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「おいかがです」
クリス=タブラ=ラーサに瞼はない。だが、その水晶玉のきらめきが、驚きを示しているなどとは分かった。
たった二晩があけた朝、彼女の指定した広場は大ぶりの水晶の華が咲き乱れ、朝日の光とともにニルヴァーナ・ゼニシアなど此れにくらぶれば貧民窟かといわんばかりの神秘の輝きを、極楽浄土もかくやの光景を生み出していた。そして彼女と、彼女の水晶の華化の権能を宿されたゾロスターには分かる。
たった二日前と同じ世界とは思えぬほど、世界中が、水晶の種の気配に満ちつつある。
余りの眩しさに流石に目を細めつつも、ゾロスターは不敵に笑ってタブラ=ラーサに言った。
「一晩明け、お判りいただけましたでしょう。昨夜のことは、夢幻ではございません」
「うむ。……知らざるを得まい」
それを素直に肯定したタブラ=ラーサも、思い出していた。
月の輝く夜。自分の指定した広場にギッシリと集まり尽くした、ゾロスターを措いて気配などみじんも感じさせなかった、水晶の種を心に宿す、白い衣を纏った民。
彼らは全て、水晶の華になる、それを「目的」とし、野原に集まった。
「じゃが、信じられぬ。なぜ……こうなる」
ゾロスターは笑って告げた。
「ここは衆愚の世界故、ですよ」
ゾロスターの演説は文字通りその日の内に、世界中のオラクル信徒のもとに通達された。
世界が、ゼニスが、オラクルが迎えた新たなるステージ、それをもたらすゼニスの頂点、クリス=タブラ=ラーサの存在。
そして、今まで崇めていたゼニスのうち三体が「真のゼロ」と化し、今まで自分たちが敬愛していた教主が、その真のゼロのみのエネルギーとなるマナを産む水晶の華、新たなステージにおけるゼロの祝福の姿にして、あまりに透明で美しい存在となったという旨が。
それを聴き、いの一番に動いたのは誰か。
シャングリラを崇めし中央都市とは別の、火山地帯、森林地帯、海中、地底、天空に住まいし、世界宗教オラクルの地方支部の上層部たちだ。
その通達が彼らに届いて間もなく、教団のトップになったゾロスターのもとに、彼らから連絡が入った。
水晶の華となりたい、と。
こうなることが、ゾロスターの計算であり、かつ失敗の許されない賭けであった。あの演説を世界中の支部長たちに本気に思わせられるかどうかが分け目、彼は見事その勝負に勝ったのだ。
もっとも、本部があの「なんとなく」でしか生きていない矛盾まみれの体たらく、支部の信徒たちに何が期待できるでもなし、別段勝算の薄い勝負でもなかったが。
今までは、崩壊した。目的無くして、唯々諾々とシャングリラを崇めていれば絶対正義の世界、実はこの世はそんなものではなかった。
では彼らは何を求める。何も考えずに、根拠など考えたこともない「正しさ」に縋ってきた彼らは。
ただ放り出されたなら右往左往しつつもあるいは自分たちなりの「正しさ」をそれぞれ見出さんとしたかもしれない。何割かは、それにたどり着けたかもしれない。しかしそれより前に彼らは、ゾロスターによって非常に具体的に「正しさ」を与えられてしまったのだ。
正しさ、それすなわち究極のゼロの祝福、水晶の華と化す解脱。
なら、何も考えない、考えることすら知らない、それを「なんとなく」否定され続け否定し続けてきた莫迦の彼らが唯々諾々とそれに依るのは当然の帰結であった。
また、理由はそればかりでもない。「なんとなく」オラクルの教えを信じ続けていた彼らは、疑う余地もなくゼニスを信仰していた。ならばそのゼニスがより究極のゼロへと生まれ変わった姿、その糧となることは確かに、今までの世が崩壊し絶望した心を十分に埋め合わせる希望足り得たろう。もしかすれば「今まで以上」にそれは彼らの心に甘美に響いたかもしれない。オラクルなど、所詮は小さい命が勝手に立てただけの教団だ。無と化したシャングリラは、目的を失ったゼニスたちは、小さな命たちに何を要求することもなかったのだ。目的が無いのに何が欲しいはずもない。今まではそんな生き物だった彼らに「直接的な利益」として求められる。水晶の華にさえなれば。
そして、彼らは教主のことも「なんとなく」疑う余地もなく完璧に清い者と崇敬していたのだ。清らかな人物と同じ運命を辿れるということは、自分も同じ程に清らかであるという証左に他ならない。そして、何より慕ったその存在と同じ場所に至れる、敬愛を全うできる行為に他ならない。
水晶の華になることは、あらゆる面において彼らの希望足り得たのだ。ならば、なりたいだろう。一刻も早く。そう、一刻も早く「なりたい」。それは最早、目的意識だ。
猫をかむ窮鼠の突発的な生命力にでも、それは似ていたかもしれない。今までは大丈夫だ、大丈夫だと唯々諾々として生きていればよかった、それですべて満たされたのだから、焦りなど持つ必要もなかった心。その心に、「もうそれでは満たされない」と、事実絶対者であったゼニスたちが滅ぼされているという現実と共に吹込めば、度を越した、不安が、焦りが、そして安寧に、正解に向かいたいという衝動が生まれて当然だ。しかもその「正解」は、あまりに具体的に提示されている、と来たものだ。
光、水、闇、火、自然、全世界のオラクル教団の地方支部上層部は、タブラ=ラーサの凶悪さとゾロスターの演説の前には、皆まとめて罠に吸い寄せられた子ネズミだった。強いバイタリティ、水晶の種を心に抱えたかわいい子ネズミたち。
彼等は水晶の華になることを求めた。一刻の猶予も彼らにはない。世界が潰された恐怖に直面し、すぐにでも狂いそうな不安に晒される彼らには。
そして、上層部ならばさすがに莫迦でも気づくのだ。窮鼠の生命力故に、一番の抜け道に気付く。水晶の華と化すには相応の徳が必要であるという、ゼニスへの献身が必要であるという、だから教主は華と化し、一方一般信徒たちは「まだ」の段階だという。
ならば、一刻も早く救われたいのなら、上層部にだけはちんたらその「徳」を今から積むより手っ取り早い方法がある。自分はこれまでこれほどにゼニスに、オラクルに献身してきた、と証明することだ。
地方支部を率いていた実績がそれに足るなど考えて当然だろう。そしてゾロスターにとっても、断らずに認めて何の不自然もない当然だ。
演説が、水晶の華の輝きが、魔術に乗って、技術に乗って、世界中に伝達された一晩。世界中から同じような連絡を受け、同じように返答する、「お前は水晶の華となる器だ、即刻中央都市にある野原に集合せよ……」これをひたすら繰り返し続ける……世界を揺るがさんばかりの一世一代の大仕事のようで、演説を終えたゾロスターにとっては、あとはそんな単純作業が一番骨の折れる仕事であった程度だ。
日が昇り、また沈む頃には、広場はすっかり喜び勇んで駆け付けた信徒たちでぎっしり埋まっていた。本当はタブラ=ラーサに殺されただけの上級信徒たちは華となるため身を清めているのだ、というハッタリのごまかしもついでに出来たというものだ。世界中から集まった信徒たちの中に彼らがいないなど、誰にもわかるわけがない。
前教主の華、三輪の花を咲かせた水晶の薔薇、ゾロスターはそれを広場に、一番目立つように植えていた。莫迦は、分かりやすいものが無ければ何も考えられないから莫迦なのだ。ならば分かりやすいものを見せてやるに越したことはない。「偶像」を。誰よりゼニスに献身したが故、世界で最初に水晶の華の祝福を受け、野に真っすぐに咲く教主の華。実に良い偶像ではないか。事実集まった信徒たちは「こと」が始まるまで、言われたわけでもないのに、その巨大な水晶の薔薇の輝きに見入っていた。
そして、日が沈んだ時。ゾロスターはあらかじめ、神聖なる儀式が始まると都市部の信徒たちに、広場の周囲でそれを見守るよう号令をかけていた。日が沈み、彼らが見たのは、あの教主の華を取り囲む、世界中から集った上級信徒たち。
そして。厳かなゾロスターの呼び声とともに、緋色の翅を羽ばたかせ現れ出でる。
暗い夜、白衣の信徒に傅かれしなやかな長い腕を揺らす、星の光にきらめく巨大な水晶の蝿。
「あれが、クリス=タブラ=ラーサ様……」
誰が、言ったのだろうか。
「なんてお綺麗なの……」
だがおそらくその誰かはシャングリラを殺したときの彼女のことは、恐ろしいと思ったはずなのだ。
タブラ=ラーサの三対の腕のうち二対は、二の腕までは一本であり、肘から枝分かれするように二本ずつが生えている。
そんな、生命として本来悍ましく思ってしかるべき構造すらも、星の光にその透き通らんばかりの白さを輝かせ、きら、きらと瞬くエネルギーを蓄えながら信徒たちをまとめて抱きしめるように腕を伸ばすその艶美な所作にかかれば、悍ましさどころか人知を超えた神秘性の証明にでもなり得た。
彼女が広場中にエネルギーを一斉に降り注がせた。それと同時に、満場のものは見た。
幸せそうな顔をして、結晶化していく大量の信徒たち。あるものは水晶の茎をのばしある者は水晶の蔓を伸ばし。そして一斉に、花開く。
そこには水晶の蝿……いや、光り輝く水晶の神と、その水晶の力に選ばれた美貌の神官、その二人に見守られ、この世で最も尊敬すべき信徒の水晶の薔薇を取り囲むように、星々の光に煌めき続ける、あまりに透明に輝く、広い、広い、水晶の華畑が咲き誇ったのだ。
その光景を構成するすべてが、美しい。圧倒されるほかはない神秘の光景。
誰も、心奪われぬ道理などなかった。
オラクル・セレス。そう自分たちが生まれ変わることは正しいことなのだ、祝福されし新たなるステージなのだと彼らが信じるには、あまりにも十分な一幕だった。
民は、神の心など分からない。
彼等の目には、数日前までは世界を滅ぼす怪物のように見えていたタブラ=ラーサが既にこの世で最も美しい存在のように映っていた。
だから、衆愚の目には映らない。
衆愚はもう彼女の恐ろしさにも注目しないなら、同様にこれを成し遂げた彼女自身こそが一番戸惑いを感じていたことなどにも気が付かない。
水晶の輝きを宿す美しき神、この世に新たなるステージを齎すゼニスの上に立つ最高神が、そんな感情を持つわけがないのだから。わけがないからあるはずがない、それで止まってしまえばこその、何も考えてこなかった莫迦たちなのだから。
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「兜を脱ぐ。お主は頼りになるやつじゃ」
その「最高神」として祭り上げられたタブラ=ラーサが、「一番の従者」であるはずのゾロスターにそんな台詞を言っていることなど、それにも勝って衆愚たちは思いもよらないだろう。
別に、それでいいのだ。
事実としてタブラ=ラーサは、ただこの世界に飛来してきた怪物でしかない。彼女自身すら、彼女が彼女以外の何者であるかの定義などあいまい、そんな存在。
鰯の頭も信心という言葉がゼニスのみを神と崇めるこの世界に存在したわけではないが、存在してさえすれば兎に角もそんなものだ。その、自分の観測範囲内では存在すら知れるはずがなかった概念にたどり着いていたのが、ゾロスターという男だった。
神だということにして、信じさせれば、それでいい。本物のタブラ=ラーサが何であろうが、信徒たちが信じていれば神の役目は果たせるのだ。何もせず何も求めず天にぶら下がっていただけのゼニスが神足り得たのだからそれと全く同じ話だ。「偶像」とはそんなものだ。それにたどり着けたのが、物見塔の上から何もしない生き神たちを眺めていたゾロスターという男だった。
「気に入った。なんと麗しい水晶の華畑」タブラ=ラーサは神殿の上から、一輪の華から水晶のマナを吸い寄せ、その体に取り込む。彼女の身体は発光し、同時にそのもとは誰とも最早しれない一輪はしおれるように輝きを失っていく。
「さすがに一輪一輪はお主ほどのエネルギーには足りるまいが、あそこまで数がそろえば十分であろう。食らい尽くすが楽しみじゃ、ほほほ」
水晶の輝きを増しながら、漸くタブラ=ラーサはゾロスターの切望していた一言を出した。
「お主はわらわの要求を成し遂げた。しかもこれほど早々にの。約束は守るぞ。お主は生かそうぞ。お主は確かに、わらわの知らぬことを知っておる。喰ろうてやるには、勿体ない」
「……有難く存じます」
どうやらこれにて、本格的な命拾いだ。ゾロスターも内心で、抱え込み続けていた荷が下りて、ほっと一息つく。
……。
その本気の安心が、『最終的』にはおかしいこと、その始まりであった。
なぜ、彼はタブラ=ラーサを、約束をこの先もずっと守るだろうと、心の底から信じたのか?この世で唯一、彼女は絶対なる神ではなくただ外界から飛来した、この世の命などなんとも思っていない怪物でしかないと知る彼が。内心がどうあれ言葉の上でなど、どうとでも他人はごまかせることなど当事者として知る彼が。
誰も何も考えていない世界で唯一考えていたゾロスターが心及ばぬ領域があった、いや、「できた」ことに、彼自身、気が付いていなかった。
神を信じない、自分しか信じない、「変化」など嘘でしかないと唯一知る彼自身に起こっていた「変化」に、彼は存在すら気付いていなかった。
理由を意識すらせずただ信じる、そんな存在を、彼自身はある辛辣な名で定義したはずなのに……。
「まだまだやることは山積みです。この世を水晶の華畑に致しますには」
命拾いをした、それを本格的に信じたからこそ、ゾロスターは喜々として機嫌のよさげなタブラ=ラーサに話しかけた。命の危機という恐怖から解放された彼の頭は、その分空いた余裕を埋め尽くすほど、次々廻りだす。
「そうなるべき世界に『生まれ変わった』ことを衆愚共には徹底的に理解させねばなりますまい。莫迦にでも分かる形で。必要なのは変革と、象徴(アイコン)です」
彼はパンパン、と手を叩き、神殿の中に数名の信徒を招く。彼らはタブラ=ラーサを見て「おお……」と感嘆したようにひれ伏した。
「貴女様が我らがお仕えするゼニス・セレス……」
「そうだ。粗相のなきよう」
「ゾロスター。こ奴らは何者じゃ」
タブラ=ラーサが指さした彼らは、スケッチブックのようなものと筆記具を持っている。
「オラクル教団で、信徒の聖衣の作成にあたっていた者共と、ゼニス神殿の建造、および維持にあたっていた者どもです」と、ゾロスター。
「彼奴等に貴女様のみ姿を模したものを作らせます。それを通じてオラクル・セレスは『今までのオラクル』と違う存在になったことを知らしめます。今日は、そのために貴女のみ姿を間近でよくスケッチさせるため彼らを呼び付けました……さて、お前たちも尽力するが良い。喜べ。いの一番にお前たちは、ゼニスですらない、ゼニス・セレス、その中でもクリス=タブラ=ラーサ様への直接の献身が叶う身なのだ。その身に着けた技術故、その技術を得るほど、お前達が今まで成し遂げてきた『努力』故に!」
「はっ!」
「ゾロスター……わらわの姿などで、何をすると?」
余り状況が理解できていない様子のタブラ=ラーサに、ゾロスターはそっと信徒には聞こえないように告げる。
「後々説明いたします。今はただ凛然と構えておいでを」
「しかし……」
「ご安心を」彼はそっと囁いた。信徒たちには聞かせないように、ただタブラ=ラーサ一人にその言葉を。
「貴女は、神の姿足るほどお美しい。誰とて、信じますとも」
「……何を申す」
しかし彼女もそれ以降、すんと黙った。「その方ども。せいぜい、威風ある様描き記してたもれ」と、その信徒たちに告げたのを最後に。あの日、あの神秘の夜に水晶の神の輝きに魅せられた者として、その姿を前にしその言葉を聴くことを許される陶酔のうちでただ陶然と返事をし、筆を動かし始めた彼らのことなど、彼女自身は全く価値のないものどころか、疑わしい者でも見るような眼で見下して。
しかし、彼らが夢中でペンを走らせていなかったとしても、神が小さき命にそんな視線をくれたところでなんだというのだ。彼らがそれで失望するものか。慈しみも価値があれば、蔑みすらも価値がある。蔑まれれば失望するどころか、蔑まれないためにもっと尽力せんとより一層の献身を呼び覚ます。それでこそ、神。それでこそ、崇拝なのだ。
「この後のことですが」
一通りタブラ=ラーサのスケッチを終えて彼らが帰ったタイミングで、ゾロスターは説明した。
「まず、この神殿を改築することとします。シャングリラ像は取り壊し……はさすがに反感を買いかねませんから、地下に適当な倉庫を創らせて適当な名目を付与して第二の聖域扱いしてそこに移しでもしまして、ともかく大聖堂には貴女の姿の像を据え、貴女の名を冠した貴女の寺院へと改築いたします。タブラサ・チャンタラム……そんな名前などいかがでしょう」
「いかがでしょうと言われてもわらわは分からん……お主の判断ならそれで良いのではないかえ」
「ではそれに致します。そして次にオラクルの聖衣につきまして。我々は今まで個性なき白衣をアイコンとしてきましたが……それに、新たなるアイコンを足します。貴方様の姿、蝿の顔を模した仮面です。それで信徒たちに顔を隠させます」
「なんと!?」信徒たちには聞かせるわけにはいかなさそうな、素っ頓狂な声がタブラ=ラーサから飛び出た。その腕で自分を指さしながら。
「この姿じゃぞ!」
……蝿。タブラ=ラーサは、蝿の神。
数ある蟲の中でも忌み嫌われる存在だ、それは。いくらタブラ=ラーサ自身は水晶色に輝き艶美な腕を伸ばすと言えども。
糞に、屑に、腐肉にたかり、ぶんぶんとうるさく飛び回る。だからあれらは汚くて醜い。そう、多くの命が言う。「この星」以外でも、多くの世界で彼らはそう定義される。それが蝿という蟲だ。
だが、それは。
「タブラ=ラーサ様。そのようなご心配は、無用というもの」
花の間をひらひら飛び回る蝶ならば美しい。硬く力強く黒光りする甲虫ならば美しい。透明な翅と共に俊敏に飛び回る蜻蛉ならば美しい。
そんなものは全て勝手ではないか、主観ではないか。糞や腐肉の間を渡り歩くことが醜いという、一見根拠のように見える代物自体も主観でしかない。なぜそれが醜いのか?汚いものを渡り歩き雑菌を媒介するから?ではなぜ雑菌を媒介することが駄目か?それで知的生命体が損を被るから?では蝿が知的生命体に遠慮してやらねばならない理由はなんだ?知的生命体が自分たちの利益にもとるからと蝿の美しさまでもを貶めていい理由はなんだ?害があれども蜂や蠍ならば威風があって美しいと言われよう物を、なぜ毒で攻撃するでもない蝿は貶められなければならない。誰が本質的な答えを出せる。
「なんとなく」で勝手に定義され、共有されるのが美しさというものだ。
「この世はすでに、貴女様こそが美しい世界なのですから」
ならば、蝿がこの世で最も美しい生命体になる世界とて、全く生まれておかしくないのだ。
そのような世界に、そのような価値観に、ゾロスターがこの世を塗り替える。
「あの広場に集まった者共が水晶の華となりたがったは、焦り故です。自分達は水晶の華になり得ぬ劣った存在である、ということを恐怖したが故です。自分が劣った存在である恐怖こそ,そこから抜け出すための目的意識を、水晶の種を育てる。ならば少々彼らには、『劣っている証拠』を常々見せ続ける必要があります。彼らは恐怖に晒され、焦る必要があります。そしてさらに、この世に新しく存在した貴女様こそが至高に美しき存在なのだと、片時も忘れず見せつけられ、徹底的に刷り込まれる必要があります」
それらを同時に満たす方法が、この面をつけさせることだ、というのがゾロスターのはじき出した結論だ。
「『水晶の栄光からまだ遠きものは、その俗物の顔を聖なる神の面で覆い隠し、聖なるものへと近づけ』……これを新たなる教義の一環と致しましょう。洗顔と沐浴、食事のときを除き、片時も蝿の面を外さず、また外せぬ他者を見続けることで、彼らは日常的にまだ俗である焦りと貴女様への崇拝を刷り込まれ、水晶の華と化す目的意識を高めます」
「……お主も付けるのかえ?」
「私はつけません」ゾロスターは即答した。
「すべてが平等であるよりも『劣等』の象徴から外れている者が存在した方が、より一層自分が劣等である実感を強く得られますよ……その役者は教主である私が一番ですからね。なんでしたら、水晶の華になる者たちには、その時マスクを外させればよい。面を持って存在を恥じる必要がなくなった解脱者としてね。実際に華と化した教主や、あの上級信徒たちはまだこの面を被っていなかった事実に、都合良く繋がりもいたしましょう」
ふーむ、とタブラ=ラーサは呆れたように言った。
「奴らの事ならお主の方がよっぽどわらわより理解していよう。お主が言うならそうであろうな。信じようぞ。しかし……信じればこそ分からぬ。なぜそこまで、そ奴らは自分自身を信じぬのじゃ」
「……それは……彼等の問題というよりも、貴女様がそれを理解する必要のないほどの存在であった故でございましょうかね……タブラ=ラーサ様。たいていの命は、貴女様よりは小さいので」
……その返答に関して、彼女は。
「……そうやも知れんの」とぼそり、と返した。
「さて。その仕事は彼等に任せると致しまして……一先ずのところ、この世全体を水晶の華畑にするため、あの水晶の華の力でタブラ=ラーサ様にもお頼みしたいことが」
「なんじゃ?」
「目下のエネルギー供給源ができたところですし、そのお力でニルヴァーナ・ゼニシアに行きゼニスを一層できませんでしょうか?もはや彼らは旧き神、何でしたら貴女様は彼等をゼロとして救うために現れた、と言うことにしましたので、もうアレらに生きていられると邪魔です。すべて貴女様に蛆人形で支配されて初めて、教義が真実として完成する。アレらはもうニルヴァーナ・ゼニシアで精々永遠に眠りこけてもらいましょう。それでその後は……そうですね。莫迦は『今まで』が完全に消えてもそれはそれでついてこられませんし、偶像が身近にあった方がより励みとなりますので。グレイテスト・グレートのように何体かは、『ゼニスの偶像』として生き残らせるのが良いかと思われます。如何せん偶像は多すぎても安っぽいことですしそのせいでやたらと分派でも勝手に産まれられたら困る……そうですね。五体。五元のマナと同じ五体のゼニスを、貴女様の配下のゼニス・セレスとして自我を消し去って従え、それぞれを各文明に派遣し、『その土地のゼニス』として祭り上げ、地方の信徒たちの励みとなって頂きましょう。既に火文明の分はグレイテスト・グレート、水文明の分はレディオ・ローゼスが居ますから、あと三体……いや……どうしたものだか、ここは……」
「?」
「……とりあえず、ニルヴァーナ・ゼニシアを壊滅させたのち、闇と光の分のマナに親和性の高いゼニスを一人ずつ確保してきて頂きたい。闇と光に近しいゼニスであれば、別段だれでも構いませんので。それと……可能な限り、ゼニスを一掃するのみで、建造物は綺麗なままでとっていただければ嬉しいことこの上ございませんが」
「承知した。ちなみにわらわが最初に滅したアレが最強であったとして……ところでゼニスとはどれほどいるのじゃ?」
「旧教義によれば……」
ゾロスターが取り出した旧オラクルの書物にざっくり目を通してタブラ=ラーサは「まあ可能であろう」とあっさり返答した。
「闇と光、じゃな。最初に出会ったものを連れて帰って参る」
……今一度、ゼニス相手にこんな果物を摘みにでも行くかのような気軽さで討伐に行くタブラ=ラーサの桁違いな恐ろしさをゾロスターは実感する。けれど実感すれど今は恐怖は伴わない。タブラ=ラーサは自分を信頼している、と確信があるからだ。……「なぜか」彼はそう信じているからだ。
「早い方が良かろう?まあ、あの程度がこの数なら七、八輪も枯らせば済むか」
「枯らせば……あれ、タブラ=ラーサ様。そういえば」
ゾロスターはふと、疑問に思ったことを口にする。
「水晶の華は元の姿にも戻れるようですが……一度華となったあれらはもう死んでいるのですか?」
「いや、死体はともかく生きたまま水晶の華となったものは、華になっても生きておるぞ。思考回路は多分存在せんが」
「え?」
それに対してサクッと返事をしたタブラ=ラーサの言葉に、さすがにゾロスターも呆気にとられた。
「生きている……?」
「うむ。水も光も肥やしもいらぬが、おそらく、元の身に宿るのと同じマナを吸い取って生きておる。以前一度には喰いきれんほど華を咲かせた際に、中々枯れんどころか、マナの湧きでる洞穴に咲いた者は成長しておるのを見て知ったのじゃ」
「では……」先ほど、タブラ=ラーサにマナを吸い取られ輝きを失ったのを遠目に見た一輪の事を思い出し、ゾロスターの脳裏にはさらにこの後のビジョンが浮かんだ。
「ひょっとして、マナの世話をして生かしておけば、ただ一気にマナを吸い枯らすより水晶のマナを産みますかね?」
「そうなるのではないか?」
「……そうしましょう。タブラ=ラーサ様」ゾロスターはにやりと笑った。
「一輪ずつお召し上がりになるよりも、全てから小出しに回収し、華は活かし続けましょう。その方が長い目で見てより多くの水晶のマナが生まれるではありませんか」
タブラ=ラーサが水晶の華は生かした方がマナを産む、という知識はあった以上、知識があった上で本当にそんな発想が持てない生粋の狩人の精神の持ち主が彼女であったのか、それとも彼女ほどの凶悪ならばそんな手間よりも世界から世界に飛び回り狩り尽くし喰らいつくした方がよっぽど楽だという判断だったのか、それは分からないが。
いずれにしても、彼女はおそらく今まで一人だったからそんな選択肢がただの狩りより現実的な選択肢足り得はしなかった。一人でそんなことをするのは手間だから。
だが、今はいるではないか。彼女の代わりに水晶の華を世話する、無数の手駒が世界中に。
命を水晶にしマナを吸う狩人は、農民となるのだ。いや、農民を携え農民の労働の糧を何の苦も無く味わい肥える女帝となるのだ。
「マナの問題だけではありません。信徒たちの管理の面からしても得策です。彼らには献身、努力が必要だと説いた以上、こちらは彼等に仕事を与えねばなりません」
まさに改革のこの瞬間ならば、寺院を創るにしろマスクを創るにしろ仕事など無数に存在するが。時がたちそれらが完成しても、努力と献身をせねばと必死になる信徒たちに仕事は必要だ。
勝手に動かれて、把握できない事態が起こっても困る。地方の上層部までもが消えゾロスターが完全なワンマン体制を敷けるようになったのはメリットだが、細かいところにまで目が回りにくくなるのはデメリットだ。
だがそれも、「分かりやすい、決まりきった仕事」を全信徒に与えてやれば済む話。そして、彼らは唯々諾々とそれに従う器だ。まさに今までのオラクル教団で何も考えずに与えられた仕事をこなし続けてきた莫迦達こそが、彼等だから。目的を否定されたうえで与えられた仕事のみをこなすか、この努力を誇りに想えと言われたうえで与えられた仕事のみをこなすかの違いしか生まれない。
タブラ=ラーサがこの世界に生きる以上、水晶の華の世話をし、水晶のマナをより多く産み出させる仕事が不要になるはずもない。信徒に与える仕事など、これで完全に間に合う。それに仕事をさせる以上、華が足りなくなったなら、いくらでも適当なものを十分に献身をしたから水晶の華となってよい、と言う口実まで勝手に湧き出るのだ。
「水晶の華畑、など野に花が無造作に咲き乱れる様子の言葉になぞらえるには勿体ない。この世は正真正銘、貴女様のために煌めきマナを産む『畑』と、それを世話する衆愚の農民共の世界へと生まれ変わるのです」
そのビジョンを聴き。タブラ=ラーサは。
「……お主」
神妙に、目の前の男に向かい合った。
「よくそこまで次から次へ、色々と考えつくの」
「……光栄です」
「わらわは一切考えも及ばんかった。水晶の華など適当に喰らえばよきものと思っておった故。じゃが、お主が言うなら何かと成功しそうな気がしてくる。事実としてあれだけの命を水晶の華に導いたがお主じゃ」
彼女はつい、と手招きするように、水晶の華が咲き乱れる広場に向かって手招きする。今度は、マナを吸い出されるのは一輪だけではない。大量の華から……ごく少しずつ、小出しに。
それでも相当の量を吸って、彼女の身体は、水晶の輝きを増す。彼女の前に立つ神官の男の瞳の中で、彼女は真に、美しく輝いていた。蝿でありながら、この世で最も美しき者として。
「お主の様々言うところによれば……『新しさ』がこの世には入り用か?」
「そう考えます。オラクルが、ゼニスが『セレス』となるように」
「しからば、教主たるお主にも『新しさ』があるというのはどうかのう」
神秘の輝きを身に宿しながら……ふと、彼の方を向いてタブラ=ラーサは言った。
「……と、仰いますと?」
「お主の名がどこから湧いてきたかは知らんが、折角じゃからお主、名を棄てよ。わらわに名づけられた者として生まれ変われ。それはお主の申す『改革』足り得はせんのかえ」
「……!それは……」
言うまでもない。
教主自らが、前体制の下与えられたもの、それも名前という大きなアイデンティティを棄て、新たなる神に新たなる名を頂く。最高の「改革」の象徴だ。
「是非に!」
「では」端正な顔を明るく笑わせた彼を見て、タブラ=ラーサもにっこりと笑って告げた。
「今までの名は棘が立っていて嫌じゃ。ツラトゥストラ、とこれからは名乗れ。わらわは刺々しくない者の方が好きじゃ」
「はっ」
ツラトゥストラ。
我が名はツラトゥストラ。その名を、『ゾロスターであった男』は噛み締めた。
「では、わらわはニルヴァーナ・ゼニシアとやらに行って参る」
そう言ってタブラ=ラーサは翅を広げ、神であった無為の命を屠りに天に飛び立つ。
だがその光景も見送らず、彼は噛み締めていた。
我が名は、ツラトゥストラ。
彼がその名を、その名を与えられた事実をそこまで噛み締めた理由は何か。彼はなぜ、タブラ=ラーサのことを自分にとっては驚異足り得ぬと信じるのか。彼をそうさせたそれはなんという名の「感情」であったか。
それを、彼は知らない。
オラクル・セレスに教主の座に変わる新たなる位階、「水晶の力に選ばれし者」が成る、実質的にただ一人のためだけに作られた位階「センドウ」が生まれ、そこに最高神から新たなる名を授かった扇動者、ツラトゥストラが就いた日と。
神の都として崇められたニルヴァーナ・ゼニシアがあの日のオラクル教団本部の如く凄惨とすら言えぬ様相を呈して蛆に喰らいつくされ、そして地上の民は光のゼニス、ライオネルと闇のゼニス、サスペンスがタブラ=ラーサに「救われて」地上に舞い降りたのを見た日。
それは、同じ日の事であった。