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タブラ=ラーサは身籠ったらしい。彼女は、子を産むためとどこへも知れぬ空間に身を隠した。
連絡役となるのは、あの日ゴスペルの下から彼女が連れて帰った、何も宿さないゼロの信徒……タブラ=ラーサが自分の直属扱いにすることを決め、ツラトゥストラが「クリス」の位階を与えた信徒たちだ。
暫く、最高神が身を隠す。元々早々表には出ない彼女ではあるが、理由一つのみは伏せてツラトゥストラは信徒たちにそう言った。
タブラサ・チャンタラムに君臨するのは、彼のみとなった。
彼。
水晶のセンドウ、ツラトゥストラ。
昔の名をば、遊撃師団の先導者、ゾロスター。
その男は、全てを見下していた。すべての上に立つことを望んでいた。
オラクルも、ゼニスも、邪魔だった。何の尊敬もおく価値がないことを、彼一人は知ってしまっていたから。
ゼニスのいない世界で、自分だけが君臨する。それこそが理想であった。
気が付けば、その理想はどうなっていたか。
オラクルの教主は最早、偶像の価値しかない水晶の薔薇になった。
シャングリラ・ファンタジアは、誰も立ち入れないゼロの地下聖堂で永遠に眠っている。
ゼニスたちは、ただの蛆人形で支配される操り人形でしかない。
そして、タブラ=ラーサは。
彼女は、違った。
何の価値もない存在ではなかった。
神だと思った。美しい命。誰も見出さなかった、見出すだけの頭が無かった自分の価値に手を差し伸べてくれた。
そして、自分を求めてくれた。何としても。神官としても、夫としても。
彼女は今や、「そんな存在」であった。
タブラ=ラーサ様。私を、愛していると。
ええ、私も愛しています。
愛していますとも、タブラ=ラーサ様。
「お可愛い」タブラ=ラーサ様。貴女はあれほど強くとも、もはやこの弱い私が居なくては生きて行かれぬのでしょう。強く、弱い、矛盾の方よ。蝿ながらに美しい矛盾の方よ。処女の身で胎児に子を孕ませる、矛盾の方よ。
大丈夫、私は傍らに居続けますとも。私も、貴女を手放したくありません。
貴女は、私のものなのです。貴女が私に、身を差し出したのですから。
貴女は、私のものであり。
貴女のものは、私のものであり。
貴女の世界は、私のものなのです。
タブラ=ラーサは今、タブラサ・チャンタラムにはいない。
最高神が身を隠す不安をかき消すのは、全てツラトゥストラの役割だ。世界の全てが、自分を頼る。すべての信徒が、自分一人を頼り、何も考えずに、自分の考え通りに動く。
自分を見る。
全てが、自分を見ている。すべてが、自分に傅く。
ここにいないタブラ=ラーサすらも、もはや、自分の腕の中に身を委ねた存在だ。
いつしか、完成してしまっていたのだ。ツラトゥストラの理想とした世界は。
それだけでは、無かった。
彼女の胎内に飲み込まれた日以来、ツラトゥストラの身体に宿る水晶の力は、あからさまに増幅していた。理由などもう明白であろう。水晶の力の怪物であるタブラ=ラーサの胎内に直接飲み込まれた影響だ。
タブラ=ラーサを介さずとも彼は、彼女が出来た権能を行使できた。五大ゼニスたちの感覚も把握できる。水晶の華だけでなく、水晶の蕾も産み出すことができる。彼女が居らずしても、もはや彼女の水晶の力に完全に身が染まったツラトゥストラだけでも、オラクル・セレスは廻る。
オラクル・セレスとは、タブラ=ラーサの力と、ツラトゥストラの叡智によって生み出された教団なのだから。
何も知らない、ただ狩り尽くすことしか知らなかったタブラ=ラーサの力までもがツラトゥストラに宿ってしまえば、もう、それは、彼の教団なのだ。
世界の全てよ、私に傅け。
私より愚かであった命は全て、我が前に傅け。
シャングリラには腹の肉があったではないか。かつての教主には、目的意識があったではないか。タブラ=ラーサすらも、結局。結局。
……結局、「何」であるのだろう。
けれど、これは分かる。
ゼロでは、ないのだ。無垢の顔で、神秘の顔で、子を産む彼女は、ゼロではない。
そもそも無が、無欲が、無垢がゼロという考えこそがおかしいのだ。
欲にまみれて、なぜ悪い。誰より欲にまみれた私こそが、この世の頂点に立ったではないか。
この莫迦しかいない世界で、ただ一人欲を知り、欲を恥じず、欲のために生きてきた自分こそが、今や神にも無法者にも勝って、何にも縛られぬ自由だ。
ゼロとは、「それ」ではないのか。そうだ、誰も矛盾していたのは、下手に無であろうとしたからだ。生命なら何かがあって当たり前なのに無を気取るから矛盾が発生するのだ。最初から、欲を肯定すればいい。自己を肯定すればいい。それでこそ矛盾なき、清らかな存在だ。目的意識から究極のゼロの華が咲くように、何かを持つ者こそが、ゼロなのだ。何にも縛られぬ自由なのだ。
我こそが、真のZEROだ!!
……クリス=タブラ=ラーサ。
それは、彼にとって何者であったろう。彼は、ある感情を知らないのだ。
「それ」を、誰も彼に教えてはくれなかった。
世界の民は、ツラトゥストラに目的を教わった。
タブラ=ラーサは、ツラトゥストラに安らぎを、宗教を教わった。
では、彼に「それ」を教える者はどこにいた。
ゼニスは何も考えない。オラクルは何も考えない。反逆者たちは皆小物。タブラ=ラーサは、無知なる少女。
彼が一体、誰から教わることができたというのだ。
世界を狂わせたその男なれど、その無知ばかりは、何者が罪と定義できるのか。神すらも死んだこの世界で。
世界に遍く、衆愚共。
お前達の仕事なぞ、一つしかない。私が居なければ何も生の道を見出せなかったお前たちにできる仕事なぞ。
この世を、水晶の華畑にするのだ。この体になってから、水晶のエネルギーがあってもあっても足りない。
この私に、水晶の力を捧げよ。
この私のために華を咲かすのだ!
彼は世界に謡い上げる。「自分」に付き従う世界に。
この世を、最初は、誰のものにすると自分自身が言ったのかも、もはや忘れて。
けれども、当然なのだ。もうそれは少なくとも、麗しい水晶の世界をただ捧げてやるほどの存在ではない。
彼は、自覚できない。知らないから。
美しいその姿を、彼は、神の姿かと思った。神と言われておきながら神らしきことなど何もせずただ天空にぶら下がっていたシャングリラ・ファンタジアを屠ったその姿は。
神とは、何か。彼はずっと、物見塔の上で考えていたのだ。
オラクルで唯一ゼニスを信じていない身で、ずっと誰よりもありのままのゼニスを見続けていた。だからこそ、彼らがただの虚無であることを知れたのが彼だった。
ではゼニスがだめなら、神とは何なのか。それを、彼女は教えてくれたような気がした。
理不尽なまでに強かった。
圧倒的に美しかった。
有無を言わせぬ、神秘の存在だった。
けれども、彼女は、一つの命であった。そして彼女が一つの命としての顔を見せたその時、「その感情」さえ芽生えていなければ、彼はきっと彼女を拒絶し、清らなる神を信じたままに死ぬことができたのであるだろうに。
蛆と化し、小娘のように泣きじゃくる彼女。神ではあり得ぬ彼女を、ツラトゥストラはただそのローブで覆い隠し、護った。護ってしまった。その瞬間から、彼の矛盾は産まれた。
彼は神としてのタブラ=ラーサを崇め、かつ、一つの命としてのタブラ=ラーサに寄り添う存在となった。
その感情とは、何か。
誰も、尊敬できない。
全てが、自分より莫迦だ。
そうなってしまっていたこの世界で一体誰が、ツラトゥストラに教えてくれたのだ。
「忠誠心」という感情を。「愛」と名のつくその想いを。
彼は、忠誠を自覚せずしてタブラ=ラーサに尽くしたがった。自分をこの世で唯一と見出してくれた存在を。
彼女のためなら、何でもしてやりたかった。この世を彼女のための華畑にしたい、それは間違いなく本音であった。
けれども、それならばそれで、ただ強き命が到来しそれに忠誠を誓っただけの感情であればどれほど良かっただろう。
彼は、ただ神と教わる者を神と崇めていればいいだけの世界で、本物の神の概念を考え続けていた彼は、タブラ=ラーサに、大きなだけで一つの命でしかない彼女に「神」を求めてしまっていたのだ。
忠誠心故に、そしてそれから芽生えた愛おしさゆえに、愛ゆえに。神ではあり得ぬ彼女の側面を、全部受け止めた。受け止めたかった。受け止めたくなどなかったのに。彼女を神と思いたいならば。
そして蓄積した矛盾は、一息に瓦解したのだ。
神が、一人の男の腕の中で身を任せる処女と化すなどありえない。その光景に、彼は飲み込まれたのだから。自ら望んで飛び込んだのだから。タブラ=ラーサが美しいから。愛おしいから。タブラ=ラーサを、どれ程偉大な権能を持つ男にも渡したくないほど愛していたから。
彼女の処女とともに、彼女の神性は完全に死んだのだ。ツラトゥストラの頭の中では。
そして矛盾の存在、崇めるに足りぬ神を前にして、結局ではどう生きればいいかを、もう彼はすでに知ってしまっていた。
すべて、見下せばいいのだ。自分だけを信じていればいいのだ。この世に、神などいない。それでうまくやれていたのだ。
クリス=タブラ=ラーサ。彼女は、ただ艶やかで大いなるだけの命。こんな非力の、口と頭が回るほか取柄など無き自分なしでは生きていけない、可愛らしい水晶の乙女。
華よりも、人よりも、蝿の貴女が愛おしい。
愛してやりますとも、せいぜい、愛してやりますとも。この世で共に暮らしましょう。水晶の華を食らって、いつまでも共に暮らしましょう。
わが「妻」よ。
この世は私が支配するから、貴女は存在さえして下さればいいのです。私の妻に成り下がろうとしたのは、貴女の方なのですから。
貴女が、私を胎児の夫にしたのですから。
彼は、神を自覚すらせずして喪った。
神に自ら我を殺せと迫られ、そして、神を殺した。
世界の誰もがクリス=タブラ=ラーサを神と崇める世界で、ただ一人、ツラトゥストラの見る世界では、「神」のタブラ=ラーサは死んだのだ。
彼は、玉座の上で待っていた。美しい妻の帰還を。神をこの世から消した仇の帰還を。
「……そうか。ツラトゥストラはそのように……ご苦労じゃ、ケンギョウ。……はて?……ほほ、別段、わらわは怒りなどせぬ。そうか、あやつは、神と崇められたかったのじゃな。持たずして産まれた身の上で、それでも上り詰めた……結構ではないか。立派なことじゃ。……ふむ。それに関しては……仕方がなかろう。他人に、期待などできぬのじゃ。支配の力を経ずしてなにもかもわらわの思い通りに動く者など、おらぬが当然であろう。それにわらわはそれでも、あやつが愛おしい。わらわは神の座など望まぬわ。安寧があれば、それでよい。最早アビスベル様に相まみえたいとも思わぬ今のわらわには、ツラトゥストラさえ居れば、幸せなのじゃ。あやつの思惑がどうあれ、あやつは世界を滅ぼす気など無かろう。ないのなら、安寧が維持されるはずじゃ。安寧が守られるのであらば、わらわはそれで良い。あやつがわらわを厭い世界から追放せんとでもせぬ限り、わらわは……うむ?どうしたえ、アラカン。……なに?」
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世界が、騒めく。
センドウは最早、神にも等しい。ゼニスたちがアンノウンを従えるように、センドウ、ツラトゥストラもアンノウンを従えた。
いや……「産み出せた」のだ。ツラトゥストラは、アンノウンを。何者とも知れぬ、自分に絶対服従するだけの命を。
そして、それは。
明らかに、タブラ=ラーサの持ってきた蟲兵たちと一線を画す力を持っていた。アンノウンの頂天、アンノウン・セレス。水晶のマナを宿す、神の如き強大極まる蟲兵。
それに、「コード」なる位階を与え、ツラトゥストラは従える。ゼニスでもない身で、ゼニスがアンノウンを従える傍らで、アンノウンより上に立つものを従える。
そして、それは。不思議に、彼の力で産みだされたそれは。
蝿の姿をしていた。
蝶でも、蜻蛉でも、蠍でも、蜂でも、甲虫でもなく。そして、タブラ=ラーサのような蝿でもなかった。
ただの蝿のようなアンノウンだった。体中を鎧に覆い、その下で肉が盛り上がり、淀んだ色の身体をした、グロテスクな命。あの愛しいタブラ=ラーサの優美さとは似ても似つかぬ、醜い蝿。
彼女が、アンノウンを軽視していたのも分からなくもない。と、ツラトゥストラは彼等の醜さを心の中で軽視した。
けれども、信徒たちは彼等を美しいと崇める。自分が美しいと言いふらせば、信徒たちは美しいというからだ。この蝿の化け物を。
そうとも、そうとも。それが、この世界なのだから。
「さあ、諸君!」ツラトゥストラは信徒たちに号令をかける。
「崇めよ、水晶の美しさを!水晶の力によって生まれし美しきアンノウン、聖斬のコード、アシッドの導きに従い、水晶の華畑を広げるのだ!」
悍ましい、見たくもないほどに醜い姿の蝿の怪物を、口の上でだけ美しいと言い、信徒に従わせる。
信徒は、従う。春が過ぎ、夏が来て、不潔なごみ溜めには本物の蝿がたかる。その蝿すらも、信徒たちは宝石を眺めるように見つめる。
この世は、蝿こそが美しい世界だから。
「美しい」アシッドに、アンノウン・セレスに、彼らは従う。
愉快だ。
実に、愉快だ。
この世全てが、私のものだ。美も、醜も、自分が定義する。
こんな小さな命の私が、シャングリラすらも成し遂げなかったことをしている。それを噛み締め一人、タブラサ・チャンタラムの神の間で、ツラトゥストラは笑っていた。なんだ、神とは、こんなものじゃないか。
神とは、こんなものじゃ……。
「……ツラトゥストラ」
不意に、久々に聞こえる声がした。ツラトゥストラが後ろを振り向くと、そこには……アンノウン・セレスとは似ても似つかぬ、麗しの水晶の蝿。クリス=タブラ=ラーサが居た。
「タブラ=ラーサ様!」彼は笑顔で振り向いた。
「お久しぶりです。お帰りになったと言うことは、無事に子を……」
「……アレは、なんじゃ?」
その時。
ツラトゥストラは、ぎょっと慄いた。
非常に、冷たい視線、いや……違う。恐れているかのような視線。
なんだ?彼女のこんな感情は、見たことが無い。
彼女の声が、震えている。
「アレ……?」
「世界が、崇めておる……あの、蝿どもを……センドウたるお主に従うに相応しい美しいものと……ゼニスにも並びし、センドウの力によって産み出された人造神と……」
「ああ、コードたちですか」彼は言った。
「貴女の身体に入った影響なのでしょうか。私の身体に水晶の力が満ち、そして産み出せた者共です」
「そうか……お主の、被造物か」
「ええ」
「そうか。お主も結局……夢見る神の姿とは、あれであるのか」
「……タブラ=ラーサ様?」
変だ。
彼女はどうして、こんなに、震えている?
「お主も……お主も」
その時だった。
視界が、白に染まった。あの日と同じように。そして、あの日の「先」に進んだ。
タブラ=ラーサの腕が、ツラトゥストラを掴んだ。
「美しいと……美しいと、言ってくれたに。このわらわを。こんな、わらわをも」
「……え?」
「お主は、お主ばかりは、美醜などに心を惑わされぬ。惑わされずしてわらわを愛してくれる。そう……想っておったに。故に何をしようが、許してやろう気でおったものを。どんな支配の力を得ても、あの日の苦しみばかりは注げぬ。永遠に苦しみ続けるつもりでおった。それを注いでくれるお主ゆえ、いつまでも、傍らに居たかったものを」
ああ。
抱かれて、いる。
とっくに諦めた神の腕に、自分は今、抱かれている。本来ならば、初めて出会ったあの日、あのまま抱かれるはずだった瞬間に、戻ってきた。
「お主すらも、結局、美しいものが良かったのか」
……彼女は、何のことを話しているのだろうか?だが、弁明ができなかった。
「なぜか」、もう、体が動かなかった。感覚が、薄れていく。自分の身体は今、どうなっているのだ?
……ツラトゥストラは、矛盾に気が付いた。
嗚呼、結局、自分も矛盾の存在であったのか。
不思議だった。処女を失った彼女の手の白も、変わらず無垢の白だった。
神として見切りをつけたはずのタブラ=ラーサの御手の中で、結局自分は、安らぎを感じている。
見切るとは、何だったのだろう。神とは、愛とは、信仰とは、何だったのだろう。
矛盾とは、ゼロとは、何だったのだろう。
自分は、何が、欲しかったのだろう。
目が、もう見えない。
彼女は、何を思っているのだろう。
この声は、怒りですらない気がする。
「……のう」
彼女の声が聞こえた。……聴覚すらもかすれていく中でただ、彼女の声が聞こえる。
「……わらわは……どうすれば良い。教えて……たもれ。お主の……お主のおかげで、ここまで来れたわらわに、お主は……何を告げる。何を残してくれる」
……タブラ=ラーサが、自分を、求めている。
何か、言ってあげなくては。
何を言えというのだ。神ですらない小娘に。
早く言ってやらねば。心から愛した水晶に。
「……子を、産んだ……こと、を……」
「硬直」してしまった喉から、ツラトゥストラは必死で声を絞り出した。
その必死は、何ゆえだ。なぜ、必死でそれをしたいと思ったのだ。
「隠し、続けて、下さい……貴女は……清らかな……処女のまま……その身で……ゼロの神足り続けるの……です……真実が、どうで、あろうとも……」
彼にとって。
「……承知、した……」
タブラ=ラーサは、結局何であったのだろう。
五感の全てを失う中、最後に聞こえたのは、ころん、という音。
……ああ。
タブラ=ラーサが、泣いている。
はやく、自分が慰めてやらないと……。
それが、彼が最後に覚えた「思考」であった。誰も何も考えない世界でひたすらに考え続けた男が最後に得るにはあまりに小さな想い、世界の全てを奴隷にしたほどの邪悪な男が最後に得るにはあまりに優しい想いを最後に、彼の思考は停止した。
彼にとって、タブラ=ラーサは、結局何であったのだろう。
「……大丈夫。大丈夫じゃ。きっと、わらわは出来よう。お主と暮らした時間は、ゼロに戻ったわけではない。この世が定義しようとも、わらわがそれを許すものか。わらわはもう、無知なる者ではない。お主を見ておった。きっと、お主の創ったこの教団を動かせる。世界を、水晶の華畑とできる。……のう?例えば、こうであろう?お主を喪い、皆、上へ下への大騒ぎじゃ。不安であろうの。お主なら……この不安に、新たなる祝福を、安心を見せることで、奴らを満足させるのであろう。大丈夫じゃ。きっと、わらわは出来る。お主とともに歩んだ時間がある限り……行け。わらわの子にすらなれぬ子よ。代わりに、この世の神に君臨するのじゃ。扇動者を喪い不安の最中に有る民を、安心させる新たな神として。……コード……そうか、ツラトゥストラの被造物はそう呼ばれるのであったか。ではもう、ツラトゥストラの子であるお主も、それでよかろう。いざ行け。この世に飛び立ち、ゼニスに祝福され、水晶の色に輝くのじゃ。新たなる神。麒麟のコード、シューゲイザー」
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世界は、また一つ変わった。
先導者ツラトゥストラが、ついに「ゼロの祝福」に達したという。それを告げ知らせるのは、タブラ=ラーサの直属のみ使い、クリス達。
そして、その新たなるステージにあたり、一柱の、凛々しく輝く蝿の神、麒麟のコード、シューゲイザーと名づけられしアンノウン・セレスがオラクル・セレスの前に輝いた。
その周囲には、五文明から五大ゼニスたちが集まった。最も若き神の誕生を祝福するかのように。水晶の輝きが、タブラサ・チャンタラムを包み込んだ。
民は、沸き返った。先導者ツラトゥストラがついにゼロに達した喜びに。今まで何も考えてこなかった自分たちを導いてくれた賢者が消えた不安に。それをかき消してくれる新たな煌びやかな神の誕生の興奮に。
誰もが、あらゆる感情に沸き返っていた。
誰も、気付けなかった。
タブラ=ラーサの動揺。それが世界にもたらした、ほんの小さな変化に。
彼女の支配の権能に、わずかなひずみが生まれたことに。それこそ、支配への執着心故に被支配者たちの機微には異常に聡かったツラトゥストラなら、あるいは気付けたかもしれないが。
何故、ソレはそこにたどり着いたのだろう。光文明に直帰することなく。
タブラサ・チャンタラムの地下。誰も参拝することは許されない、完全に封じられ「無」と化した空間、無の聖域、シャングリラの聖堂。
そこには、かつてオラクル教団に飾られていたシャングリラ像があり、そして完全に動きを停止したシャングリラが放置されている。
そしてそこに、一人のアンノウンが佇んでいた。
微動だにせず、シャングリラの前に、甲虫族のアンノウンは立っていた。そして、ソレはそのアンノウンを見てしまった。その言葉を、聴いてしまった。
「……ェ、ヨナ……」
なぜ、あのアンノウンは、動かぬシャングリラに話しかけていたのか。もはや打ち捨てられた、ただの無に。
「ツマンネェ……ヨナ……」
それを見て、一人のゼニス・セレス。
光を守護せしライオネルの「支配」にひずみが生まれたことを、その時は、誰も知る由などなかった。