、ツラトゥストラは笑った。普段は見上げる彼女の前に跪き、そっと、自分よりずっと小さい身体になった彼女に向かい合う。

「籠をお持ちしますか?」

「いや、今日は籠は要らぬ」

 見慣れぬ蝿兵たちに囲まれてるのも忘れて、ツラトゥストラは今一度、穏やかな状態の蛆の彼女を見た。普段とは似ても似つかぬ醜さの蟲。それでも、間違いなくタブラ=ラーサであることを確信できる存在を。

「もう、あれは要らぬのじゃ。きっと」

 そこには、彼女がいる。ただそれだけだった。

 

「……ゴスペルは、裏教義とやらを書き続けておった。わらわ共の動向まで含めて」

「ははあ」

 いつの間にかツラトゥストラの膝に乗って、蛆のタブラ=ラーサは話していた。そしてツラトゥストラも……何も思わずに、それを受け止め、彼女を庇護するように翼で包み込んでいた。何も、思わずにだ。……その行為を誰より、蔑んできた男が。

「何の意味とてなかろうに」蛆の娘はその翼に抱かれながら、ほほほ、と笑う。

「世の戦いを書き記そうが、わらわが今こうしてお主と語らっていることなど、アレは知る由も無かろうに」

「……それは、歴史に残す価値があるのですか」ツラトゥストラは苦笑した。そして彼には、「ない」と即答する彼女が、笑顔になっていることすら分かった。蟲族の、蛆の表情などろくに知らない身で、「なんとなく」。

 

 彼は、知らない。

 その感情につく名前を。

 

 ●

 雪が溶け、花が咲いた。

 天合節がやってきた。

 

 世界中で、何のトラブルとて起こらずに、万単位の夫婦がタブラ=ラーサの御手から零れ落ちた水晶の華飾りで飾り立てた晴れ着を身に纏い、その首に水晶の華飾りを鎖につないだ誓いのペンダントを掛け合った。水晶の華飾りが爛漫に輝く、世界中の祈禱所で。人型種族も、ドラゴンも、獣人も鳥も魚人も節足種族も、液状種族も金属種族も、植物種族に至るまで、あらゆる種族が水晶の祝福の下幸せそうに笑い、結婚する。水晶の華が輝く世界で。

 五大ゼニス・セレスたちも、粛々とそれを見守っていた。新たな命の誕生、その第一歩に、華やかに湧きかえる世界を。

 暫くの間は、お祭り騒ぎだ。天の花嫁と花婿たちは特に栄養をつける。健康な子を作るために。そうでない者にとっても今は、天の花嫁と花婿たちを祝福することこそが、何よりものこの世への献身である。

 

「賑わっておるか?」

「ええ。次は自然文明を見ますか……ははあ。メイもよく取り仕切っておりますよ」

 タブラ=ラーサとツラトゥストラは、水晶玉を通じて世界中のそれを見ていた。滞りなく行われているかの監視も仕事のうちであるのはそうであったが、それ以上に、タブラ=ラーサが見たがったのだ。そしてツラトゥストラも、彼女にこれを見せたかった。

 信徒たちが笑って綺麗な結婚式を過ごせればよいと、そう望んだ彼女に。

 

 オラクル・セレス。タブラ=ラーサの祝福。

 それらはすべて、虚構から始まった。ツラトゥストラがその命を繋ぐための彼個人の一世一代の虚構から。

 しかし今この時ばかりは、真実が成っていた。

 

 タブラ=ラーサは。いったいいくつの世界を滅ぼしてきたか、いくつの命を吸いつくしてきたか分からない、ゼニスを滅ぼした怪物は。

 幸せな夫婦の祝福のために毎日水晶の華飾りを生み出し続けていたのだ。

 そしてこうして、タブラサ・チャンタラムで、彼ら全てを祝福しているのだ。

 

 天合節。ゼニスの祝福の下子孫を繁栄させる式典。けれども、目的を失ったゼニスたちに、祝福の心などあったはずもない。皆、勝手にやっていただけだ。

 今、この時、初めて産まれたのだ。虚構の神から、誠が成った。

 オラクルと名のつく組織が生まれて初めて、天合節がゼニスに見守られ、祝福される祭りとなる春が、この世に訪れたのだ。

 

 

「……ツラトゥストラ」

「はい、なんでしょう?」

「ようよう分かったことがある。……あの日、ゴスペルの下から帰った折から、薄々分かっておった気はする。じゃが、この光景を見て思う」

「ほう……いかな?」

「わらわは、無知であったのじゃ。知れて良かった。決して、無駄ではない。醜くもない。幸せな事じゃ。笑っておられることじゃと知れた。わらわはただ、『運が無かった』だけと、ようよう知れた」

 

 ……何を話しているのだか、理解はしきれなかったが。

「のう」と、水晶の瞳でツラトゥストラの方をじっと見つめ、滔々と語った最後によどみなく発せられた言葉の前には、どうにせよその意を聴く意味など大したものにもならなかった。

 

 

「ツラトゥストラ。わらわは、子を産みたい」

 

「はあっ!?」

 

 

 

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