Gott ist tot   作:hinoki08

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◆10.Hieros Gamos

 

 ●

 天合節はつつがなく終わった。

 つつがないのは、それだけではない。世界も、大人しくなった。

 遊撃師団に厳重警戒態勢を解かせても、もはやアウトレイジ討伐戦は落ち着きつつあった。不潔なスラムからは命が消え、水晶の華畑はただ牧歌的に広がり続けるだけ。遊撃師団の教育場につながれる命も、日々、少なくなりつつあり、かつ終斗の寮へ至る者は増えた。

 ゴールデン・エイジ達も、最早全員正気を失った。皆、偽りの希望への愛など頭から消してしまった。

 終斗の役割は「最底辺」であることだ。だがこれから、それが教団に齎す「見下し」は、違うものとなるだろう。暴力と野蛮、それらから自分たちが分断された存在である、という実感のみでは、これからは終斗は一般信徒たちを満たせない。

 ツラトゥストラには、その次の段階の図式もすでに頭にあった。

 

「集合なさい。懺悔の時間を始めましょう」

 終斗の中にも、反抗態度によるランクが付与された。その上級、つまりすっかり反抗の牙の抜けてしまった終斗の相手をするのは、最早武力のあるカルマでなくてもよい。

 一般信徒のうちでも上位に立つ、水晶の華から力を回収し、ゼニスに届ける役割を背負うサトリ達。それらが、上位終斗たちの教育役となる。オラクル・セレス本部の中庭、誰にでも見られる環境で、終斗達は最底辺としてさらし者にされる。

「水晶の華となり、ゼニス様の力となる。それこそが私たちの望みなのです」

 説教役のサトリに続いて、目の死にきった終斗たちがぼんやりと、その言葉を復唱する。

「さあ。それでは各々、ここに来るに至った罪を打ち明けましょう。そうして、慈悲深きクリス=タブラ=ラーサ様にお赦しを願いましょう」

 毎日、毎日、彼らは誰もが通る中庭で、自分の犯した罪を復唱させられる。反乱の末数人を殺した事だろうが、酒に溺れて寝ていたことだろうが、全ては同列。オラクル・セレスの理想足り得ないのであれば、皆同列。

 そうして、自分達は罪人だ、醜い罪人だ、それをさらけ出させたのちに、彼らは「仕事」を始めさせられるのだ。

 誰もが清らかなる魂、水晶の華畑の世話をする事を誉れとする教団で。

 彼らには、ちっぽけな植木鉢が一つ、肌身離すなと命じられて与えられる。華の形をした水晶、タブラ=ラーサが所謂「水晶の華」とは別に創造した、蕾をつけた一輪の華の形をした水晶が埋えられた植木鉢を。

 

「さあ、お前たちの与えられた植木鉢に向かい合い、祈り、瞑想し、愛を注ぐのです。誠の回心に水晶の芽は応えます。誠の回心をすれば、タブラ=ラーサ様の水晶の蕾は花開きマナを産むのです」

 罪の汚れが消えない終斗は、水晶の華の器どころか、水晶の華畑に触れる器にも足りぬ。

 だから、植木鉢から始めよ。そう、上級の終斗は言われるのだ。

 新たな見下し、とは、これだ。誰もが本物の畑を耕すことを誉れ高き献身とする世界で、いい年をした大人が、たった一つだけの植木鉢の世話をする。無知蒙昧な子供のする園芸ごっこ、その程度がお前たちができる「仕事」なのだと。

 そう、無知蒙昧な子供。牙が抜け暴力性が抜けた終斗は、「それ」として見下されるのだ。

 サトリは、笑って言う。優しく言う。

「大丈夫。大丈夫ですよ。誠の回心の前に、水晶は応えます。大丈夫ですよ。ただ純然に祈るのです。お前たちであっても、純然な心に水晶はお応えくださいます。何も、不安に思わないで」

 誰もが見ている中で、無知な、可愛い子供をあやすように、優しく言うのだ。それは、絶対的な見下しだ。敬意も、敵意も与えてやるに足らぬ相手に向ける見下しだ。

 いっそ可愛らしさすらも覚えるほどの様相を見て、一般信徒たちは思うのだ。自分達はものを知っている、自分達は賢い、自分達は植木鉢なく畑で働くほど賢い。そう、莫迦共を増長させながら、終斗たちも終斗たちでその見下しを前に、ちっぽけな植木鉢でなく畑で水晶の華を育てる行為を、唯一の誉れとして刷り込むのだ。彼らは、子供が大人になるように、目指すのだ。水晶の華を。目的の意識を育て、彼らもいずれは、水晶の華として身を捧げる。

 

 終斗たちは、水晶の蕾が植わった植木鉢に向かって、祈りを捧げる。固く閉じた蕾を見つめながら、真の回心の前にそれは花開くと教えられながら。

「……なぁ……」

 ふと、その「仕事」の中、ある男が呟いた。元、アウトレイジだった男が、ひたすらに動かない水晶の蕾を見て、その隣に座る女性、同じアウトレイジ仲間であり、姉妹だった女性に視線こそ向けねど、生気の抜けた声で呟く。

「リローデッド……俺たちはなんのために生きてるんだ?」

 不意に、その場の空気が固まる。……しかし。ばちん、と彼を殴打する音が聞こえた。

 リローデッド、と呼ばれた女性が、弟をぶったのだ。

「マトリクス、余計なことを閃いちゃダメ!」

 ……最早、カルマどころかサトリの叱責すら、要らない。

 これが、アウトレイジだったものの姿となった。世界からあらゆる無法を編み出す頭のあった彼ら彼女らは、今や答えを永遠に見つけられないか、それとも。

「ゼニスのために生きるのよ!」

 与えられた答えを妄信するかの、どちらかだ。もはや彼らに、知性は要らない。

 そして、その瞬間だった。

 リローデッドの植木鉢が、煌めいた。そこに動きが生まれた。

 彼女の植木鉢に植えられた水晶は、ちっぽけな……水晶の華とは比べ物にもならないちっぽけな花を花開かせ、この世には何の足しにもならないような粒子の様なマナを生み出した。

 これが、水晶の蕾という物質。「オラクル・セレスへの本気の信仰と水晶の華を育てる目的意識」の完成に連動して、光り輝き開花する。

 その開花を見届け、目を見張った。リローデッドが、マトリクスが。他の終斗が。サトリが。

 そんな中。ぽん、と、リローデッドの手に肩を置き、厳かな声と、端正な笑顔で囁きかける男が居た。

「蕾を花開かせたか。終斗よ」

「……センドウ、様……」

 偶然通りすがった、ツラトゥストラであった。

「よくやった。よくぞ、罪から脱した。お前は今日から終斗を抜けよ。明日以降、シダンの者たちに本格的な畑仕事を教わるがいい。ミント、彼女を連れて行け、シダンの下に」

「はい、ツラトゥストラ様」

 教育役をやっていたサトリの少女がツラトゥストラに向かって礼儀正しくお辞儀をし「さあ、参りましょう。大変に喜ばしいことです。貴女はもう、罪の存在ではありません」と、リローデッドの手を引いた。

 手を引かれ、リローデッドは中庭から、振り向かずに去っていく。アウトレイジの仲間だったもの達の方も、血を分けた弟の方も、振り向かずして去っていく。憧れた、罪に穢れていない一般信徒の居場所に向かって。彼女の目はもう、それしか映さない。

 そして。彼女が去り、彼女が開花させた植木鉢が取り残された中庭に。

 弟、マトリクスはぼうっと佇み、そしてその小さな花を見つめる。これが、ただのインチキならばどれほど彼も、疑問だけでも持ち続けられたのだろう。これが何の権能もない存在に作られたただの水晶の彫刻ならば、どれほど救いもあったろう。

 けれども、彼は教えられてしまった。これは咲くものだったのだ。生きる意味を見失う程に動かなかったのは、ただ己の至らざるが故。血を分けた姉は、咲かせられるだけの器として、自分の下からすら去っていく。もう、身分も違う存在だ。だって彼女は、自分が咲かせられない水晶の蕾を咲かせられるのだから。

 彼は何も言わず、自分の植木鉢に向かって、祈りをささげた。その様子を、ツラトゥストラは見ていた。

 

 ……こんなものか。

 家族など、こんなものか。

 アウトレイジも、こんなものか。

 

 アウトレイジを生み出した世界も、所詮こんなものか。

 

 

 アウトレイジ。お前達は、一体何なのか。

 世界から一番自由な無法者か、自由を存続させるため世界に生み出される奴隷か。

 どうにせよ、最早どちらかには、勝ったのだ。

 ひょっとすれば、世界にすら勝利を収めたのだ。この私たちは。この、莫迦しかいない世界で唯一考え生きたツラトゥストラと、その世界に変革を齎した麗しきクリス=タブラ=ラーサは。

 そうツラトゥストラは思う。

 この世はもう、完全な水晶の華畑になるだけだ。タブラ=ラーサの楽園に。

 

 ……タブラ=ラーサ、の。

 ここは、彼女の世界だ。自分がそうするように、言った。

 そして事実、そうなった。美しい水晶の華の輝く惑星に。

 彼女は、ここで幸せに暮らすのだ。ここで、永遠に輝くのだ。

 ここが彼女の世界ならば、彼女の望みは、全て、叶うべきなのだ。

 

 ……歩く途中にすれ違った女性信徒が一人。天合節の花嫁であった彼女は、センドウに向かって深々とお辞儀をした。

 だが、他人から下手に出られることほどの愉悦はないと思っていた彼は、その時ばかりは目を止められなかった。彼女の礼儀に。代わりに目に映ったのは、天合節の祝福の下、早々に身籠り膨れた彼女の腹だけだった。

 

 

 “子を産みたい”。

 それが、彼女の、タブラ=ラーサの望みらしい。

 彼女は、蝿の身で蛆を生み出す。だが彼女曰く、あれはエネルギーを実体化させて作る単なる手足、分身のようなもの。あれは、彼女の子供ではない。

 自分は子を産んだことはない。男を知らない処女だ、というのが、彼女が打ち明けたことだった。

 天合節の祭りを見て、思ったという。自分も、子を産みたいと。女として、子を産んでみたいと。

 それを望んでいた、と。

 

 それを聴いてなぜ、ツラトゥストラは沈黙してしまったのだろう。彼自身にも、分からない。

 ただ、長い沈黙ののちに、聴いた。

「何が入り用ですか」

 ……この世は、タブラ=ラーサの楽園なのだから。自分が、そうなるように作ったのだから。

 ならば、彼女の望みは、全て叶って当然なのだ。センドウである自分が、全て叶えて当然なのだ。

 しかしそもそも彼女を孕ませるだけの男をどこから調達するのだ。ゼニスすら、圧倒的に支配する彼女に。……だが、そんな疑問に彼女は答えなかった。ただ別のものを要求した。

「女人の力を多く取り込む必要があろう。それも様々な。……出産を成し遂げたことのある者が一人、処女を失ったが出産はしておらぬ者が一人、子を産める体であるが処女である者が一人、初潮を迎えておらぬ者が一人、肉の交わりではなく魔力の交わりで子を成す種族の者が一人。その五つの条件に合う、健康な状態の女人の水晶の華を授けよ。さすればわらわの体は女人の中の女人と化し、子を孕むに最適となろうて」

 ……彼女に、男など、結局必要なのか、必要でないのか。そのことすらも、彼女は告げない。

 ただ、彼女は楽しそうだった。結婚式を夢見る少女のように純粋に楽しそうだった。夜の帳が落ちらば笑う花嫁の顔は一転破瓜の痛みに歪むことなど思いもよらない童女のように、無知で、清らかな様子に見えた。

「……バイタルチェックを行い、選抜いたします。暫くお時間を頂けますか」

 漸く出てきたのはその言葉で、それに対してタブラ=ラーサは「無論じゃ。急ぎはせん。待っておる」と悠然と返すのみであった。

 

 ツラトゥストラは逡巡する。自分は何に、違和感を覚えているのだろう。

 自分はなぜ、このようなことなど為されねばいいと思っているのだろう。

 それでも、タブラ=ラーサの望みが叶うのであればやらねばならぬ、と思うのは、なぜであろう。

 

 いつから自分は、こんな「なんとなく」の感情を抱くに至ったのだろう?

 

 いずれにしても。叶ってほしくも無ければ、叶えたくもあるのだ。なぜなのだろうか。自分にとってタブラ=ラーサとは、何なのであろうか。

 しかし行動せねば、何も始まりはしない。さて……終斗の在り様も様変わりした今となっては最早カルマもさほど大量にいるべき意味はない。あれらは縮小化して問題はなかろう。条件の合う五人の女性信徒は、全てカルマの位階から選んだ。

 動かぬわけには、行かないだろう。

 それで、タブラ=ラーサが喜ぶのだから。

 

 ある夜の事だった。五人のカルマの女性が、秘密裏にツラトゥストラの勅命を受け、タブラサ・チャンタラムの一般信徒の目には触れぬ小さな中庭、水晶の如き星明りの輝く屋外礼拝所に集められた。

「コットン、ミルク、カレイル、ユキメ、インカ」彼は一人ずつ、女性信徒の名前を厳かに呼んだ。

「醜き反乱軍であった終斗たちのあれほどの回心が進んだことは、お前達カルマの献身あってこそ。お前達こそ、オラクル・セレスの誇りである。お前たちは立派な水晶の華の器。のみならず、お前達は……告げた通りだ。タブラ=ラーサ様の内密に行われる秘儀のための水晶の華となる祝福を得ることとなる。その、一般信徒にも勝る大いなる献身の末に。残忍と罵られる粛清の連射、お前のどこが聖なのかと不埒ものに呪われる禁術、そしりを受けてまでもそれでもそれらをも厭わず、水晶を信仰し神判を下し続け、罪の魂を見事清浄に導きし、救済の信徒たちよ。このセンドウたる私が断言しよう。お前たちを措いて、この秘儀に足る華の器はいない。私はお前たちを、大変な誇りと思おう。そしてクリス=タブラ=ラーサ様も、お前達の献身を、この教団の誰の献身にも勝る、自らの秘儀の糧と見做される。お前たちの献身は、ゼニス様の糧となるにも勝る結実を産むのだ、誇り高きカルマたちよ」

 彼女たちは、うっとりと聞き惚れる。その言葉に。水晶の華となる解脱を認められる法悦の前に。それこそ、男に抱かれる快楽などはこれに比べれば屑に等しいと言わんばかりの恍惚の表情で。

「マスクを外せ。お前達は最早俗ではない。タブラ=ラーサ様の秘儀の器ともなり得る、究極の水晶の華となる」

 彼女たちはそっと、マスクを外す。五人の女性信徒の美しい顔が、蝿のマスクから解き放たれて外気にあらわに晒されると同時に。

 ツラトゥストラはそっと、水晶のエネルギーをそれに浴びせかける。彼女たちは、結晶化していく。全ての思考を失い、全ての感覚を失い、屋外礼拝所の地面に、五輪の水晶の華を咲かせ根付いた。

 誰も、幸せだろう。

 彼女たちとて、幸せだ。

 ツラトゥストラは思う。自分ほど、この世に幸福をもたらす者が居ようか。水晶の華とされ蝿の怪物に喰らわれる、そんな運命は悲痛なものであるはずなのに、タブラ=ラーサがどこかの世界に来た時点で本来逃れられ得ぬ悲痛のはずなのに、自分はそれを、幸福に塗り替えてやったのだ。彼女らは恍惚のうちに華と化していったのだ。

 そう、五人の女性信徒が成った花を地面から引き抜き、ツラトゥストラは思った。思わざるを得なかった。

 自己陶酔、自己の賛美。誰も尊敬に値しないこの世で、自分を支え続けたその概念。

 最早、それに依存せねば、やっていけない。ドラッグに溺れるアウトレイジ達と今の自分はさしたる変りはない。

 この世に幸福をもたらしているのは、神たる、クリス=タブラ=ラーサではなかろうか。

 

 五輪の水晶の華を花束のようにまとめ、それを携えて彼はタブラ=ラーサの間の扉を開いた。

 

 ●

「タブラ=ラーサ様」

 きら、きら。

 ツラトゥストラの手に握られた、五輪の水晶の華束。それを見て「おお」と、タブラ=ラーサは笑った。

「これか、わらわの要求通りのものは」

「はい……どうぞ、お受け取りを」

「うむ」

 彼女は、受け取る。

 そっとたおやかな殺戮者の手を伸ばし、ツラトゥストラの手から、水晶の華束を受け取る。

 そして、普段のように運ばれてきたマナだけ吸いもせず、噛み砕きもせず、それらにそっと口づけして、マナを吸い上げた。その傍らに、この水晶の輝きすらも愛でるように。

 幸せではないか。

 なんて、幸せではないか。彼女たちの辿った運命は。

 彼女たちは、抱かれたのだ。あの、神の腕に。

「……よい。最良じゃ」

 五輪の水晶のブーケを握る彼女の身体の水晶色が、艶美な煌めきを増す。ツラトゥストラにも、薄々最早察しはついた……彼女は、「成った」のであろう。女に。結婚式を、煌びやかな宴席こそが本質と思っている様な少女だった存在が。

 美しい。

 出会った時から、タブラ=ラーサは、美しい。その中で今が一番、美しい気がする。

 この美しさを、見たかった気がする。

 ……この美しさを、見たくなかった気がする。

 なぜだろうか。わからない。

 

「ツラトゥストラ。わらわは、昔、ほんに分からんかった。命が子を成す意味とは」

 タブラ=ラーサは不意に、目の前の男に語りかけた。

「自分がいつか死ぬが故、自分の代わりの命をこの世に残すためであろうか。それが、わからんかった。わらわも、自らの身を不死身とは思うておらん。死ぬときは死ぬであろう。然れどもその際に命を繋いでいたからと言って、だからなんじゃ。わらわではなき他人が生き延びたとて、血の繋がりのない者が生き延びておるのと何が違う?分からんかった。血の繋がりなどあろうが……所詮は、自分と同じものでは、無い。ではなぜ、結ばれることが、子を成し合うことが、たいていの世界で是とされるのであろう。永に考えておった間に、その答え自体には辿り着けぬままに、ただ、『なんとなく』とでもいう他はないが……ただ、このお方様とならば夫婦となりたい、このお方様の子ならば産んでみたいと、そう思うお方様が、お一方おった」

「……それは」

 ツラトゥストラは、神妙に問いかけた。タブラ=ラーサの話に、ちょくちょく出てくる名前がある。「あのお方様」。どこの誰の事なのかもわからないまま、彼女がごくたまに口走る存在。

 初めて会った日に言っていた。彼女が力を蓄えるのは、その者にまた相まみえるためと。

「……誰、ですか?」

「深淵の帝王、アビルベル=ジャシン帝様」

 タブラ=ラーサは静かに、聞き覚えのない名を呼んだ。

「闇の中の闇の帝王。常軌を逸した力を持つ存在じゃ。アビスベル様のいらしった世界では、五元のマナが五元である必要はなかった。アビスベル様が闇であるがゆえに、全ては混沌の闇で充分であった。世界をただ自分の色に塗り替えるほどの存在。そして……わらわの力が及ばぬ、初めての存在であった。アビスベル様には、わらわの支配の力が一切通用せんかった。……故に」

 彼女はそっと、カレイル……闇のカルマだったものの華を見つめて、その闇の帝王、アビスベルに思いをはせていたようだった。

「惹かれたのかもしれぬ。今にして思えば。わらわは、支配の存在じゃ。そして支配を解せねば、どの命とも触れ合えぬ。そのような生を生き続けてきた。じゃがその支配が通用せぬアビスベル様に対峙し初めてわらわは、支配無くして、支配という名の籠の檻なくして、誰かと向きあえた。檻のなき視線。それはわらわがもう、忘れてしまった物であった。故に有難かったのであろう。あのお方様が。……あの時は分からんかったが、ようよう今になって分かったことがある。子を成したいとは必ずしも命を繋ぐためではない。檻で隔てられた番同士が子を作れるものか。檻無くして触れ合えるものと触れ合うことが幸せなのじゃ。その結晶の一つとして子というものが時に生まれる。故に子を成すことは美しいものとされてきたのじゃ。わらわはそれを、アビスベル様を通じ知ったのじゃ。檻を介さずしてわらわと向き合える初めての存在に。故に、惹かれた。隣に居たいと思うた。わらわの命令でしか動かぬ命に命令を下して愛していると囁かれたところで一体何になろう、アビスベル様は、アビスベル様だけは、そのような関係にならぬお方であったと悟った。故に、あの方にそう囁かれたかった。……じゃが、アビスベル様は……なぜであろうな。わらわのことがお嫌いの様子で。わらわは……殺されかけての。夫婦となるどころか、逃げるほかはなかったわ。故に、様々な世界を飛び回り続けた。水晶の華から力を吸い出し続けた。あのお方様とまた相まみえるために。いくらわらわが結ばれたく思うても、殺されるほどの力の差ならば元も子もない。あのお方様と再び相まみえ、今度こそ、愛しゅう思って頂けるほどに語り合わんと……それこそが、わらわが抱いていた望みであった」

「……なるほど。それで……」

 彼女はなぜ、水晶の華を求めたか。

 何故、このツラトゥストラを水晶の華にしたいと、力を欲したか。

 それらすべては、そのアビスベル、その男のためであったか。

 

 この感情は、何なのだろう。

 何も分からない、ツラトゥストラには、何も分からない。世界中の信徒たちの心理を手玉に取る彼が、自分自身の感情ばかりが分からない。

 

「この世の水晶の華畑で、それだけの力が叶いましたか。その者を呼び寄せ、貴女様の御子を成されるのですか」

「……?いや?ああ……そういえば言うておらんかった。わらわはもう、アビスベル様の事なぞ、どうでもよいぞ」

「……へっ?」

 思わずその場に素っ頓狂な声が響いたが、タブラ=ラーサはただ当たり前のように言う。「すべては、とうに過ぎたことじゃ。ようよう分かったのじゃ。わらわは別段、あのお方様に惹かれども、あのお方様を特段愛しゅう思うていたわけではなかった。ただ、自分の支配が通用せん、檻なくして語れる存在に初めて出会えたが故に舞い上がってしまっただけじゃったわ。うむ、思えばほんにそうよ。なぜ、わらわを殺さんとする方の子など孕みたいと思わねばならんのじゃ。わらわを嫌っておられる方なら無理に愛しゅう思わせる必要も無かろう。蛆の傀儡で支配した者に虚構の愛を囁かせることと最早さしたる変りもありはせん。ではなぜ欲した?あのお方様しかおらんかったからじゃ。檻なくして語り合える、ただそれ故にアビスベル様しか選択肢が無かったから、これは無類の愛と思いこむ他はなかったのじゃ。……想えばアビスベル様からすれば傍迷惑であったかのう。故に嫌われたのであろうか」

「ははあ……」

 くすくす、と、タブラ=ラーサは言う。水晶の瞳を煌めかせて。

 

「アビスベル様に愛されずとも構わぬ。わらわにはもう、お主が居る」

「……」

 

 その、水晶の瞳には及ぶべくもなき、俗物の、小さな命の瞳ではあるが。

 ツラトゥストラも、大きく目を見開いて、その目を見つめた。

 

「お主は、わらわに支配されぬ器であった。お主はわらわを前にして、わらわの恐怖も、わらわの支配も口一つで退け、かつアビスベル様のようにも、裏切り者共のようにも、わらわに害をなすことがなかった。ともにこの世界を、水晶の華畑としてくれた。わらわの危機には尽力し、わらわと共に歩み続けてくれた。わらわを美しいと呼び、わらわの傍らで安らいでくれた。蛆を植え付けられたでもない身の上で、お主は、檻なくしてわらわと触れ合ってくれた」

 嬉しいのじゃ。彼女は、笑って言った。

「そんなお主と出会えたことが、幸せじゃ。水晶の華畑にも劣らぬ幸せじゃ」

 

 それは、神の言葉か、乙女の言葉か。

 

「わらわは、お主が愛おしい。ツラトゥストラ。わらわに、お主の子を産ませては貰えぬか。生まれて初めて、愛というものに出会わせてくれた、お主の子を」

 

 神の言葉ならば、神官に与えられるものだ。

 乙女の言葉ならば、男に与えられるものだ。

 

「……タブラ=ラーサ様」

 

 ツラトゥストラはそれを、「何」として聞くべきだったのか?

 

「貴女の望みを、この私が、叶えぬはずなどありますまい」

 

 ただ、彼の返答はそれであった。

 愛を求める童女を受け入れるように、彼はそっと腕を広げた。タブラ=ラーサの巨体など、抱きしめられるはずもない腕を。

 

 

 タブラ=ラーサがほほ笑んだ。すると、ふいに彼女の伽藍洞になった胴体の中に、きら、きらとエネルギーが結晶した。

 水晶よりも透き通る、まさにゼロ、まさに透明というに相応しい輝き。その輝きは凝固して、ゼニス・セレスにぶら下がる蛆人形のような姿になる。

 しかし、それはあのただのグロテスクな白い人形ではない。

 それは、白い、白い、タブラ=ラーサのように純粋無垢に白い人型種族の少女の姿をしていた。白い襤褸を纏った少女。

 そして、ツラトゥストラにはわかった。言われずしても。

 輝く蝿の神、暗い色の蛆。そして、「これ」も、クリス=タブラ=ラーサ。

 

「来ておくれ」

 タブラ=ラーサの声に合わせて手を差し伸べたそれは、タブラ=ラーサの魂の化身であった。

 小さなツラトゥストラと触れ合うため、ただそれだけに、彼女が作り出したアバター。それにして、彼女そのものの本質。ただそれに、ツラトゥストラと似たような形を取らせただけの。

 ふわり、と、ツラトゥストラは翼を広げ、自分に向かって手を伸ばす、その魂に向かって飛翔した。水晶の瞳そのものの身体が、彼を見つめた。その手が、彼の手を握った。

 それと同時に、静かに、タブラ=ラーサの胴体が閉じた。

 

 

 そこは、彼女の胎内は、真に水晶の神、タブラ=ラーサの空間であった。

 何もない、虚無。上も下も分からない。

 ただそこに、夜空に星が煌めくように、無数の水晶の力が煌めいている。その中で、上下逆さになりながら、ツラトゥストラは自分と手を握り合う、この空間で何者よりも水晶色に煌めく、物言わぬ水晶の少女を見つめた。

 襤褸を纏った水晶の少女。

 その襤褸は、よく見れば乞食のそれではなかった。まるで、狼藉物に無残に破かれた花嫁衣裳の様だった。花嫁となる前に花婿に棄てられ、花嫁の祝福を得られることなき存在と化し、それでもその襤褸を纏い続ける少女が、そこにいた。

 タブラ=ラーサ。

 貴女は一体、何者か?まるで母の胎内のような空間で、彼はそう心の中で問う。偉大なる神、自分が神に祭り上げた怪物、そして、何も信じなかった自分が彼女の下でなら安らげた存在に。

 それが、自分を抱きしめつつ。

 僅かに、震えている。男というものを始めて受け入れる恐怖の前に。

 知っている。

 こんな存在は、彼は何人も知っている。天合節のたびに、出会ってきたのだ。

 自分の子を孕むことを幸福と知れども恐怖する、処女という生き物には。

 

 だから、静かに抱き寄せた。上も下もない空間で。

 大いなる水晶の力に満たされながら、白く大きな翼で彼女を包み、優しく、笑顔で囁いた。

「大丈夫。恐れることなど、何もありません。タブラ=ラーサ様」

 男を求めつつ、男を恐怖する幼い処女を、優しくなだめた。

「私に、全て身をゆだねて」

 こくり、と、襤褸の花嫁タブラ=ラーサは頷いた。

 

 

 一体、何であったのだろう。

 偉大なる神の胎内で、その神の処女を破るという行為は。

 神が、小さき命に身を任せるとは、何だったのであろう。

 

 矛盾だ、全て、混沌たる矛盾だ。

 無にして有であったシャングリラ・ファンタジアなどこの圧倒的理不尽に比べればなんでもない、ただのこの世の存在にすぎぬ矛盾だ。

 どこの世界に、胎児に自らの処女を破らせる女がいるものか。

 

 だが、いたのだ。

 シャングリラ・ファンタジアが無でありながら有としてこの世に実在していたように、ただ、処女の身で妊婦となり、夫を胎児の如く身に宿し、神にもなり得る強大でありながら小さき命にすべてを委ねるクリス=タブラ=ラーサは実在したのだ。

 

 オラクルが、矛盾していたように。

 ゼニスが、矛盾していたように。

 彼女も、矛盾した者であった。

 

 

 タブラ=ラーサの身体が開き、巨大な水晶の蝿の方の彼女がそっとツラトゥストラを抱き上げ、囁いた。

「ありがとう」

 ……幸せそうに笑った、その顔は。

 

 恋を実らせた清き乙女のそれであった。

 全てを胎に宿し得る太母のそれであった。

 男を求めた淫靡な妖婦のそれであった。

 神秘的に輝く水晶の女神のそれであった。

 

 それに、心動かぬ道理などあるまい。

 彼女は、女というものが持ち得る魅惑の全てを得た存在として、この世の全ての女の美徳を宿したにも等しき存在として、ツラトゥストラという男ただ一人の前にのみ君臨していた。

 

 あるまい。心動かぬ道理など。

 

「何を、お礼を申されることが」

 ツラトゥストラには、分からなかった。自分の感情が、彼は自分のとある感情を理解する心だけが、本当になかった。無かったから、自分が「そう」思ったことすら、彼は自覚できなかった。

「私は、貴女の幸福の守護者です」

 彼は、微笑んでいた。本心から、幸福で微笑んでいた。タブラ=ラーサが喜んでくれたことが嬉しい。彼女が自分と結ばれたことを喜んでくれたことが嬉しい。何より美しい存在となったタブラ=ラーサが愛おしい。それも間違いなく、彼の本音であった。

「愛しております。タブラ=ラーサ様」

 だから、ただでさえそれもそれで本音である中、元から「ある感情」は自覚できない彼は、最早絶対に気付けたはずがなかった。

 その言葉の裏で、自分がこう呟いたことを。

 

 

 “貴女すらも、そうだったのですね”。

 

 

 

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