幻の夢を追いかける華 作:日振
柔らかな日差しに照らされた満開の桜がよく見える。地面はピンク色の花弁によって絨毯が引かれた様になっていた。
数日前の雨や風によって酷い状況になったのではと懸念もあったが、案外逞しく生きている桜は美しい花を損なう事なく残り続けていた。
並木道の様になった校内の桜を見上げながら、ウマ娘、アセビボタンはそっと両手を持ち上げる。お椀の様に合わせた手の中にヒラヒラと落ちてくる花弁が一枚、二枚と入ってくるのを見つめながらボタンは無意識に頬を緩ませる。
「あら、アセビボタンさん。お花見ですか?」
突如名前を呼ばれ、ボタンは首を傾げながら声の方向へ顔を向ければ、学園の生徒や関係者ならば見慣れたものとなっている濃い緑のスーツを着た駿川たづなが立っていた。
たづなは変わらない柔和な笑みを見せながらボタンの隣へ移動すると、同じ様に桜の木を見上げる。
綺麗ですね。独り言の様に呟かれた声に、ボタンは小さな頷きだけで返した。
隣に並び、桜の木を見上げる。たったこれだけの事を、どれ程の時間行なっていただろうか。
何十分、何時間にも感じられたし、時間割の中、休み時間のたった数分でもあったかもしれない。
「……ボタンさんは、桜の花がお好きなんですか?」
再び、たづなが口を開く。ボタンは考える間もなく頷く。
「でも、嫌いな花でもあります」
「そうなんですか?」
「えぇ。綺麗だけど、見ていると何だか悲しくなるから」
ボタンは手の中に溜まった花弁を空へと投げ捨てる。花弁は重力に従ってヒラヒラと緩やかな動きで地面へと落ちていく。
足元が更に濃いピンク色へと変わっていく。
「あとに花びらと、冷めたい虚空がはりつめているばかりでした。」
「……ボタンさん?」
「桜を見ると酷く悲しくなります。孤独を感じます。大切な人とはもう見れないし、私からサクラは生まれない」
要領を得ない言葉、ボタンは視線を地面へと移しながら小さな声でポツリポツリと言葉を紡ぐ。その姿があまりにも不安定に見えたたづなが思わず肩を叩けば、ボタンはいつもと変わらない様子でまた桜の木を見上げる。
「私に、何か出来る事はありませんか?」
たづなが不安そうに問い掛ける。ボタンはゆっくりと首を振った。
頭の上に乗っていた花弁が落ちる。しかし、ジッとしていた所為か、肩や上には花弁が未だ残っていてたづなはそれを取ろうとして、一瞬動きが止まる。
何の事でもない日常のワンシーンである筈なのに、先程までの異様とも言えるボタンの様子が気掛かりで触れてしまったら、壊れてしまうのではないかと心配になった。
「どうしたんですか?」
「いえ、触ってしまったら消えてしまいそうで」
「何ですかそれ、私は残忍な女ではありませんよ」
「でも、私をこんなにも不安にさせている」
「……じゃあ実際に触れてみて下さいな。私は花弁になったりしませんよ?」
ボタンは悪戯っ子の様に、クスクスと笑う。
たづなはボタンの声に従って、見慣れた紫の制服に包まれた肩、薄いそこへ乗った何枚かの花弁にゆっくりと指先を添える。重さも感じず、何か特別なアクションもなく取り除かれていく花弁を見つめた後、たづなはボタンを見つめる。
アセビボタンは消える事もなく、同じ場所に存在していた。
「消えていませんね。良かったです」
「当たり前でしょう? 私は消えませんよ、消えるのは寧ろ」
そこまで言って、ボタンは急に口を閉ざす。たづながどうしたんだと心配しても、ボタンは何でもないと言うばかり。
何もなく、無音の時間が過ぎ去っていく。ボタンは何でもなかった様に、手首に巻いた腕時計を確認したのと同じ時、タイミング良く授業開始を告げる予鈴が学園内に響き渡る。
「戻りましょうか」
「……えぇ」
教室へと戻る者、教科書を持ち小走りで移動する者、本鈴がなる前の忙しない動きの中でたづなが先に歩き出す。
一拍遅れ、ボタンもまた歩き出して直ぐ、少し前を歩くたづなの袖口をボタンは掴んだ。
振り返るたづなと無意識の行動だったのか、酷く驚いた様子を見せるボタンは勢い良く手を離す。
「どうしましたか?」
「え、あ、いや、なんでも、何もない筈です」
「そう、ですか?」
「はい……で、も、でも、たづなは、消えないで下さいね」
「当たり前です。私は、この学園の理事長秘書、ウマ娘の幸せを願う1人なんですよ?」
「そう、ですよね……私の不躾な勘違いですよね、忘れて下さい」
「ボタン。もし、何か不安に思う事があれば何でも相談して下さいね。不調の相談に乗るのも、私達大人の役目です」
安心させる様にたづなはボタンの手を握る。生に比例した暖かさがボタンの手に伝わってきて、漸く肩から力を抜く事が出来た。
急ぎましょうとそのまま手を引かれ、教室の方へと歩き始める。
何となく、ボタンが握られた手にほんの少し力を込めてみれば、お返しと言わんばかりに握り返される。
「背負っておくれ。こんな道のない山坂は私は歩くことができないよ」
どうせなら、一瞬でも抱えた不安を我儘の全てで持って甘えてやろうと昔読んだ小説の一節を口にする。たづなは、ボタンの言葉に従う様にその身体を背負うと、小走りでボタンの教室へと向かって行く。
案の定と言うべきか、ボタンとたづなの異様な光景に通りすがるウマ娘やトレーナーの注目を集めてしまい、ボタンは遂に顔を上げる事が出来なくなった。