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オラクル・セレスは生まれ変わった。世界は間違いなしに生まれ変わった。教団本部には最高神クリス=タブラ=ラーサが。そして自然を除く四文明には、彼女の言いなりのように、目的を得た代わりに自我を失い真っ白な姿になったゼニスたちが。
あの広場に咲いた上級信徒たちの華をいくつか、その身に宿すマナの土地に移植し、さらに現地の熱心な信徒たちを何人か華に変えて本格的に各地に畑をつくり、今のところは面積的には少しなれど、文字通り世界中に水晶の華畑は産まれ始めた。次の目下の目標はまず、その畑をどんどん拡大していく段階だ。
ツラトゥストラにとって意外だったこと、そして幾重にもありがたかったことには、蛆人形で支配されたゼニスたちはまったくもって自律ができない、という話ではなかったらしい。タブラ=ラーサに永遠に眠っておれと言われればずっと停止し、「こうしろ」と言われた事のみをする、そんな存在となることが、彼女に支配されると言うこと。
目的の概念が無いのなら、当然仕事の概念もなかった神の都市に住まうかつての神々。彼等に課せられた仕事は、天より下に堕ち、地上で蝿のマスクをかぶりながら水晶の華をかいがいしく世話する、各文明の信徒を管理する……見守ることであった。
それだけではない。
「ツラトゥストラ。奴らは一応、そこそこ偉いことになるのじゃな?」
「まあ、そうなりますでしょう。元々のゼニス信仰に乗っているのが現状の私たちなので」
「しからば、しもべが居た方が決まりがよいのではないかえ?……いくら、強い強いと言われようが、なんだかんだと強い者にはしもべが付く。あのお方様もそうじゃった。……ああまでたったお一方でも強いお方なれど、しもべとともに生きておった」
それに、ふーむ、とツラトゥストラは思案した。確かに神に対するみ使い、一応の文明の管理者たちの直属が居た方が威厳は増そうが、ではどのように各地のゼニスの直属を選別したものだか。だいたい仕えさせたところで頭がまっさらになっている言いなり人形が彼らであるわけであるし……しかし彼の考えは、次の瞬間にひっくり返された。
タブラサ・チャンタラムの大部屋から外に手を伸ばしたタブラ=ラーサが何かを手招きするようなしぐさを取る。そして……窓の外に時空が歪むように水晶色に輝く穴が生まれ、そこから現れた。うじゃうじゃと。
巨大な蝶、蜻蛉、蠍、蜂、甲虫の超獣たち。
皆……一目でわかる。ゼニスたちと同じだ。目に見える蛆人形こそ沸いていないが、何も考えてはいない。
「タブラ=ラーサ様!」ツラトゥストラもさすがに驚いて聞いた。「彼らは……?」
「わらわに支配された民共じゃ。もはや生物として『何』なのかは、わらわにも『分からぬ』が」
余りに強いがゆえに、見下しという概念がタブラ=ラーサにはない。今まではそう思えるようであったが。
彼女は少し、彼らのことは見下しているように思えた。
「いずれにせよアレらも、わらわの命令通りに動く。命令せねば口一つ動かさぬ。強さもまあそこそこであろう。アレらをゼニスたちのしもべにあてがうのはどうかえ?」
「……なかなかの、いや、かなりの良い手のはずです!」ツラトゥストラはポン、と手を打った。
タブラ=ラーサが与えた、この世には存在しなかった「何とも分からない」者なら、何も考えていない姿が奇異に映るわけも無し、かえって完全なゼロを成し遂げる神の与えたみ使いならばそうもなろうという話も可能だ。そして四人のゼニスたちはタブラ=ラーサの祝福を受け、地上の神となったことになっているのだから、そのタブラ=ラーサに自分達では想像も及ばない、「何ともわからない」者を与えられたなら、偶像としての彼らの神秘性も、タブラ=ラーサの神性も増そう。それでいて戦力にはなってくれるなら、申し分なし。
彼等に、タブラ=ラーサが神に与えた強きみ使い、という話以外はいらないのだ。「何もわからない」ことこそ、むしろ存在の意義を際立たせる。彼らは「アンノウン」で十分だ。信仰に値する神聖など、分からない所があればこそだ。事実タブラ=ラーサの実態など誰も知らないし、目的を失う前のゼニスの姿すらほとんどの民が知らなかった。
……しかし、どれだけの手札があるのだ、タブラ=ラーサには。その事実は今一度ツラトゥストラにのしかかる。世界を駆け巡ると言われる彼女のやることは計り知れやしない、それこそ「分からない」。
さて、とにかくもそのようにして各地に蟲の姿のアンノウンがゼニスたちの傍に群がる形でばらまかれた。彼らはどこから来た何者か知らないがこの世界同様五元のマナのもと成り立つ世界に生きた命ではあるようで、光には蝶族、水には蜻蛉族、闇には蠍族、火には甲虫族、それぞれの身に宿るマナが、そのような姿を産むらしい文明に派遣された。唯一、自然……まだ、ゼニス・セレスが派遣されていない土地の力を宿すアンノウン……蜂族は、バラバラにあてがわれた。
タブラ=ラーサは彼等を、手元に置いておきたくない様子であった。
それはさておき、まさにその「自然のゼニス」に対する考えも、ついに大方現実的な物としてまとまりが付いた。
「タブラ=ラーサ様!」
ここ数日、全ての知識の収められている文殿、と称されるアルケミスト・ヒルズに籠っていたツラトゥストラが、タブラ=ラーサの下へ帰り次第言ったのだ。
「ニルヴァーナ・ゼニシアに行きましょう!探し物があります」
緋色の翅を羽ばたかせる神の頂点と、純白の翼を羽ばたかせる扇動者は、誰もいなくなったニルヴァーナ・ゼニシアに降り立つ。
神々しい、と少なくとも旧世界で称された輝きを宿したままではあれど、誰もいなくなったそこは最早、「神」に見守られ賑わいかえる地上の水晶の華畑とは比べ物にもならない様相であった。神が、ここに住まうはずはない、と言わんばかりの。
それはそうとして、アルケミスト・ヒルズから持ち出した古文書と首っ引きでツラトゥストラはある場にたどり着いた。「あった!」彼が大きな声を上げて喜んだのは……空っぽの、大きな鎧であった。
「ツラトゥストラ。なんじゃこれは」
「広くは知られていないのですが、私は上級信徒でしたゆえ、ゼニスが目的をなくす前の歴史も聴いたことがございます。それに伝えられていたのですよ……『ゼロの鎧』が」
まだ、ゼニスが生まれ「目的」の概念を宿していた時代、その鎧は作られた。
しかし程なくしてシャングリラが無と化し、ゼニスは全て目的を失い、その鎧は必要とされることなど無くニルヴァーナ・ゼニシアに放置されていた。
「私は常々、『新しさ』を適度に盛り込んでこそ彼らを動かせると申してまいりましたが」と、ツラトゥストラは言う。
「地上で信徒たちを見守る、最高神直属の五大ゼニスの中に、一人ほど『新たなる者』かつ、ゼニスを知る者たちの目にゼニス、とは映る者が居ても良いかもしれないと判断したのです」
最高神の従える五体の中に、新たなる者がいる。それもまた、改革を象徴する「新しさ」足り得はするだろう。タブラ=ラーサは古きも祝福すれば、新しきも祝福する神、と。
とはいえゼニスは思念がなぜやら命を持った生命体、いくらタブラ=ラーサとは言え作ろうと思って作れるとも思えないし、彼女の力の底知れなさゆえ仮に作れたとしてもあの蟲のアンノウンを見ても分かる通り、タブラ=ラーサと彼女の生み出すものは、どこまで行っても有機的な蟲の怪物だ。今まで自分たちがゼニスと崇めていたどこか無機質さをはらむ者たち、レディオ・ローゼス、グレイテスト・グレート、サスペンス、ライオネルの四名にタブラ=ラーサの被造物が並ぶと、どうにも過剰に浮いてしまいかねない。
そこに来て、「ゼロの鎧」だ。一般信徒では存在すら知らない、事実ゼニスではない、しかしゼニス的な物質。
「伝承によればしかるべきエネルギー源を持つことで、ゼニスとして完成するはずの鎧であったと言われております。……これを、自然文明のゼニス・セレスにあてがいましょう」
その新たなるゼニスをあてがう先として自然文明を選んだのも、雪山に住まう妖精たちがいい例だが、彼らは特に一度信じる、仕えるに値すると思った対象にはとことん献身的に従う。オラクル設立当初も、妖精たちはいい仕事をしたらしい。
ならば、信じさせることさえ叶えば見知らぬゼニスをも受け入れさせる先としてぴったりだろう。
「ふむ。まあでも今はただの鎧。まったく動かねばさすがに信徒共も不審に思おう」
「ええ、まあ。ですから今は一先ず持ち帰り、めどがつき次第……」
「動くか否か試してみる。水晶の力を注ぎ込んでみようぞ。華が何輪入り用かの」
タブラ=ラーサは腕を伸ばし、ひょい、と巨大な鎧を子供を抱えるように抱き上げた。……ツラトゥストラに、願わくば貴女には何をして欲しい、と言われないうちから。
水晶の力で何とかできないか、それは確かに、彼が一番に想っていた選択肢ではあったが。
少々、その運びの良さにあっけにとられるツラトゥストラに、タブラ=ラーサも翅を広げたタイミングで気付いたようで、彼の方を振り返り、そして……腕の一本を口元に添えて、笑った。
「なんぞ、わらわも楽しゅうなってきた。どこまで出来るかのう。ほほほ」
……その顔、ニルヴァーナ・ゼニシアの奥底で笑った彼女の顔は。
旧き神の都で、新しき神が見せた表情は、到底神のものとも思えない。
ただ、友と遊ぶ少女の様に無邪気であった。
後日。世界中から集めさせた水晶のエネルギーを注ぎ込みタブラ=ラーサが改造した「それ」を見て、さすがにツラトゥストラも絶句した。
あの何の目的もなかった神の都に打ち捨てられていた物質と形だけは同じなのに、形が同じという事実すらも認めたいと思えないほど、それは煌びやかに神々しく輝き、まさにその威光は最高神に祝福されし神の一柱にふさわしい。
「なんと、素晴らしい……!」長い絶句ののちに、彼も思わず本音が出た。
「これならば、自然の民も信ずるでしょう!」
「であろう!わらわも、アレらによう似せられたように我ながら満足しておる」
ほほほ、と彼女は笑うが、正直に言えば彼等よりも輝いて見えるくらいの代物だ。自分達の下にはゼニス・セレスが来ない、自分達は祝福されない民なのか、そう感じていたであろう自然文明の不安を優越感にすり替えさせてしまおう程の。
「名をつけましょう……ベートーベン、『戦鬼』の頂天ベートーベン」
オラクス・セレスは「目的」を肯定する。水晶の華となる目的のため。
『使命』を決して見失わず、目的のためならあらゆる『狡智』をも尽くせ。『己』の目的を阻害する誘惑には、いかなる『呪怨』すらもいとわぬ、ゼロの『戦鬼』となるが良い。それでこそ祝福が贈られる。無上に達する祝福を得る。
ツラトゥストラが打ち立てたゼニス・セレスの教義……結局のところ何も考えずに水晶の華を育て水晶の華になるだけの生を延々送らせる信者たちが結局どれも本質的には得られようはずがないその五概念のうち『戦鬼』をつかさどる役者がとうとう揃ったわけだ。
「じゃが、問題があっての」タブラ=ラーサは呟いた。
「わらわの蛆人形では動かんようじゃ。そもそもただ産み出しただけのアレは目的意識の有無などは別に良いが命がなきものは依り代にできぬ。これは本質的には結局ただの鎧じゃて、普通のアレは根付かん」
……本来のゼロの鎧は、エネルギー源を取り込むことで動き出しゼニスとして完成するはずだった。その本質は、変わらないと言うことか。
「水晶の力で動かすことはできぬではないが、大分力を喰いはするぞ。本格的に動かすとなれば、下手すればわらわより水晶の華を喰いかねん」
「……まあ、所詮は偶像なので、別段綺麗に輝きながらぶら下がっているだけでも最低限の仕事は果たせるのですがね」ツラトゥストラは少し考えながら言う。
「ベートーベンは貴女ゆえに生まれた新しいゼニスであることに意味を持ちますし、ならばむしろ今は満足には動かないという事実も、また『目的』化できるやもしれません」
新たなるゼニス、頂点たるタブラ=ラーサに生み出された、生まれながらのゼロの祝福を受けし存在。他の四名よりも輝く頂天。
しかし「今は」満足に動けず、ゼロでありながら大量にエネルギーを喰う矛盾を抱えし「不全」。……それを、献身によって「完全」なゼロとする。これもまた、努力を、目的を強いられる信徒たちの目的足り得はしないだろうか。
自然文明の民の献身の心をどこまでくすぐれるか、どこまでそんな存在はそもそも崇めるに足る相手ではないのでは?という疑問を出す隙を与えないか、そんな勝負は産まれるが。
「いずれ、適当なものをエネルギー源として埋め込むのも視野に入れましょう。なんでしたら話の流れ次第では自然文明に至ってはそれを、水晶の華にも並ぶ目的にしても良い。シャングリラが生まれる前から自然の民とは献身の民だったのは事実の様ですし、何万年たてど気性の本質は変わらぬでしょう。私は自然文明にベートーベンを連れて、信徒に説法をして参ります。彼が自然文明まで飛べるだけの水晶の力をお願い致します」
「承知した」
きら、きらと輝くオーラが注ぎ込まれるとともに、ベートーベンは動き出す。そしてツラトゥストラが翼を広げたのを見るように、それに従って動き出した。
「ツラトゥストラ」巨大な鎧の後ろからタブラ=ラーサが自分を呼んだのを、ツラトゥストラは確かに聞いた。ひらひらと振られる彼女の美しい手すら、見える様であった。
「首尾よう行きや。期待しておるぞ」
自然の民は、祀る者がいないまま作られたゼニス・セレスの神殿に、煌びやかに輝きながら唯一蛆人形を持たぬ不全なるゼニス・セレス、ベートーベンを受け入れた。
そして打算の程は見事に成功で、自分達を守り自分たちが仕えるゼニスが一番に煌びやかで、唯一タブラ=ラーサに生み出された特別ながら、産まれたて故に未だ完成していない存在と知った彼らは以前にも増して、森中を駆けずり回ってはマナを集め、水晶の華畑に朝な夕なとつぎ込み続けた。
タブラ=ラーサに献上する分は勿論、エネルギーを多く食うベートーベンの分もマナを産まねばならない。しかし多くの労働が必要とされるならそれすなわち、多くの努力を、献身を詰めるのだ。
そして彼らは心に、水晶の種を他文明にも勝って育てた。当然と言えば当然である。他文明の信徒たちが持ち得る目的意識が自分が水晶の華になる、ゼニスに献身する、であるのに加え、彼らはベートーベンという不全が完全足り得るように献身する、という目的も持つのだから。
水晶の種を十分に育てた信徒たちは、次々に水晶の華にした。元から命の数が多い自然文明だ、華化する信徒たちの数が多くても労働分には困りはしない。困りはしないどころか森中に広がる煌びやかに輝く華とそれをかいがいしく世話する者たちの美しさに、神秘性に民たちが魅せられるのも当然のことで、旧オラクルの時代にはあくまで在家の民であった者たちの改宗も自然文明では一番進み、労働力など寧ろ水晶の華を増やすほどそちらも増えていく。華畑の開拓計画の進みの早さにおいて、自然文明は文句なしの一番であった。
文句なしの一番があらば、競争心を煽らぬ手はない。自然文明の様子を知らせることで、光、水、闇、火の信徒たちも更に自分たちも劣らぬ献身を、水晶の華となる献身をと努力を重ねる。
全てが嚙み合って順調に回る中、その一番である自然文明においては、想定外の事態すら起きた。
ある日、自然の信徒からタブラサ・チャンタラムに通達があったのだ。見たことのない種族が畑に沸いている。邪魔をするではなく、寧ろなぜかオラクル・セレスでもないのに水晶の華の世話を勝手にしている、どうすればいいのかと……。
流石に不審に思い、ツラトゥストラも急いでどのような種族なのかの確認を取った。ビーストフォークに似た獣人族だが少し様子が違う、小柄で不思議なオーラを感じる。リーダーと思しき「姫様」と称されている者がおり、それはウサギの少女の獣人である……それを聴いて彼は思うところがあり、再度アルケミスト・ヒルズに向かって旧世界の史料を調べた。そしてある確信を得て、その「姫」とやらを至急、あくまで丁重にタブラサ・チャンタラムに連れてくるように、と命令した。
恐らくそれは、「ドリームメイト」だ。
シャングリラ以前に存在した、夢が小さな獣人の姿を取り命を持った種族。そして……シャングリラが無と化し、彼のゼロに定義された世界の全てが目的を失う中で、いつしか姿を見なくなっていたという。
夢……それはなんであるか。寝る間に見る潜在意識の幻覚でもあり、そしてあるいは……「目的」そのものにも使われる。
いずれにせよ、彼女ら彼らは「自意識」あっての種族なのだ。それならゼニスの名のもとすべてが自意識を否定した世界では、絶滅したのか休眠したのかまではわかりかねるが、姿を見せなくなったのは道理の通ることではないか。
……それがもし、再び姿を見せたなら。
その予想は当たった。何人かの従者を連れてタブラサ・チャンタラムの大広間に現われ、ツラトゥストラの前でお辞儀をした「メイ様」と呼ばれるウサギの獣人は、問われるままに自分たちはドリームメイトだと認めた。
「だとすると聞きたい」ツラトゥストラは彼女に問いかけた。
「お前たちはどんな『夢』が具現化して今この時代命を得た?そして、水晶の華畑を世話する理由は?」
「ずっと、従者たちと一緒に眠ったままでいて、自分が最初は何の『夢』だったかはもう忘れてしまったのだけれど」ドリームメイトの姫はそれに滔々と答える。
「『水晶の華を一生懸命育てて、水晶の華になる夢』……それが急になだれ込んできて、眠ってもいられなくなったし、本性はそちらに『すり替わって』しまったの。だからみんなで華畑に行ったの。水晶の華になる夢の化身が、今のわたくしたちだから」
……この世界は。
この、タブラ=ラーサに言わせればツラトゥストラ一人以外には何の価値もなかったほどに誰にも目的のなかった世界は。ここまで、様変わりした。
ツラトゥストラのあずかり知らぬところで、「こんな存在」が。水晶の華になる目的そのものの化身が生まれた。それほどまでに、水晶の華を目指すことは当然の美徳という価値観が、完成した。
その事実に今一度、ツラトゥストラは目を見張る。
「メイとやら」彼はウサギの少女に微笑みかけた。
「正式にオラクル・セレスに帰依する意思はあるか?」
「えっ?わたくしたちってオラクル・セレスじゃなかったの?」
「信徒たちの話を聴くに洗礼は受けていないはずだしマスクも支給されていないからな。だがもしその意志があらば、この私直々に洗礼を施し、そして特にお前には自然文明の信徒の長……支部長を任せたい。水晶の華となる意志そのもの、その『姫』たるお前だ、その意志を誘う器にはぴったりだ」
ぱあっと笑う愛らしいウサギ。それに微笑む美男の扇動者。
彼らの後ろでそれを見守るのは、金に輝く、蝿の像。
「よかったのかえ?」
「アルケミスト・ヒルズの文献さえ正しければドリームメイトはどこまで行っても『夢』そのもの。純粋すぎる自我の塊ならば、それ以外の自我など持てないにも等しいでしょう。地位を与えても、驚異足り得はしませんよ」
まあ一つのジレンマは抱えましたが、と、タブラ=ラーサの前でツラトゥストラは笑った。
「誰が見てもベートーベンのエネルギー源に相応しいものが現れましたのに、ベートーベンにすぐ飲み込ませるにはどうにも勿体ない者とはね」
ベートーベンの器には、相応の生命力、そして意思の力が必要だ。
メイはぴったりではあるのだが。自然文明の信徒たちを実質任せ、「水晶の華となる意志の化身」としての偶像も暫くはこなして貰わなくてはならない以上、すぐにいなくなられるのも勿体ない。どう、タイミングを掴んだものだか。それはこの後見極めるのが最適解だろう。
「いずれにしても、この世は変わりましたよ」
……その事実が生んだもう一つの側面を、彼らは程なくして知ることとなる。
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ある朝の事だった。
急激な不快感で、ツラトゥストラは飛び起きた。
ただの体調不良にしては、感覚的におかしい。心臓も、内臓も、痛みは感じない。
では、自分の体の中で何が悲鳴を上げている?彼は必死で感じ取らんとした。自分の……自分の、「エネルギー」の乱れ?
自分のエネルギー。それは……。
タブラ=ラーサに与えられた水晶のエネルギーだ。
嫌な予感がして、即刻彼はタブラ=ラーサの間に向かい、扉を開けた。
「タブラ=ラーサ、さ、ま……?」
しかし、彼は言葉を失った。そこにいたのは。
水晶色に光り輝き、麗しい手を伸ばす、白皙の蝿ではない。
どろどろと淀んだ汚い色、そんな色に染まった身体の一目見ただけでも掌に感じられそうないやらしい柔らかさはまさに腐肉のそれに等しそうで、その体の節々に辛うじて腐らずに済んだような肉の赤、タブラ=ラーサの翅の神秘的な緋色とは似ても似つかぬ赤い肉がのぞく、大きな蛆。その顔にはりついた四つの淀んだ眼がツラトゥストラを見ていた。
美しい蝿の女神に変わってそこにいたのは、見るも悍ましい蛆の怪物。
しかし、ツラトゥストラの口からは出てこなかった。出て当然のような気がする言葉が。「お前は、誰だ?」の一言が。
そして彼がそれを自覚する暇もなく、答えは出た。
その答えは、言葉にならない悲鳴だった。その後辛うじて、言葉が出た。
「見るなアアアアァァッ!!」
完全に違う姿をしていながら。
その蛆は、タブラ=ラーサの声で喋った。
「ツラトゥストラ!嫌じゃ嫌じゃ、出てゆけ!わらわを見るな、わらわの姿を見るな!!わらわのこの姿を見るな!!見るな、見るな、見るな、見るなぁァァッ!!出て行け!去れ!!去らねば死ね!!死ね、消えろ、わらわの、わらわの、わらわのこの姿を見るなアア!!」
……彼女は、明らかに取り乱していた。
シャングリラ・ファンタジアをあっさりと殺した、筆舌に尽くしがたい強者そのものと同じ声で、叫び散らかした。死ね、消えろ、そんな言葉すら、そんなことを『神』にも易々実際に実行できる彼女が告げるそんな言葉すら、何の重みも伴ってはおらず、事実それは一回彼女に本当に命を奪われかけたツラトゥストラの心に何の命の危機も感じさせなかった。
「おねがい、だから……」
ころ、と床に何かが転がる音がした。
「みないで、みないでぇ……おね、がいぃ……みないで、わたし、を……」
四つの目から、ころころと極小の水晶玉……涙を転がして、蛆と化したタブラ=ラーサはぶるぶると顔を体にうずめるように丸まり、ガタガタと震えだした。普段とは似ても似つかぬ言葉を吐いて。
腐肉のようなやわらかい蛆が震えてのたうち回ったとて、なんの音が聞こえるわけでも無し。聞こえるのは、弱弱しい泣き声に混ざってころん、ころんと濁った水晶玉の涙がこぼれる音。
それに混ざるように、ただ一瞬。
びり、と何かが破れる音が聞こえた。
「落ち着いてください、タブラ=ラーサ様。見るなと仰るなら、この通り目に入れません。どうかご安心を」
ツラトゥストラが白いローブを破り、小さくなってしまった彼女に被せかけた。
暫く、返答はなかった。ただローブが動いた。ギュッ、とそれは内側から握りしめられたようだった。しばらく、完全にツラトゥストラのローブに身を包んで、蛆のタブラ=ラーサは震えていた。
「か、ご……」
「籠?」
白いローブにうずくまった塊から、タブラ=ラーサの声色が聞こえる。
「籠に、入り、たい……籠が、籠が、籠が無きゃ……」
「どこにあるのですか?籠とは?」
「……と……ま、と……かさま……いや……ゼ=ブブとベルゼのふたりが……持ってる……籠……籠が無いと……わたしは……わたしはわたしはわたしは……」
ゼ=ブブとベルゼ。
それは……タブラ=ラーサに付き従う形で現れた、謎の蝿の超獣だった。
彼等は、何も言わないし何もしない。身動きすらも全くとらない。ゼニスやアンノウンたち同様、タブラ=ラーサに支配を受けた者であろうことは想像できていたので、後は特に気にする存在でもないとツラトゥストラは思っていた。
兎に角、そんな彼らの持つ「籠」とやらが無いとタブラ=ラーサのパニックが鎮まらないなら、その得体のしれない二人のもとに行くほかはあるまい。幸い彼らを見つけるのは容易だった。ある小部屋で最後に見た時から、本当に二人は寸分も動いておらず、ただ二人そろってそこに立っていた。
「お前達!」ツラトゥストラはその様相に流石に不気味を覚えつつ、問わないわけにはいかないから問う。
「『籠』とやらを知らないか!?至急、入り用だ!」
……その言葉を聴いて。ぴく、と彼らは動いた。
そして。どこからともなく現れる。
書いて字のごとく、それは普通の鉄檻で出来たドーム状の籠だった。あの蛆のタブラ=ラーサは入れそうな大きさの。
ツラトゥストラはそれをひったくり、翼を広げて大急ぎでタブラ=ラーサのもとに帰った。
「……水晶の力が、乱れて、おる……」
なんとか口調ばかりは元に戻るようになったタブラ=ラーサだが、すっぽり入った籠の中で依然、ゾロスターのローブで全身をくるんだままだ。
籠が届くなり、飛び込むようにそれに入って内側から戸を閉め、それでも暫し震えていた彼女がようやくした状況説明はそれだった。
「この姿に戻ったも、それの、影響……」
「ああ……なるほど。私も実は、体の不調を感じております」ツラトゥストラは自分の身体の乱れの理由もそれで理解できた。
「至急、シダンの者たちに調べさせます。今はごゆるりとお休みを」
「そうせい。……」
自分自身も酔いを感じる「水晶の力の乱れ」を感じながら、部屋を出るツラトゥストラに、タブラ=ラーサは言った。
「ツラトゥストラ」
「はい?」
「ありがとう」
ローブの中から聞こえてきた声は、あの女神と同じ声だった。