幻の夢を追いかける華 作:日振
大丈夫。君ならやれる。と、最後の最後まで希望を持って挑んだ11月の第2週。
デビューしてから早くも15戦目、これまでで一番と自信を持って言える抜群の手応え。絶対に勝つのだと騎手である小金井斗真は相棒であるアセビロードへ指示を送り、残り500メートルの位置からグンとスピードを上げ、追い込む。
「今日は、本当に良い走りをしてくれました」
ゴールを切ってから、写真判定がアナウンスされてから少しの時間が流れ、静かにゼッケンに記された番号が掲示板へと反映される。
小金井は無意識に唾を飲み込みながら、普段は信じる事のないナニカに向かって「どうか」と頭の中で祈る。無機質に上から3番目、真ん中の位置にアセビロードが付けていたのと同じ番号が光る。
結果が出てから次の日。静かに始まったのは、ロードのこれからについて。馬主である高垣にも縁のある地方への移籍か、引退させるか、それとも。
陣営の長い話し合いの末、アセビロードの進む未来は馬の持つスタミナや何事にも落ち着いて対応できる性格を加味し、持ち味を充分に活かせるだろうと「障害レース」となった。
休息期間を挟んでから始まった初めての障害練習は、只の棒が地面に置いてある程度、人間が見たらこんなものかと問いたくなる様な形から始まったが、他の馬ならば怖がってしまう子もいる中ロードは初日から地面に置いた棒を跨ぎ、数日後にはクロス状に設置された棒も跨げる様になった。
そして、いよいよ障害レースでも見られる竹柵を前にする。高さや幅こそ難易度が低くなっているが、その場所から一歩も動けなくなってしまう馬は数多くいる。
「……よし、次はこれを頑張ろうな」
首筋をトントンと叩いて合図を送り、少し離れた位置から走らせる。しかし、ロードは自らスピードを緩め、障害の前で立ち止まる。ここまで順調そのものだった練習風景を思い出し、ロードに跨った男の背中に嫌な汗が流れた。
だが、初めての本格的な障害物なのだからと意識を変え、もう一度、先程と同じ位置から走らせる。
二度目も止まり、三度目は飛ぼうとする素振りは見せたが直前で止まる。その度に、男はその調子だと首筋や頭を撫でる。結果を急ぐ方がかえって悪い未来に繋がってしまう事を、男は職業柄よく知っていた。
何度目かの挑戦。同じ位置からの助走、ロードは障害を理解し、初めて飛越した。一度成功してしまえば、そこからは破竹の勢いで頭角を表し、高さや幅も大きくなり難易度も上がったそれらを難なくクリアしていく。
「よし、よし、上手だぞー」
一つの障害を越える度に出来ている事をしっかりと褒め、ロードの気持ちが途切れない様に進めていく。
ロードの特徴でもあるのんびりな性格を尊重しつつ、出来る事を進めて、何度も練習を繰り返す。
そうして、数ヶ月の時間を使い障害レースの本番へ。
「ロードはのんびり屋ですから、レース本番でもエンジンの掛かりが少し遅いので、早め早めから合図を出してあげて下さい」
10頭の馬が集まった障害の未勝利戦。ロードにとって、初めての舞台。
重賞レースが行われないからか客もまばらな競馬場のパドックを周回する中、初めてロードとコンビを組む安曇直幸へロードをよく知る厩務員がその癖を共有する。
安曇は鐙の調節や、手綱の調節を行いながらその言葉に頷く。安曇はロードと同じく障害レースに於いては新人と呼ばれる部類の人間ではあるが、既に勝ち星を何度か挙げている期待のルーキーだった。
「それでは、お願いします」
その言葉を最後に厩務員は離れ、ガコンと音を立てゲートが開く。
最後尾に位置を取り、前を走る9頭の馬を見つめながら、最初の障害を飛越する。ベストタイミングに近い理想的な踏み切り。着地はほんの少し体制が崩れたものの、問題ないと言える範囲で走りに影響はない。ハミへの反応も良く、完璧な走りをすると言っても過言ではない。
それなのに、平地では未勝利を抜ける事さえ叶わなかった。競馬の世界ではよくある話で済まされてしまうが、それ故に歯痒い気持ちになる。
「そろそろ行くよ」
残り1000メートルを過ぎた辺りで誰にも聞かれない一人と一頭だけの世界で、安曇がロードへと声を掛ける。
ほんの少し手綱を緩めて拘束を解く。
それからはロードのスタミナ自慢を信じ、安曇は鞭を入れてスピードを上げていく。平地のレースでは発揮できない天賦の才か、殆どスピードを緩める事なく残りの障害をロードは飛越する。
最終直線。最後方から始まった追い上げは、既に掲示板の位置にまで届いている。
「行くよっ、ロード!」
鞭をもう一回入れれば、ロードは更にスピードを上げ、前を走るサラブレッド達の背に追い付く。
理想的とも言える飛越はスピードを緩める事なく、逆に勢いへと変換される。
残り100メートルを過ぎる頃には何十馬身とあった先頭までの差は無くなり、ロードの鼻先が前へ出て、徐々に顔、首、前脚が前に出る。
障害の未勝利戦においてはあまり見る事のない追い込み方。
まばらな観客席の何処かから「おお!」と声が上がる。
アナウンサーが叫ぶ様に口にした「アセビロード! 初めての一等賞!」の声が何処かの家にあるラジオから大きな音で鳴り響いた。
「……お疲れ様。ロード君」
ゴールを過ぎ、安曇がレースの終了を首を叩く事でロードへと伝える。合図を理解して脚を緩めたロードの頭を、安曇がわしゃわしゃと撫でれば嬉しいのか、うざったかったのか頭をブンブンと振る。
5歳の夏前。
アセビロードは、初めての勝利を飾った。