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水晶の蝿が世界に降り立ち、世界を平定するオラクル教団が当然上へ下への大騒ぎにならぬはずもなく。
オラクルに逆らう者への懲罰を生業とする遊撃師団が一番にその混乱の影響を受けない謂れもなかった。
アレはその身から生み出す蛆で、ゼニスの肉を喰い蛆人形で支配する。
「智」のゼニス、レディオ・ローゼスもすでに被害に遭った。オラクルはゼニスを神と崇め、ゼニスに絶対的に仕える。つまりゼニスの方がオラクルより格が上だ。そのゼニスを軽々しく支配する水晶の蝿に、オラクルの自分達が敵おうはずがない。
しからば……自分たちがこうも動く理由は何なのか。その問いに逡巡することなど無意味であることをよく知りながら、あれほど巨大であれほど輝かしき水晶の蝿を見つけることが今日とて叶わず、遊撃師団の先導者、ゾロスターは配下も帰らせ上へ下への騒ぎを続ける街を見下ろす物見塔に翼を休めて降り立った。
ここはいい。昔から、理屈をつけるより前からここが好きだ。理屈を見出してからは更に好きにならない理由がなくなった。
オラクル教団の教主の玉座は、信者たちを見下ろすように作られている。そしてニルヴァーナ・ゼニシアに住まうゼニス。両方に共通するのは、立場的、精神的にのみならず、物理的にも民を見下すという事だ。
それが正しく「上に立つ」という事だろう。ゾロスターはそう頭の中で分析している。同時に彼らに、自分が思うような思惑などないことも理解している。「なんとなく」彼らはそうしているだけだ。非常に効率的かつ象徴的な階級の表明を、何の理屈も、目的もなく強いて言うのならば命としての直感でしかないのだろうか、そのようなもので行っているだけだ。
ゼニスは「目的」のない存在だ。そしてそれを崇めるオラクルも、「目的」を否定する。目的があればこその醜き俗であり、シャングリラが呪った争いを生み出す卑俗であると。
一方でその逸話は、シャングリラはこの世の神であり今の世を定義した存在でありつつ、この惑星、この惑星の生命そのものの創世者、定義者としての神ではないことの証明でもあるのだ。生命の在りようはシャングリラの「無」に先んじて存在したという事だ。だからこそ、目的を否定し、無を肯定しても、結局そのような「なんとなく」をすべてが内包している。
シャングリラは、ゼニスは、誠に無を肯定した純然たる存在である。そしてそれに仕えるオラクルの歴代の教主も、当代に至るまで皆、我欲というものはない。あくまで純然である。その事実をゾロスターははっきり理解しているからこそ、悟りを得た彼らが目を向けもしないことを悟っている。
そこには明らかな矛盾があることを。
我欲を宿したうえで人の上に立ち、私益を貪った方がよっぽど筋の通ったことだ。彼らは我欲を否定し、目的を否定し、個性を否定した上で、地上に住まず、教団を打ち立て、自分達遊撃師団をはじめ様々な階級の職務に従事させ更にその中にも序列をつける。ゾロスターが「師団の先導者」であるように、だ。
全ては支配において有用なことといえようが、その有用性は彼らが否定しているはずの「なんとなく」の感覚にのみ依っているのだ。なまじ有用であるが故にたちが悪い。神の在り方を正義と位置づけ、自分達の在り方が事実として成功しているのなら、それは矛盾の上に成り立っている成功であることを莫迦が気づけるはずがない。すぐ破綻すれば莫迦も気づけたろうが、成功してしまったからにはこれは神聖なるものの在り方として正しいのだと、誰も何も疑わず、目的も持たず、矛盾のうちに自分を正義と位置づけ唯々諾々と幸福に生きている。
ゼニスが、オラクルが世界を平定する絶対的正義である世界に産まれておいてゾロスターがそんな考えを持ちながら自責の念に一切合切押し潰されず、かえって遊撃師団のトップを任される程度に認められた今があるのはひとえに、彼らの莫迦の在り様に気付く前に自分の在り様に気付いたからであるだろう。それが無くては危なかった自覚はさすがに彼にもある。
オラクル教団の幼児信徒育成所において、彼は他よりも早く洗礼名を頂いた。それも当代教主にである。別段、優秀であったからという話ではない。そこで恣意的な選びをしない事こそが「無」というものというのがその特別な洗礼の主張であり幼いゾロスターが選ばれた理由であったのだが、だからこそその時に、彼は知ったのだ。優越感という概念を。
これは「無」。なにも個性を象徴するもの足り得ない。ゾロスターの優秀さをほかに見せている行為でもない。
それなのに、明確に教主は自分一人を見ていた。そしてそんな自分を、自分に比べて何が劣っていると言われたわけでもないのに、他の子どもたちは明確に羨ましがって見ていた。
確かにその時、自分は他者の上に立つもの足り得ていた。そしてそれは、あまりにもあからさまな快感であった。ずっと、この瞬間が続けばいいと本気で思った。自分の肯定のためだけにすべてが存在した瞬間が。
そして次の瞬間矛盾に気が付いた。無を教えられ、個性を否定され、なぜ自分は「名前」を「特別」に与えられるのか。それは自分と他者を区別するもの、個性だ。それがなぜ、ゼニスを通したオラクルの教主の手によって与えられるならば清らかになるのか、この目の前の清らなる宗教家はただ自分がそうされたからそうだろう、それ以外のことなど何も考えずに、目の前の子供に罪であるはずのものを光栄だから喜べと微笑んで与えたのだ。彼の快楽は、この世の定義者が莫迦でなければ成り立たない矛盾故に産まれた。
だから、「ゾロスター」と名付けられた彼は一瞬で世界の矛盾を肯定し、矛盾に気が付かないその場の全てを莫迦と認めた。自分の心をよくするものが悪いものだと思ってやっていられるか、という真理を悟ったからだ。
誰も、気付いていない。誰も、何も考えていない。
もしその中で自分だけ気付いたというのならば、やりやすいことこの上なかろう。人の上に立つ、支配の快楽を得るにあたっては。ゾロスターはそれを知り、その自分に与えられた状況を理解し、それに従って生きてきた。
彼らがいくらきれいごとを宣おうが、そのきれいごとと矛盾する形でこの世に権威は実在しているのだ。実在しないものを創造するならば骨も折れようが実在しているのならばそれを目指せばいい。そして競合するのはこの世の何にも気づいていない莫迦ばかり。楽なものだ。
はじき出されないためにその莫迦のふりに付き合うのも、存外彼自身のプライドを痛めつける行為たり得はしなかった。汚く嫌いなものに頭を下げるならまだしも、自分は権威を魅力的な物として見ているのだから、魅力的な物に阿るのは苦でないのは当たり前だ、というのが彼の思考回路であった。彼が理想的なオラクルの信徒として成長できたのに彼の我欲は大した障害足り得なかった。何も考えていないか構造を理解しているかの違いがあるだけで、オラクル教団の上層部という権威の座をよきものと捉える価値観自体は一緒であり、それになりたく思いますという言葉は全く本音で吐けるのだから。ただ少しばかり、本当の動機は黙っていればいいだけの話で。
彼は、成長した。あの日自分が名前と共に得た快楽、人の上に立つ優越感を得るために必要な権威、それを得るための欲に育てられるように大人になった。
そして、オラクルのために世界を乱すものを討伐する遊撃師団の長を若くして任せられるに納まった。
望みどおりに彼は、権威を得た。
自分の生まれではこれで頭打ちの権威を、だ。
満たされないわけではない。
自分達には何の個性もなくだからこそ優れた存在たり得ていると思っている部下たちは、「個性」であるはずの「先導者」の肩書を持つ自分に頭を下げる。その行為も、彼らが本当の莫迦だという実感も、間違いなく支配そのもの。
完成された世界にも時々産まれ得るはぐれ者たちの討伐も悪くはない。権威による大人しい支配もさることながら、暴力による物理的支配も間違いなく自分の心を満たす。強者として君臨する実感を覚えさせるからには、命乞いも負け惜しみも等しく甘美に響く。最後まで誇り高く死なんとする態度も多少面白くはないが、現実を見ていない愚か者を高みから見下す愉悦と捉えれば悪くもない。
だがそれはそれとして、それなりの権威を得て、それなりの支配欲に満たされたからこそ、ただ目指すだけでは見えなかったものも見えるようになった。
上には、上がある。
上があるからには、自分は誰かを見下ろす権威である傍ら、また誰かの下に立つものでなくてはならない。この世全ての上に立つ者でもない限り。
上に立つと言えば教主だ。それに教主になれる者は限られている。自分はそのコースの生まれではないが故、目指そうと思っておいそれとなれるものではない。いくら莫迦でも、いや何も考えていない莫迦だからこそ「なんとなく」守ってきたものを崩すことを「なんとなく」、激しく嫌がるであるだろう。現実的な考えではない。莫迦にでも分かる明確な武器無くしては、莫迦風情に今の権威すら奪われかねない心だ。
そして教主になればどうなる?オラクルの教主とはつまり、ゼニスの僕だ。ゼニスの下にならば立ってもいいと甘んじられるか?なぜ?
甘んじられないとしてだとすればどうすればいい?最早生命として何もかもが違う種族に対して。
彼らも矛盾に生きているが自分も矛盾に向かって生きたのだ、とゾロスターは知った。上に立つ悦楽と、下に立たねばならぬ屈辱。それを同時に得る道に、生涯を捧げてしまった。
一応、矛盾を知っているだけまだましかもしれないがそんな見下しなどどうにもならない。腹の中だけで全てを見下して何になる。この世で最も惨めな者でも可能な行為には何の価値もない。現実世界で頭を下げられ、羨望を向けられ、命乞いをされるからこそ支配とは価値があるのだ。
結局のところ、気休めに落ち着くのが一番の現実的な道であった。
何も考えていない配下たちを従え、時間が空けば塔の上ですべてを見下ろす。形だけでも上に立つ者の真似事をし、少なくとも物理的には多くの命を見下ろす。
それで……何が満たせるかといえば結局のところ気休めだ。しかし、間違っている気も微塵もしなかった。
この物見塔の上からでも、ゼニスは天上の存在だった。しかし全ての目的を失い無為に存在しているだけの生き神は、無為に生きている部下たちと本質的な違いはさして無いに思えた。
そんなにすることもない玉座ならば自分に寄越せばいいのに。そう思わせる程度の存在でしかなかったのだ。「間違い」という概念を教えるべき、世界の頂点とされる存在が、その程度。ならば間違いを感じろという方が彼にとっては無理な話だった。
従う気も起らない者に、従い続けなくてはならない矛盾。彼が抱えるのは、それであった。
しかし、長年見降ろし続けた物見塔の下の街が、長年見続けた静けさと打って変わって不安に沸き上がっているように、彼の心境にも同様変化が見られていた。
自分の抱えていた矛盾にもそれは無関係ではない。
シャングリラ・ファンタジアはなぜ、従う価値のある存在たり得たのか?平和を創ったまではいいとして、今はただ無になってただそこにいただけの存在を?
それに、答えが出たのだ。
「別に、これは死んでもかまわない存在だった」と。
結局、「なんとなく」皆シャングリラを崇めていただけだった。シャングリラが死ねば世界は終わるように信じていたが、少なくともあの日蛆に彼が食われた日に、全ての自然から豪水が湧きだし、目を潰さんばかりの光を放つ業火が巻き起こり、世界が闇に包まれて、ゼロに帰ったわけでもない。
自分達はこうして、息をしている。あれは別に、もういてもいなくてもいい存在だった。
神とは、何か。
自分はなぜ、水晶の蝿を殺さなくてはならないのか。
神とは何か、シャングリラはなぜ、この世も生命も作らぬ身で神足り得たか。それは、世界を定義したからではないか。
ならばあの水晶の蝿も、定義をしたのだ。自分達の世は、何の意味もない停滞である、と。
優しい抱擁と、蛆を生み出す口づけをもって。
……それは。世界を動かす何かであったと思う。それほどまでに、美しい何かであったと思う。
無を有であると定義し直した、圧倒的に美しい存在。
それは、神の姿なのではなかろうか。
物見塔から飛び立ち、オラクル教団本部に帰還する彼には、思い出される。
あの日確かに、水晶の蝿は、ゾロスターを見据えたような気がした。
光り輝く水晶の双眸。微笑む白皙のかんばせ、空にはばたく緋色の翅。
用なしになった死にゆく神を自分で殺しておきながら優しく看取るように、慈愛すら感じる様相で伸ばされる長く、細く、美しい無垢の腕。
それらすべてが。神の姿にも思える者が持つ美が全て、自分に向けられたような気がした。あの日、何の意味も無しに自分一人に名前を与えた教主の向けた視線など、盲人の視線にも等しいと思わせんばかりに。
背中の翼をはばたかせ、空気を切って彼は飛ぶ。あの水晶の蝿もその翅で切ったこの世の空気を。
ゾロスター自身はなんてやりやすい世界だと思ったこの世も、ある種では彼の不幸であったかもしれない。
例えば彼の上に立ったのが停滞を求め、平和を求める中でもそのために新たを生み出し、模索し、その上で停滞の理想はあくまで見失わず、そして自分のもとに集う信徒を愛するような不器用なれどまっすぐな存在、例えばそのような者が教主であったならばまだ彼の生は、運命は、違う方向に向かっていたのかもしれないが。
「この世界」に居たのは、ただ目的を知らず、ただ「なんとなく」矛盾にも気付かず生きている生き神と共に「なんとなく」矛盾のままに生きる教主でしかない。
この世界の運命は、それだ。
そして、そんな世界にやってくるのは。
「……おや、お主」
水晶の蝿。
「待ちあぐねたぞえ。探しに探してようようここに居る者と分かったに、わらわが来れば何の因果やら、お主はわらわを探しに出撃している、などとこの者共ほざくものであるから……」
産まれの権威とはまた違う、絶対に逆らえない力。
全てを無に帰す、圧倒的な暴力。
それが、オラクルの神殿に現れ、自分以外の上層部全てを襲いつくしていた光景であった。
凄惨など、その場の光景をさす語彙としてはあまりに役立たずであった。
自分と同格の幹部たちの腹を蛆が食いつくしていた。蛆たちは人形を作ることすらもなく、血は一滴も飛び散っていなかった。血の一滴たりとて残さずにその蛆たちは食いつくす。下品な虐殺などではない。彼らを真にゼロに還さんばかりの屠り。
そして、水晶の蝿のたおやかな腕の中、何かが煌めいていた。
それは、間違いなく、教主の死体であった。だが、上層の幹部たち同様血の一滴も流していないどころか、それは蛆に食べられてすらいない。
彼の身体は、きら、きらと結晶化し、その結晶は人型を棄て、幾重もの……花弁のように広がっていく。
どこの何者とも知れぬ怪物に、偉大なる教主が殺された光景でありながら、凄惨とかけ離れた光景がそこにあった。真っ白な、シャングリラ・ファンタジアよりも真っ白な麗しき女神に抱かれる……水晶の、華。
しかし一方で、それは凄惨ではないというだけで間違いなく怪物が全てを殺し尽くした光景でもあった。
自分がいつ腰を抜かしていたのかすら、ゾロスターには把握できなかった。しかもだ。あの日のあの感覚は決して思い込みでなかったことは、彼は把握した。
「じゃが、待っていてよかった」
水晶の蝿は華に変化しかけの教主を興味など無さげに捨て置いて、水晶玉の目をゾロスターに向けた。
震えすら、起こらない。
筋肉が、血流が、既に逃げることを、生きることを放棄している。死を受け入れんとしている。あまりに圧倒的な力を前にして。
受け入れていないのは思考回路だけだ。
いくらなんでもなんて死に様だ、莫迦しかいない世界に生まれて、矛盾の中に生きた自分の最期がこれか。
……だが。しかし。そんな最期の思考に有ってすら、彼の心は彼自身をよく見つめる。
そこは一貫性ある恐怖で支配されていると、必ずしも言えない気がした。
この期に及んで、いや、この時になって初めての矛盾が、そこに産まれ得たかのような……。
眼前が、無、そのもののごとく白く染まった。
「お主を求めておったぞ」
手だ。今度こそ、シャングリラでも教主にでもなく、自分に向かって伸ばされた手。教主を放り投げ、自分に向けて差し伸べられた、水晶の蝿の、あまりに美しい手。
そしてその指の間から覗くのは、シャングリラも、教主も映さない。自分だけを見つめる、水晶玉の瞳。
……矛盾の正体が、分かった。自分は、この蝿に対して矛盾を覚えているのだ。
自分を殺す恐ろしき存在であり、かつ、少しなりとも……この手で死ねるならば、と思わせるほどの美しさを覚える存在であると。
「……な」
果たしてその時衝動的に言葉を出したことが、彼の幸運であったか、不幸であったか。
少なくとも言わなければ、彼は、美しいと思うものを見て死ぬ、死の中では上等な死を得た生命として生涯を終えられたのであるが。
それは果たしてどう定義できたものだか。ただわかるのは少なくとも、彼はこう聞いてしまったという事だ。
「なぜ、私、を……?」
けれどもそれは衝動ではあれども言う程の偶然ではなかった。水晶の蝿と自分しかいない空間、そこにおいてのみ彼は、教主より、ゼニスより求められた存在として君臨していた。それらより願わくば上に立ちたかった彼がその事実を、あわよくば理由を確かめたかったのは筋が通っている。
人生をかけ名誉欲を求めるような男が、死に際にもそれを一貫させたとて、嗤うことなど何もない。自身の人生を傾けたものを死に際に忘れるほうがかえって腑抜けの生き様だ。
彼はその点において腑抜けではなかった。だから、聴けた。
聴けたから、水晶の蝿は鷹揚に返答した。
「お主だけじゃ。この世でわらわが満足する『水晶の華』となり得るは」
会話。
得体もしれぬ怪物は、少なくともそれが成立する相手であった。死への恐怖と、美への畏怖。それのみならば矛盾に混沌としていたと言える脳裏に、その事実の認識が宿る。
……そうなれば、もう。
頭は死からそっぽを向く。混沌などという気取った浮世離れから離れ、思考という生に相応しきものが、戻ってくるのだ。
「水晶の、華……?」
その対話の成立。
それが、運命を決定的に変えた。
「それは……」
頭が完全に死を拒否したならば、少しずつ体もそちらに引きずられる。少なくとも身動きなど取れないと思っていたゾロスターの手が明確に動き、教主だったモノを指さした。
「その、教主様の……よう、な……?」
「如何にも。じゃが、コレはさしたるものにならん。華と化すだけましであったが。他の者どもは見ての通りじゃ。あの大きなもの共と同じ。育つほどの水晶の種を心に全く有しておらんに、蛆に喰われるほかどうにもならぬ」
「……」
手の次に動いたのは、足であった。
「よろしくば、お聞かせ願いたい」
抜けていた腰を一瞬浮かせ、死体まみれになりながら一滴の血も流れぬ床に跪き、ゾロスターは水晶の蝿に向かい合った。
「貴女様は私を探しており、私が世界で唯一、十分な水晶の華、とやらになると……?その、水晶の華とは?あなたのおっしゃる、水晶の種、とは……?」
目の前の蝿は、対話をする意思がなくはない。それを彼は認識したが故。
少なくとも彼女は……自分を問答無用で殺すしか用のない存在だから話す価値はない、と完全に見做しているわけでもない。ならば……死からそっぽを向いたからには、可能性に賭ける外はないだろう。彼女の鷹揚に賭けるしか。
「そして、ゼニスを滅した貴女様は、何者、ですか……?」
そして、この世の帝王でも、この世を統べし神でも、振った賽の目ばかりは自由にできまいが。
「……」
水晶の蝿の口、逆さになった美貌の女性のような唇が開き、神の手すらもすり抜ける賽の目の意思を告げ知らせる。
「ゼニス……?何者じゃ、それは」
今日はお前に味方してやろう、と、王でも神でもない男に賽は微笑んだ。
「わらわの名はクリス=タブラ=ラーサ。それでしかない。それ以外のわらわの在り様を、わらわはあずかり知らぬ」
「……シャングリラ・ファンタジア様とレディオ・ローゼス様……貴方が滅した、巨大生命体。あれこそが、ゼニス。我らが神と崇めし至高の生命体です……」
「ああ、そうか。故にわらわを滅せんと意思もなきに動いたか。なるほど」
そのなんの関心も無さげな声音だけで、言われたわけでもないがゾロスターは悟らざるを得なかった。
彼女は完璧に、何か思惑があってシャングリラとレディオ・ローゼスを制したのではない。この世を平和にするため存在したシャングリラ、この世を害しかねない者が現れれば敵と見なしただろう。そして彼女は、自分を害する敵だから滅ぼした。理屈など要らない生命として至極まっとうな反射的思考、ただそれだけで、ゼニスを滅ぼせる力の持ち主だ。今自分が話している相手は。
「……ゼニス様こそは、至高の生命体です。少なくとも、生命としての格は私なんぞと次元が違う……お許しを頂けるのならば、問わせてくださいませ。貴女様が水晶の華とやらを求めておられますならば、なぜ私が……いえ、私を出すまでもない、教主様がその、貴方様ほどのお方が求める華になり、ゼニス様たちが貴女様のお心を一切動かさないとは、どういったわけでしょう……?」
「……?そうか?何の目的も、心も、アレにはなかった。アレが至高かえ?それならばまだ、この者の方が上等じゃ。この者は少しなりとも、水晶の種を宿すだけの目的の心があった」
「水晶の種……?」
「言葉の通りじゃ。命の心のうちに宿る、水晶の華を咲かせる種じゃ」
六本の腕の一つで、先ほど放り投げた教主の死体、部分的に水晶の華と化した死体をタブラ=ラーサと名乗った彼女は摘み上げる。
「お主は、よく質問するのう」
そしてその手と対になっている腕を、彼女は口に押し当てくっくっと笑った。瞬時にびくりとすくみ上るゾロスターを見て彼女はなおのこと笑い、「いや、無関係なことではない」と続ける。
「お主はそれだけ、何かに向かう意思がある。類稀なる意思じゃ。類稀なる水晶の種じゃ。お主以上に宿す方など、あのお方様ほどしかわらわは存ぜぬかも知らぬ……」
「目的……」
何回か繰り返されるその言葉が重要な意味を持っていることが、ゾロスターには推し量られた。確かにそれは、自分と一時たりとも無縁でいてはくれなかった概念だ。我欲とは、純然たる目的意思だ。
「それが、貴女様の仰る『水晶の種』に関連、いや、そのものであると思ってようございますか?そして……それから、『水晶の華』が咲く……」
「如何にも」にこっと、タブラ=ラーサの唇がほほ笑んだ。
「水晶の華。それはわらわの力の源。わらわとわらわの眷属を措いて何者にも力を貸さぬ、わらわに隷属することを措いては何一つとて実りを産まぬ、『無』のマナを産む華じゃ。じゃがわらわ一人にとっては、最高の命の糧。そしてその種は、光を求めるように、水を求めるように、何者かが、何かのために必死で動く『目的』の心を求め、その心に根付き芽吹く。何かを産まんとする目的の心を、最高の何も産まぬゼロへと昇華させる」
……目的意識。なるほど。シャングリラはじめ、ゼニスたちが彼女にとってなんの価値もないというのはそれならば道理だ。彼らはそれを完全否定した生命体だったのだから。教主一人は辛うじてその華となったのもまた納得がいく……「なんとなく」とはいえ、ゼニスへの献身、教団の維持、そのような「目的」を、この世の誰よりも抱えていたのはあの方だ。
そして……自分一人に用がある、という彼女の言葉が、もはや完全に繋がった気がした。
「その点ではこの世は最悪じゃ。ふしぎな世界じゃの。誰もかれも水晶の種を宿しておらん。わらわはまだ、いずれあのお方様と相まみえねばならぬ、そのために力蓄えねばならぬ身故、飢え死にする前に早々に立去ろうとすら思ったぞえ。……お主の気配を感ずるまでは、じゃ」
全てが、莫迦の世界だった。
誰も、何も考えてなかった。ゾロスターがそんな世界で出世できたのは。
彼一人だけ、この世界でなくてすら類稀だろう支配欲を持って生まれてきたからだ。それに、何かに向かう心、それから芽吹く華を餌にする生命体が、引き寄せられるのはあまりに当然だった。
「お主の心の種から芽生えし華、その力を吸い、力を蓄える。それがわらわの心づもり。さて、お主が聞いたうちで、わらわが答え得ることはすべて話したが……ほかに、話すことはあるかえ?」
そうだ。当然なほどに、彼には支配欲があった。
だから、その死刑宣告にも等しい発言をされた瞬間に。
彼の中で、現状のありとあらゆるものが、ひとつながりの図式をはじき出した。
よくよく考えてみれば。
自分の権威が頭打ちであったのは、教主が居て、ゼニスが居たから。
そして教主は殺された。そして、ゼニスなどこの水晶の蝿には殺され得る。
自分を邪魔するものは何もない。
そして。タブラ=ラーサはどうやら自分一人を華にして終わりではないらしい。これから先も彼女にはある。そして自分が特別というのはこの世界は目的を否定していたから……となれば、自分一人だけが適性があるというのはあくまで状況の問題でしかなく。
そして。
世界の民は見た。彼女がもたらした神の死を。
そして自分はさらに先を見た。蛆で無を騙った有を更け出させることのほかに彼女が齎す死。それは、水晶の華。死でありながらうっとりとするほどに煌びやかな形へと生命を変える彼女の権能。
そして、この世は。自分は芯から知っている。
そしてこの世は莫迦ばかり。
ゾロスターの中で、それらがすべて繋がった。
「クリス=タブラ=ラーサ様!」
瞬時に、彼は頭を下げひれ伏す。タブラ=ラーサの方はきょとんと呆気に取られている様子であった。命乞いの概念すら、彼女の強さをもってすれば知らぬまま生きられるのか。あるいはそんな命のことなど彼女は出会った先から忘れてきたのか。
だが少なくともその間がまたゾロスターの救いたり得る。
「……もし、私を生かせば、この世の全ての命が水晶の華となる、そう申しませば、いかが致しますか?」
「……はて?」
そんな声が聞こえた後。ゾロスターは頭巾越しに頭に優しい感触を覚えた。
タブラ=ラーサの指が、彼の頭を持ち上げた。
煌めく水晶玉の目が、より一層彼を映しこんだ。
「面をあげよ。よく話が出来ぬ。して……なんと?全ての命が水晶の華?」
「はい。私には……それが、出来ます」
ゾロスターの身になってよくよく現状を想えば、だ。
黙っていれば確実な死。
動いて受け入れられなければ死。
動いて受け入れられ、失敗すればやはり死だろう。
だが、もし動いて受け入れられて、成功したら。……コレは頭打ちだった自分の支配が、さらに上になる、千載一遇どころか万に一つも無かったはずのチャンスの到来ではないか?
……全力で動かない理由が、無い。
「ワケがわからぬ」
圧倒的な力を持つ怪物と、それに腰を抜かしていた男。その二者間の主導権が、いつの間にか入れ替わっていた。
「お主を措いて、ろくな水晶の種の気配はこの世にはないというのに」
「ええ。そのように伺いました。ですから……これから全てを育てると申しております。この私が」
「……?」
「クリス=タブラ=ラーサ様。要するに……『目的』、『目標』の概念があれば、水晶の種は育つのですね?」
「長いゆえ、クリスは要らぬ。……左様」
「では、タブラ=ラーサ様。例えば戦乱の世などで、よく種は育ちますか」
「まあ、そうじゃな。世界の全てがわらわを殺すため向かってきたこともあった。斯様なときは、たくさん水晶の華が咲く」
「よろしい、ではそれ以上に貴女様のために在る世界を。貴女様に誰もが水晶の華を捧げ、かつ、貴女様には一切の危害が及ばぬ世界を創り上げましょう」
「……?この、お主以外種の気配が何もない世で、その様な話をいかに信じろと?」
「私のこの身が証左です」
ゾロスターはぽん、と、生身の自分の肉体に、左胸に手を当てる。
「私は申しました。ゼニスは、生命の格が違う存在でした。そのような者にしか種が宿らないというならば難しい話でございましたが……私は、ただの超獣。ただの命。この世界のうちでただの命たる者に、種が宿ったのです。なら、他のただの命にとて芽生え得る。私はそう確信いたしました」
当てた手からさすがに激しい動悸が伝わってくる。だがどうせ、止まれないし止まる理由も存在しない。止まれば死だ、やるしかない。
「そして、私の想い、教主の想い、乱世の世の想い……皆、思うところはバラバラであったはず。ならば要するに目的に向かう心があれば、その目的そのものは何でも構わぬのですね?では……『貴女様のため水晶の華になることを目的にする』者たちが居れば、水晶の種を心に育て、貴女様に回収の手間すらかけさせぬ、貴女様にとっての至高の民となるのでは?私が世界の民を、そのように教育いたします。私には、それができます。そのために、この命、今しばらくお見逃しを頂けませんか!?」
「……『至高の民』。成程のう。的を得ておる」
タブラ=ラーサの目がぎろりと恐ろしく光った。
「至高すぎる理想論で何一つとて現実味を感じぬわ。そのような都合の良き話。……一体どこに、外の世界から飛んできた者に好き好んで食われよう者がおろうかえ」
「ございますよ」
しかし。小さな命の野心の灯は、大きな命の威光の輝きにも、時には勝る。
「好き好んで死に向かう者など、全く珍しくございません。好き好んで戦いもすれば奉仕もする。それこそが、貴女様のような偉大なるお方なればこそもしかするとご理解がおけぬかもしれません、衆愚の持ち得る心です。ならば貴女様のために働き、貴女様のために水晶の華の素材を集め、自分達も水晶の華となることを戦に、奉仕になぞらえることなど、全くもって現実の範疇の話ですとも。そうです……我らはそもそも『そのような』世界に生きた民です」
この世の民は、目的をなくしていた。皆、莫迦と化した。
いや、違う。
目的をなくし莫迦となり無になる、という目的に向かってみんな一様に歩んでいたのだ。
「この世界にがっかり召されませぬよう。ここはおそらく寧ろ……貴女様にとって最も良き楽園となれる世界です。貴女様のため煌めく、ゼロの水晶の華畑の器こそがこの世界です。私には、その実現ができます!」
「……お主を、それほど信じて良い理由は?」
「私は貴女様とは違いこの世を知るこの世の民であり、衆愚の心を知り得る小さな命であり、かつ衆愚を衆愚と知る者、貴女様に唯一目を付けられるだけの心を持ち得るものでございますが故」
……それは。
例えて言うなら、狩りしか知らぬ者に農業を教えるようなもの。
あちらこちらに飛び回り、逃げまどうか戦うかの獲物を相手に腹を満たすしか知らない存在に、別にそんな苦労をしなくていい、のんびりとひとところに居て、大人しい家畜だけを育てて食って生きるという生き方があるのだ、と教えるようなもの。
教えられる側にとっては、非現実的以外の何物でもなかろう。
……その非現実をあまりに自信満々に滔々と語られれば、戸惑いの一つもするものだ。
「あとはまあ……貴女様にこれだけ上層部がやられ、最早消去法で私がこのオラクル教団では一番の権威の持ち主。そこそこの権威があった方が教育はうまく運びますが、私はその条件も満たしておりますが故に……」
「もうよい。結構じゃ」
その結構、の意味を知るまでの間がゾロスターにとって異常に長いものであったことは言うまでもない。だが答えが出た。
「三月……。お主の元の主の華で、わらわが精々次の世界に飛ぶ余力を残し得る時間じゃ」
それは、少なくとも直接的な死刑宣告ではなかったのだ。
「あそこ……あそこに広い野原があるのう。三月で、まずはこの神殿から見渡せるあの野原にいっぱいに、水晶の華畑を作ることができるかえ?」
三月だろうが、三日だろうが、同じだ。
今すぐ殺されないのならば。
「お任せください」とゾロスターが返答するのに、迷いが付随し得たはずもない。その迷いのなさゆえだろうか。タブラ=ラーサは言った。
「……何か、入り用のものはあるかえ」
「そうですね……」
ゾロスターは少し考えた後、返答する。この先の図式をイメージし。
「ゼニスを支配できる余力は残っておられますか?」
「造作はなかろう」
「では……」
折角ならば、アレを持ち出して来てもらおう。世界が目的をなくす以前は、争いの幕開けを告げる使命を持ったゼニスだったと言い伝えられる。手始めの偶像には、ぴったりだ。
「あとは、お伺いしたいことが……水晶の華は、解除して元に戻れるものですか?」
「できぬ事はない」
「今一度、教主のお身体をもとには戻せませんでしょうか……いえ、勿論最終的に完璧な華となることは前提、しかし、この姿……水晶の華となる姿を一から『見せた』方が、きっとうまくいくと私は読みます……」
「……お主」
タブラ=ラーサはそこで初めて。
「名はなんと?」
「……ゾロスター、と」
「そうか」
目の前の男の名を聴いた。
ただのエネルギー源相手には、聴く必要のないはずのものを。
「ゾロスター」
ふいに、彼の眼前に、白い指が一本差し出された。
そこには、飴玉ほどの大きさの、小さい水晶玉が乗っている。
「『一から見せる』……とな。しからばお主の言う通りこの世など何も存ぜぬわらわより、お主がやって見せた方がどうやらよく運ぶであろう。そのゼニスのもとに向かう苦労もある……命を水晶の華とするわらわの力を込めた卵じゃ。食え。蛆は湧かぬ。……湧くとして、ここで騙されて死ぬ覚悟もないものの協力ならば、どの道要らぬ」
……それは、全くその通りだ。
遠目に見れば細長く美しい指なのに、あまりに巨大が故に指先だけで口が埋まりそうなそれの上に、きらきらと、純粋無垢そのものの水晶玉が輝いている。
ゾロスターは恭しくその指を取り、そして……小鳥が餌をついばむように水晶玉を食んだ。
彼の口の中で薄殻を破ってエネルギーが弾ける。その全く無味無臭なタブラ=ラーサのエネルギーとは裏腹に、唇に伝わったタブラ=ラーサの指先の感触は、官能的なほどに艶やかだった。
「お主のほざく事はわらわには理解が出来ぬ。このわらわのため、好き好んで死に向かう者が居ようものか。じゃが確かに、お主を今すぐ華にせねばならぬ切羽詰まった理由もない。あのお方様も暫くはわらわを見失っておられようし、どのみちお主ならば次の世界に飛んでまだしばらく活動できるほどの力は得られよう。……なら、お主の荒唐無稽を真に受け……」
奇遇なことに。
「成功すれば儲けものじゃ。そう思えば確かに、今一度お主をお主の言う通りに動かしておくのが得かもしれぬ」
二人は、似たような思考回路でその道を歩み始めた。
きら、きらと、タブラ=ラーサのエネルギーが宿ったゾロスターの手から、輝くオーラが出始めたのを見届けて、彼女は言った。
「ゾロスターよ。わらわは特段、他人に期待などせぬ。失敗などは、どうでもよい。じゃが、これだけは覚えておけ」
そっと、その艶やかな指で、小さな一人の男を抱き寄せ、睦言のように囁いた。
「わらわは、裏切りが嫌いじゃ」