幻の夢を追いかける華 作:日振
様々なトレーニング器具が並んだ一室の扉をジャージ姿のアセビボタンがそっと開ける。一瞬、立ち止まり辺りを見渡して一歩踏み出す。
お疲れ様ですと口にした挨拶と共にボタンは表情も変えず内心「おや」と口元へ手を持っていく。そして、その心を口にする。
「ふわふわさんですか?」
「あぁ、この時期はどうしてもな」
ボタンが話し掛けた相手、チームシェアトのトレーナーである若旅伊吹は普段と比べ毛の跳ねたふわふわの頭を困った表情で乱雑に撫で、ボタンはその様子を見つめながらクスクスと笑う。
「レースの時みたいにワックスなど使えば宜しいのに」
「あれはある意味で一張羅みたいなものだからなぁ、日常的にやるのはどうしてもこう、気持ちが乗らないというか……それを言うなら、ボタンはいつも通りだな」
「これもまた、乙女の努力です」
「全く、頭が下がるよ」
若旅とボタン、仲良く話していれば直ぐに他のメンバーがやって来る。スズナはいつも通り、コウロもいつも通りに見えて、毛先が若旅同様彼方此方に跳ねた形跡が残っていた。
普段と変わらない、もしくは、ほんの少し違うトレーナーとウマ娘がいる中で、特に反応があったのが、アセビロードとアセビツバキの仲良しコンビだった。
「珍しいね」
ボタンの言葉にロードとツバキは顔を見合わせた後、ロードはほのぼのと、ツバキは反対に目を逸らす。
いつもはツーサイドアップにされたロードの髪は、一つの長い三つ編みに。いつもは何もしていないショートカットのツバキは小さな二つ結びになっていた。
「おー、ルーちゃんと同じ、ですねー?」
チームシェアトの快速娘、アセビルピナスがツバキの隣に駆け寄ると自身と同じ髪型にむふふと笑う。
反面、ツバキは慣れない感覚に居心地が悪そうにしていた。
「うらはくるくるが直らず、ツバキはほぼアフロだったんだね?」
「な!? アフロまでにはなっていない! 巫山戯るのも」
「まーまー、怒らないんだね? 今日のツバキは、また違った可愛さなんだ」
「かわ……可愛いなど!」
「照れてるの?」
「照れてなどいない!」
珍しく激しさが見える口調でツバキはロードの言葉へと反応するが、ロードは変わらずの態度でツバキの頭を撫でる。
そして、ルピナスとボタンもまた「可愛い」とロードの言葉に同意すれば、ツバキは我慢出来ずにとうとう顔を赤くした。
「フン、相変わらず五月蝿イ奴らダナ」
「スズナは参加しないのか?」
「誰がアンナノに混ざるカヨ」
わちゃわちゃと盛り上がる5人を横目に、1人距離を離していたスズナは若旅の言葉を否定するが、めざとくその言葉を聞き取ったボタンがスズナの方を向く。
「スーちゃんもおいで〜?」
「誰が」
「もう、恥ずかしがらないの」
「恥ずかしがってナイ! オイ、引っ張るナ!」
ニコニコとボタンが優しく手を引く微笑ましいシチュエーションとは裏腹に、心の底から面倒臭そうな叫び声にも似たスズナの声がトレーニング器具へ反響した。
集まった時のわちゃわちゃとしたやり取りがひと段落付くと、今度は真面目なトレーニングの時間が始まった。
上半身や下半身の筋力アップに、ランニングマシンでのフォーム確認・心肺機能向上を目的としながら、次のレースへと向けて力を付ける。
「それにしても、もう梅雨の時期ですね」
ボタンが前触れもなくポツリと呟く。言葉に釣られたコウロが顔を上げ、窓の外に広がるどんよりとした景色に眉を下げる。
ここ最近雨の降る日が増えてきた。時期的にも仕方のない事だが、雨が降ればグラウンドでのトレーニングを控える事が増え、雨が上がってもコンディションの悪い中で走る事になる。不良バ場の練習だと割り切っても、ジャージや靴がぐしょぐしょになるのは好ましい事ではなかった。
スズナが不快そうにため息をする。
梅雨となって困るのはトレーニングだけではない。今日や昨日と若旅やコウロの髪が跳ねていたり、ロードやツバキの髪型が違うのも、雨の時期特有の困ったアクシデントによるもので、ツバキの場合は慣れない自身の髪型の事で早く晴れないものかと考えていた。
「でも、梅雨が終われば今度は暑さだ」
「そうですね。また別の問題がやって来てしまいます」
「着込めば何とかなる冬と違って、こればっかりはなぁ」
「あら、トレーナーさんは暖かいのに慣れているのでは?」
「限度があるっての。というか、最近は内地の方が俺んとこより暑い気がする」
「まぁ! それはそれは、大変な事を聞いてしまいました」
「ほんと……お前達も、これからは特に気を付けろよ」
若旅が投げ掛けた言葉にそれぞれの返事が返ってくる。
よぅしと意識を切り替える為に若旅が手を叩く。そうすれば、再び走る音、器具を動かす音が鳴り始める。
「追い込むぞー」
「はい」
若旅がバインダー片手にピョコンと小さく結んだ髪を揺らすツバキの側に移動する。本来予定していたトレーニングメニューからは脱線してしまっているが、目前のレースは待ってくれない。
「出来る事は全部やるぞ」
「勿論です」
ツバキは頬を流れる汗をタオルで拭うと、確かな意志を持った瞳を若旅へと向けながら力強く頷いた。