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「ツラトゥストラ。思い出すの」
水晶の華が一輪、産まれていた。
今までこの世界に生え出でた全てよりも、巨大な、巨大な花びらを広げるそのさまは世界の王かのように、世界を統べる神かのように、全ての華を圧倒せんばかりであり。
しかしそれには根もなく、茎もない。地面は愚か信徒達に丁寧に育てられる畑にすら生きられそうもないその華だけの華は、タブラサ・チャンタラムの最深部に根付いている。
大きく、大きく広げた花びらの華麗さと裏腹にその中央部は虚無の如く孔が開いている。
ラフレシア。自然文明に咲く、蝶も蜂も寄り付かず、腐肉の如き悪臭で蝿を呼び寄せる悍ましき花。奇しくもその水晶の華はそれに酷似していた。
「お主と初めて会ったとき、わらわは言った。わらわは、裏切りが嫌いじゃ」
そこに、タブラ=ラーサに付き従ったジャスティス・ウイングの男はいなかった。にもかかわらずタブラ=ラーサは、その男の代わりに、その男の名を呼びながら、その華に話しかけている。
「のう。裏切りがなぜ残酷な行為たり得るであろうか?」
彼女は、見つめていた。
水晶の華を見つめていた。
彼女にとっては食べ物でしかなかったはずのそれを、まるで本当に、美しい宝石を眺めるように。
宝石を食べようとするものなど、いない。腹など満たさないけれど、存在しているだけで価値がある。そんなものを見つめるように。
「わらわは思う。極楽から地獄へ堕とすことこそが裏切りの残酷というのなら、それは、それしきしか知らぬ幸せ者の甘え事じゃ」
力を吸い出す様子など何も見せず、優しげに巨大な花弁を撫でるその手には、ただ、慈しみの感情が溢れているかのようであった。それも、神が民草に抱く慈しみ、そのような高尚にして、中身のないものではない。
低俗で、低俗なればこそ、それは水晶の輝きに勝って美しい。愛と呼ばれる輝き。
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蟲の世界があった。
蟲たちが花を育ててその蜜を吸って暮らす平和で美しい世界。その中に。
「異形」と呼ばれた醜い男がいた。
「怪異」と呼ばれた醜い女がいた。
蟲の世界の常識から外れた、肉がところどころむき出しになった身体。異常に多く生えた手足。悍ましいという他はなく、誰もが彼らを嫌悪した。
それはいい、そこまではいい。どんな世界にもはぐれ者は産まれよう。
そんな二人が出会った。そして二人は、醜いと分かっていて、目の前の女を、男を愛した。自分と同じ苦しみを抱えて生きてきた命を。
それはいい、そこまではいい。忌まれるものとて、愛は求めよう。世界のただ一人とでも愛し愛されたのならば、全てに忌まれるより幸せだろう。
だが、タブラ=ラーサは呪う。
なぜ、世界から忌まれる醜い身でまぐわった。醜い自分達から醜い子が生まれるかもなどと考えずにまぐわったのか。醜い仲間を増やし醜い者同士で生きたかったか。それとも自分たちなど何かの間違い、産まれる子はまともな姿のはずだと期待をかけたのか。それとも、それとも。世界でただ一人ではないと知られる愛に飽き足らず肉欲までも求めてしまっただけの結果か。
異形と怪異の間に、娘が一人生まれた。
だが、卵を破って出てきたその姿に、まず両親が。そして程なくして世界中が驚いた。
異形も怪異も蝿族であったがゆえに、産まれた娘は当然蛆虫。
そして、彼女の姿は。
美しかった。
ただの蛆とも一線を画す、全てを包み込むような優しい闇色。一目見るだけで手にその感触が伝わり情に燃え上がらんばかりに、幼虫らしくふくよかで柔らかそうな体。そこにはかなげに煌めく、煙水晶の如き瞳。蟲の世界においての彼女は生まれたての赤子とも思えぬ、想像を絶する、美そのものだった。
余りに、それは美たり得た。そしてそれは、畏怖を灯す美ではなかった。
情欲を灯す女性美だ。いや、情欲?そんな詩的な言葉は使えない。
生殖欲求を呼び覚ます美だ。
蛆の娘は「女」として、あまりに完璧だった。
男でさえあれば、絶対的に引き寄せられた。
蝿族だけではない、蝶族も、蜻蛉族も、蠍族も、蜂族も、甲虫族も。蟲の世界に生きる彼らにとってそれは、生殖の対象という概念そのものが顕現したかのような美女だった。ただの生まれたての子供なのに。
それは美でありすぎていた。彼女を前にして「求愛」など文化的な過程は入れる余地も生まれ得ぬほどの絶世を超越した美であった。
ただ、男たちは彼女を前に本能に振り回された。コレと子を成すことこそが生物として生まれた意味なのだ、そのような本能一つを呼び覚ます女性美そのものを前に自我など失われる。悠長に求愛など行っていられない。この女に一刻も早く自分の子を産ませねば生命としての意味がない。
生まれたての身で彼女は、そのような肉欲を、出会う全ての男から向けられた。産まれたばかりの身で。
自分に向けられるのは。女になど成り切っていない、どうせ子供も産めない自分に向けられるのは。
そんなことも忘れさせる圧倒的な美を、彼女を貫かんと襲い来る、醜い性器と性欲。外殻に覆われない肉の身を有する異形をあざ笑い迫害した者たちが、隠す気も無しに彼女の前ではそれをさらけ出す。自我も、理性も、失って。
ただ、美しく生まれてしまったから。
異形の父と怪異の母は逃げ惑った先で、彼女を籠に閉じ込めた。
そこでようやく、蛆の娘は安心できた。世界から隔たれた。
籠の中に居れば、自分を犯す性器は通らない。籠の中で彼女は過ごした。他者から隔てられて産まれて初めて彼女は安寧の概念を知れた。
そして、知った。
自分を抱こうとする世界の全ては皆、所詮自分の苦しみは見ていない中で。
異形と怪異の両親たちも、自分の苦しみなどどうでもよかったのだ。
これほど美しい娘は、どれほどにまで、絶対的な美を持つ大人になれるだろう。今でこそ弱い身だからこそこのように逃げ回りもしようが、もしこれほどまでに世界を狂わす美が大人になれば。
それは、きっと、何者にもなれる。彼女の美は全てを支配できる。
そうすれば、産まれた時から忌み嫌われた自分達にも居場所ができるはずだ。最も美しきものの親として。
蛆の娘の存在意義は、両親にとって「それ」であったことを彼女は理解した。
両親が彼女を連れて逃げ惑ったのは、彼女を籠に閉じ込めたのは、娘を恐怖から護るためではなかった。いずれ現われる世界一の美女を処女のまま留めおくため。その方がより一層価値が出るため。
その方がより一層、自分達が世界に暮らしてもよくなるため。
それでも、よかった。全てを知って蛆の娘は受け入れた。
他者から隔てられる安寧が籠の中にあるならば、よきことに変わりはないのだ。
籠から、出たくない。
大人に、なりたくない。
あの感情を自分はどんな男から、何人の男から、一身に浴びせかけられるというのだろう。羽化したその日には。両親が、世界から認められるその日には。
そんな日がせめて来ぬ事を、彼女は願った。
自分のことなど、いっそこのまま誰も忘れてしまえばいい。誰からも、見られたくない。自分の姿を。
しかし世界が彼女を忘れることなどなかった。
蟲の世界で最も美しく強大な、蝶族の支配者「水晶の王」。それがとうとう、数多の犠牲の末に彼らの隠れ家を突き止めた。
そして、異形と怪異の両親は。
我が宮殿で、我が庇護下で暮らしても構わぬ、この娘を産んだお前達ならば。その言葉、その、産まれた時から切望していた言葉を最も美しい者に与えられたが故に、あっさりと水晶の王に娘を売った。
水晶のように煌びやかな巨大な翅を持つがゆえに、水晶の王と呼ばれた蝶族の支配者。
それでも、いくら彼の翅が輝こうと。
自分を欲に満ち満ちた視線で見つめる彼は、蛆の娘には恐怖でしかなかった。彼のその目の輝きの前に、彼の翅の輝きなど、何でもないように思えた。彼の目、複眼の一粒一粒こそが、世界の全ての男が自分に向ける目と、蛆の娘には思えていた。
羽化するまでお前は誰の目にも入れさせはしない。水晶の王は彼女を籠から出しはせず、黒い帳をその籠に被せた。真っ暗に閉じ込められた時間だけが、彼女の安寧だった。
けれども、いつその帳は開くか分からない。それは彼女の自由にならない。夜が明けるように帳が開き光が差し込むと、光に包まれて、そこに輝く水晶の王が居る。欲に輝く王が居る。沢山の蜜を滴らせる花束を、毎日毎日、彼は花嫁に捧げた。そして、呪いのように籠越しに語り続けた。
さあ、もっとたくさん蜜を食らえ、早く羽化しろ。早く成長しろ。
早く、大人になったお前の姿を余に見せよ。
いとしい、いとしい我が花嫁。この余に釣り合うであろう美しい花嫁。
お前に、妃の冠を被せる日が。
お前をこの手で抱く日が待ち遠しくてならぬ。
怖い。怖い。帳など、開かない方がいい。
蜜など要らない。食べたら、成長してしまう。けれども彼は毎日毎日、花束を携え現われる。
食べないわけには、いかない。花から蜜を食べる自分の姿を、ぎらぎらと見つめる、世界の全ての男が自分を見つめ殺すような視線で眺め続けて笑う水晶の王は、恐怖そのものであった。
恐怖そのものに見つめられ、その恐怖に妻として犯される未来のために、蜜を吸い続けた。
逆らえもしない。死にもできない。支配者の前では。
ならばいっそ、時間が止まってしまえばいいのに。支配者をも支配するものが、助けてくれればいいのに。
しかし時間が待つことなどなかった。
彼女は、蛹となった。
誰も、助けてはくれなかった。
蟲族は蛹の中で、一度すべての姿を失う。蛹の中で、彼女は聞いていた。
水晶の王が、その眷属たちが、両親が喜んでいる。絶世の美女の誕生を待ち望んでいる。
ああ、いやだ、いやだ。いっそこのまま溶けたまま、何者でもなくなってしまえばいい。
ああ、いやだ、いやだ。そんな生など嫌だ。どうして普通の両親の下で生まれられなかったの。どうして普通の生を生きられなかったの。
水晶の王は言っていた。お前は水晶の王たる余よりも美しい。水晶より美しき美姫とならんと。
水晶より美しいわたしだから、貴方はわたしを求めるのか。ならばいっそ、水晶になりたい。水晶程度であれば、貴方のその目からわたしは逃れられたのか。
いっそ水晶になりたい。硬く、無機質な、本物の水晶。水晶は両親のように蔑まれることもない。しかし情欲の光に犯されることもない。何も考えない、何の恐怖もない、ただ存在しているだけでいい、無垢の魂(タブラ・ラーサ)。
ああ、水晶となりたい。ああ、普通の蟲となりたい。
どうしてわたしはただの蝿で在れなかったの。特段に美しくなくてもいいから、世界の全てに呪われるほどでないなら醜くてもいいから、普通の娘として、なんでもない恋をしたかった。夫となる者を恐れる生など、送りたくなかった。光り輝く水晶に、それでもお前はこの幸せは得られるまいと、誇れるものを持てる身で在りたかった。
ああ、羽化しても籠から出たくない。ああ、籠から出てもよい生を今からでも得たい。
わたしは、何になりたいのか。
わたしは、何を望むのか。
わたしの望みは、矛盾でしかない。わたしは何者か。わたしは何になりたいのか。
「なりたくないもの」ならば、あるのに。「なりたいもの」は、分からない。あれになりたいと思う程に良きものなど、籠の中から見えはしなかった。今の自分にないものを、ただ手当たり次第に求めるしかできない。それが混沌の矛盾でも。
ああ。
わたしは、わたしになりたくない。
その思念は、その矛盾は、彼女を一体「何」にしたというのか。
彼女は羽化の時を迎えた。そして、その時。
蛹を破って出てきたその姿に、まず両親が。そして程なくして世界中が驚いた。
異形にも、怪異にも、それでも蟲の外殻は最低限にあったのに。
彼女には、何もない。悍ましいほどにただ柔らかい、生命とは思えぬ異常に白い色の身体。長く伸びた腕は両親のそれにも勝ってむき出しの肉そのもの、その不気味なほどに有機的すぎる身に何も貫けなどしなさそうな頼りないまるい爪、ティアラのような金色の金属じみた謎の部位、生物として逸脱した無機が根付くことで、その両者の気色の悪さを一層見せびらかしている。
胴体の下半分は大きく開き、内臓も何もない虚無の空洞がそこには広がり、それでいてなお彼女は生きている。
蝿族の持ち得る大きな複眼の目の代わりには巨大な水晶玉がふたつだけ代わりに付いており、その無機質が存在するだけでも正気を失わんばかりのそれがよりによってそこばっかりは蝿族に相応しく異常に大きく、なればこそ無機質な水晶の「単眼」という、蟲族にとっては悍ましき異常性を遍くすべてに見せつけている。
そして、彼女の口は口ではない。蟲族の世界ではとうに滅んだ、そこに生きる彼らは直接見知りはしない、人型種族の顔こそが、彼女の口。
高く上がった「鼻」と呼ばれた部位、薄く開いた「唇」と呼ばれた部位。すべて、蟲の世界には存在すらしないもの。
何もかも、何もかも、生命としてどうにかしている。
全てを狂わす絶世の美少女が羽化した姿は、存在しているという事実一つだけで気を狂わせんばかりの、異形も、怪異も、コレの前では所詮ただの蟲族にすぎなかったのだと知らしめる怪物であった。
水晶の王妃の羽化を待ち望んでいたはずの蝶族の都で起こった悲鳴を嚆矢に、世界の全てが彼女を忌み嫌った。
それは最早、醜いものに向ける嫌悪ではない。それは、彼らの本能だった。生存本能だ。まだ世界に、自分が「世界と信じていた場所」に生きたいと願うが故だった。
もう、水晶の王も誰も、誰より美しかった娘が化け物になってしまった、という変貌すら、どうでもよかった。それ以前の話であった。
誰も信じたくなかったのだ。世界が狂ってしまったと。こんな悍ましい、醜い、生命体として認められすらしないものが確かに息をして、蟲族の世界で、蟲族として生まれてしまった事実を、それを世界が認めたことを。
だから、彼女には消えて貰わねば駄目だった。誰もが、世界は正気と信じたかったのだ。正しい世界で、生きていたかったのだ。
彼らが生きるため、彼らが正気を保つため、彼女は生きていては駄目だった。何かの間違いでなくてはならなかった。すぐ死ぬ間違いでなくては、すぐに、世界からも、記憶からも、何からも消えるものでならなくてはならなかった。
早く育てと呪われ育った結果、彼女は命として否定された。
それが、彼女の知る「裏切り」だ。
自分はただ、産まれただけだ、生きただけだ。羽化しただけだ。
それだけで。
幼い時は美しさゆえに、世界の全てから殺されるほど求められ。
いざ育てば醜さゆえに、世界の全てから殺されるほど憎まれた。
ただ生きていただけで、地獄を見せた者たちが裏切り、別の地獄を自分に見せた。
いの一番に彼女を殺そうと襲い掛かってきたのは、両親だった。強大な水晶の王すら悍ましさに竦む中で、彼らは動いた。水晶の王妃の両親、その座を失った彼らはそこに道を見出したのだ。彼女を手にかけることでもう一度、世界に居てもいい存在になろうとしたのだ。
彼女は、裏切られた。
だから、「分けた」。
彼女は全てを、自分から分断した。両親も、水晶の王も、蝿族も蝶族も、蜻蛉も蠍も蜂も甲虫も。
籠に閉じこもることの安寧の本質は、狭いところに籠っていることではない。肉欲であろうと殺意であろうと、自分に加害するものと自分を檻で分断することだ。
閉じ込められるのが自分か、他者か、それは本質ではない。全てを籠に閉じ込めてしまえば、自分一人が閉じこもっているのと変わりはないのだ。
全てを支配した。最初に両親を、水晶の王を、次に世界の全てを。花の咲き乱れる蟲の世界に生きる民のすべてが、自我無き、籠に閉じ込められた囚人、もはや生命体として「何とも知れぬもの」と化した。
それは、絶対的な支配だ。
クリス=タブラ=ラーサの支配の力であった。
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「ツラトゥストラ」
タブラ=ラーサは水晶の華に語りかける。世界の全てから裏切られた、かつての蛆の娘は。
「クリス達から、聴いてはおった。お主の動向は。いくら何でもわかる。いくらわらわがお主を許そうが、お主の増長は止まらなかったであろう。そのような心の持ち主故に誰より優れておったがお主故。誰より上に立ちたいお主は、もしやわらわをもいずれ邪魔と思うてしまったかもしれぬ。……もし、そんな時が来るならば、そこでわらわが見るは地獄であろう。そうでなくとも、もう知ってしもうた。お主も結局、美しき蝿が良かったのじゃ。このような肉の身など見えぬ、鎧に身を覆い、複眼を煌めかせる蝿を、美しいと思うておったのじゃ。それを知り、それで尚お主を愛し、お主の囁く虚構の賛美に虚構と知って心ときめかせるなど、地獄の道じゃ。この先の道を地獄と知って突き進む気になどなれはせぬ。故に……お主はもう、ここで止まってたもれ。お主は地獄を見せなくあっておくれ。許せとは言わぬ。憎まばどうか憎んでおくれ。すまぬのう。あの日、わらわは蛹の中で何となったのか……わらわにとて分からぬが、これが、わらわという生き物なのじゃ。わらわは、このような生き様しか、出来ぬのじゃ」
その水晶の華は、タブラサ・チャンタラムの奥底に咲いている。
誰一人の世話係も、そこには来ない。この世に輝く唯一神、クリス=タブラ=ラーサを除いて。
「じゃが一方で確かに、お主は一度わらわに極楽を見せた。幸せであった。間違いなしに、お主と歩んだ日々は、極楽であった。世界をいくら飛び回れど、初めて出会った至福であった。檻なくしてわらわと接し、わらわと共に歩む存在が居た。そしてそのお主とひと時夫婦と成れた。それだけで、わらわはもう満たされる。幸せな思い出が、一つできた。それでもう、十分じゃ。それ以上の贅沢などはそれこそ、神とて望む権利はなかろう。この権能を持てばこそ分かる。誰にとて期待などできぬのじゃ。誰とて、支配されねば自由なのであるから」
そして、その神は悲しそうに、しかし穏やかに笑っている。
そのたおやかな手で、光のマナを注ぎ続ける。生前の彼の身体が宿していたマナを。
「故に、わらわはお主を憎まぬ。お主を裏切り者とも呼びはせぬ。裏切りとは、地獄から別の地獄を見せる事じゃ。あの日、わらわが初めてこの世に参った日、わらわの前から消え去り飢えの恐怖に苦しませた地獄より一転、一度極楽を見せたお主は、極楽をこうして築いたお主は、忘れ形見すら残してくれたお主は、わらわの産まれた世界のあの者どもにくらぶれば、優しき救い以外の何物でもない。わらわが飛びまわった世界のどこにも存在せぬ救いであった。わらわはお主を愛し続けたい。愛しておる。愛おしいツラトゥストラ。わらわはこの世に来て、良かった。お主の生まれた世界に来て良かった」
クリス=タブラ=ラーサは、ツラトゥストラであった水晶のラフレシアに、どこまでも、どこまでも、穏やかに優しく語り続けた。その体のうちにずっと、彼と触れ合った襤褸の花嫁を輝かせながら。
ずっと、ずっと、求め続けた存在に。
自分を「裏切らなかった」その夫の華に。