幻の夢を追いかける華 作:日振
ウマ娘、アセビボタンはトレセン学園生特有の赤いジャージ姿でグラウンド内を歩き回っていた。目的は明確で、その事だけを頭に浮かべながら何分、もしくは何十分と歩いていたが校舎同様に広大な敷地面積を誇り、数多くの生徒達が練習する空間では1人のウマ娘を探すのにも難儀してしまっていた。
本日分の練習メニューは終え、時間的には追加の自主練のタイミングへと既に移行しているお陰で焦りらしい焦りはないものの、知り合いでもない相手を見つけるのはほんの少しだけ不安が湧き上がる。
「えっと……」
キョロキョロとあちらこちらに視線を向け、ゆっくりと脚を進める。そして、視界の中、遠くに立っていたウマ娘を1人見つける。
ボタンは良かったと一度息を吐いて、再び歩き出す。先程までの長い道のりからは一転、酷く簡単で楽な気分だった。
「あの、すみません」
おずおずと声を掛ける。目的のウマ娘は集中していたのか、可愛らしい顔立ちに反して話し掛け辛い雰囲気をまとっていた。しかし、ボタンが話し掛けた瞬間彼女の持つ鋭い空気は霧散し、笑顔で首を傾げる。
「どうしたんですか? えっと、」
「申し遅れました。私、ボタンです。アセビボタン」
「ボタン先輩……俺はウオッカです!」
「えぇ、存じています。有名人さんですから」
「へ? そうっすか?」
「はい。だって、日本ダービーはお祭りとも言えるレースですから」
ボタンの目の前に立つウマ娘、ウオッカは目前にまで迫った一大レースである東京優駿競走、ダービーへの出走を表明していた。メンバーはウオッカを含めフルゲートの18人、その内ボタンやウオッカと同じ左耳へ飾りを付けた、俗にティアラ路線のウマ娘からの参戦はウオッカただ1人だった。
ダービーという一年の中で元々注目度の高いイベントに重ね、もしもが実現すれば64年ぶりの快挙となる歴史的な瞬間を見逃さんとばかりに、世の中は色めき立っている。
「こんなに注目されて、緊張はありませんか?」
「まぁ、緊張もあるっスけど、正直やってやる! って感じです!」
「まぁ! それは頼もしいですね」
ウオッカの言葉に、ボタンも釣られて笑う。自身よりも歳下で、世間的には庇護される年齢のウマ娘ではあるが、この瞬間は誰よりも頼もしく見えた。
「そういえば、ボタン先輩もダービー、出てましたよね?」
「……そう、ですね。でも、私は勝てませんでしたから」
「でもスゲーウマ娘と最後まで競り合っての結果ですよね? だから、ボタン先輩もめっちゃカッケーと思います!」
「カッケー、ですか?」
「はい! めっっっちゃ、カッケーです!」
ウオッカはキラキラとした瞳でボタンを見つめる。純粋無垢な言葉にボタンはパチパチと瞼を動かす。
「そうだ! ボタン先輩、俺と握手してくれませんか?」
「握手、ですか?」
「ダービーでカッケー走りをしたボタン先輩からパワー貰いたいっス!」
「私なんかがあげられるパワーなんて」
「そんな事ないです!」
「……そ、そう、ですか?」
「うす!」
ウオッカの勢いある言葉にボタンは押されながらも手を出せば、確かめる様に強く握られる。暖かな手の温もりを感じながら、ボタンは「どうか」と心の中で祈る。
「ボタン先輩、ダービーで勝つ為のアドバイスとかありますか?」
手を握ったままウオッカが静かな声で、ボタンへと問い掛ける。ボタンは、数秒程んーと考えた後、自身ありげに口を開く。
「怪我をしない事、ですかね?」
「怪我ですか?」
「はい。走り方も、本番の戦略も、今持っている己の力も全部私とウオッカさんでは違います。私の方法を伝えても、ウオッカさんを惑わしてしまう。だから、怪我しない事が一番大事。スタートからゴールまで、この瞬間から本番まで、無事に進めばそれが一番です」
「……はい! 有難う御座います!」
バッと頭を下げたウオッカに対し、ボタンは焦った風に辞めてくれと両手を振る。やる気に満ち溢れたウオッカを見つめながら、ボタンもまた頑張らねばと拳を握った。
5月27日。東京レース場、芝2400メートル。大一番、GI「東京優駿(日本ダービー)」。
選ばれた18人のウマ娘が、勝負服を身に纏ってパドックへと姿を現す。その中に1人、黄色と水色が鮮やかな勝負服を着用したウオッカはいた。無事、スタート地点まで辿り着けた事へ、ひっそりと群衆に紛れたボタンは胸を撫で下ろす。
今日はウオッカに向けられる夢の他、やんごとない事情もあり独特な空気感が漂っていた。
「……頑張れ、頑張れ」
ウオッカが踵を返し、ターフへと歩いて行く背中を見つめながらボタンは小さな声でエールを送った。
最後の坂が聳え立つ最終直線、バ群に囲まれたその場所から、細い隙間を縫ってウオッカが一気に先頭へと踊り出す。バラバラと広がった隊列へと向けられる声援にレース場が揺れる。
勝つか、もしくは、世界の緊張が集約し最高潮になる。
ボタンは己の両手を祈る様にキツく握りながら、瞬きも忘れてジッと目の前を見つめ続ける。
「あぁ……」
無意識に溢れた言葉。
ゴールには、まだ距離がある。勝負は最後の一瞬までどうなるか分からない。たった数センチが笑顔と涙を分ける世界。
だが、ボタンからは疑う事も、惑う事もなく、確信を持った声色が落とされる。
「勝った」
スルリと握られた手から力が抜ける。ただ、静かなままのボタンから一筋の涙が落ちた。
別に、己と目の前で嬉しそうに腕を上げるウオッカを重ねている訳でも、代わりを望んでいた訳でもないけれど、純粋にウオッカというウマ娘が勝利した事実が、涙が出る程嬉しかった。
拍手喝采に包まれるレース場の中、ボタンは身体を滑り込ませながらターフの直ぐ側へと無理矢理ながら移動する。
「おめでとう!」
珍しく、ボタンから飛び出た大声が届いたのか、ゴール板の先から戻ってきたウオッカは喜びの感情を全身で表現しながら「有難う御座います!」とボタンへ返した。