幻の夢を追いかける華   作:日振

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 アセビルピナスという馬はとても不思議というか、癖のある馬で走り出した瞬間に鞭を入れて、それでスイッチが入らないと走れない。そんな馬でした。
 恐らく、本質的にレースのルールをよく理解できていなかったのだと思います。言わば、究極のマイペース君ですね。
 だからこそ、此方側から走ってと合図を出して、ルピナス自身が走らなきゃとならない限り、本気を出せなかった。
 調教の時ですらその様子は変わらないので、そこだけは少し、苦労しましたね。



 のほほんと6ハロンを頑張ります

 

 1970年代の始め、日本中央競馬会に所属する年嵩の男は馴染みの馬主に呼び出され、とある馬房の前で足を止める。馬房には真っ黒な馬体に、水流の様に真っ直ぐ入った流星が特徴的な馬が入っている。

 その馬は暴れる様な様子無く大人しくしていて、ジッと男を見るとふいっと顔を逸らす。

 

「すみません、遅れました」

 

 男が来て数分、スーツを着た身綺麗な男が現れ、年嵩の男は待っていませんよと軽く頭を下げる。それを真似てか、偶然か、馬房の中の馬も頭を下げて男達は笑う。

 

「貴方に呼ばれたという事は、ですね」

「えぇ。近江さんの隣にいる馬、アセビルピナスと名付けましたが、それに乗って頂きたい」

「高垣さん、私はそろそろ老耄なのですが」

「そんな事は。職人の腕が鈍ったとは思えません」

「しかしなぁ」

 

 スーツ姿の男、高垣芳司が目の前の男、小金井近江へ様々な言葉を投げ掛けるが小金井は厳しい表情をしたまま、首を縦に振る事はない。

 しかし、高垣もそれで諦める人間ではない。それ所か、長い付き合いの中で、小金井が迷っていても結局は頷いてくれる人の良い、良過ぎる男である事を知っていた。

 

「頼むよ。小金井ジョッキー」

「そう言われましても」

「ルピナスの瞳を見て下さい。綺麗に輝いているでしょう?」

「……はぁ」

 

 勝った。と、高垣は意地悪くそう思った。小金井が優しくルピナスの鼻先を触る手を見て、良かったと聞こえない程の小さな声で呟く。

 

「コイツ、ルピナスはどんな馬ですか? 今ここにいるという事は、出走に向けて調教はしているのでしょう」

「そうですね。先生から聞いた話によると、マイペースで体力が無いですね」

「体力が無い?」

「えぇ。1600持たないレベルだそうです」

「それは、何と言うか、厳しいと言いますか」

「ですので、クラシックは捨てて、勝てる場所を着実にやって貰えれば」

「……妥当ですね」

 

 壁は高いぞ。と、再びルピナスの鼻先を小金井が撫でれば、ブルルと呑気に鼻を鳴らした。

 

 

 1600メートル、1700メートル、2000メートルと新馬戦から3戦して大敗を記録したアセビルピナスは、相変わらずのほほんとした顔で餌を食べている。次走はタイミングが合って短距離の未勝利戦に登録したが、本番をルピナスと共に経験した小金井は首を捻る。

 

「どうされました?」

 

 高垣と同じ、馴染みの調教師が煙草の煙を呑みながら小金井へと目を向ける。

 

「いや、なんというか、距離が持たないっていうのはその通りなんですけど、それ以前に何かが足りないというか」

「足りない? 調教は出来うる範囲でやっていますが」

「それは分かっています。私が感じているのは、調教の面ではなくもっと本質的な」

「歯車が噛み合っていない、的な感じですかねぇ」

「歯車……そう、それです。歯車が噛み合っていないんです」

 

 小金井はそういって、顎に手を当てこれまでの3戦を思い出す。ゴール後のバテたルピナスの姿からもっと前、レース中の記憶。

 

「……あ」

「何か分かりましたか?」

「もしかしたら、ルピナスのヤツ、レースの事を認識していないかもしれません」

「認識していない……?」

「はい。レース中の姿を何度思い出しても、そうですね、マイペースに走っているだけなんですよ。ラストで鞭を入れても本気を出そうとする素振りがない」

「それはまた、酔狂なモンで」

 

 レース中のアセビルピナスは端的に言えば「走るのが楽しい! でも本気は出せない」といった風で、厳しい競走馬の世界にはあまりにも不向きな性格をしていた。

 だが、小金井が感じるに適性距離での能力は一級品である。ルピナスの中の歯車が噛み合いさえすれば、噛み合う方法さえ見つけられればと考える。

 

「おらぁさ、騎手じゃねぇからレース中の感覚ってのは分かんないけどさ、もう思い切ってゲート開いた瞬間に鞭入れちまえば良いんじゃねぇの?」

「面白い考えですね。何か狙いがあるんですか?」

「狙いってか、コイツがビックリして勢いつくんじゃねーの」

「ふむ。それなら、次のレースでやってみますか」

「え!? 適当に言っただけなんだけどなぁ……」

「その適当が時に功績となる場合もあるでしょう。灯台下暗しというやつです」

「……そうかねぇ」

 

 調教師の口からブワッと吸い込んだ煙が吐き出される。小金井は煙草を苦手としていた為、少し咳き込むと顔の前で左手をパタパタと動かした。

 相変わらず、ルピナスはのほほんとその手の動きを目で追っている。

 

 

 小金井と調教師が奇妙な会話をしてから数日後、ルピナスは小金井を乗せてパドックを歩いていた。小金井から見てルピナスの調子はいつも通りで、可もなければ不可でもない。

 

「じゃ、お願いします」

「はい。やってみます」

 

 未勝利戦の1200メートル、出走馬は10頭、ルピナスが初めての短距離挑戦という部分を除けば実力差は殆どない。

 スムーズに全頭がゲートへと入り、レバー引かれるとガシャンと音を立てて馬が一斉に飛び出す。

 小金井はルピナスが一歩を踏み出した瞬間に鞭を入れる。その瞬間、ルピナスがブルルと鼻を鳴らした様な気がした。

 1分と少しで決着がつく短距離の道をスルスルとルピナスは進んで行く。そして、驚く程簡単に先頭に立つと後続の馬に自身の場所を譲る事なく優勝した。

 

「君、やれるじゃないか」

 

 半ば惚けた様子で小金井はルピナスの首を叩きながらそう言うが、ルピナスは人間の言葉など認識せずに褒められた事だけを感じ取ったのかブルルと鼻を鳴らし、追加で耳をピコピコと動かした。

 結果的に調教師が思い付き、小金井が実行した奇策が功を奏した事で歯車の不具合を感じる事はなくなり、勝負をした結果の純粋な敗北や適性外距離による敗北という納得のいく「敗北」をする様になった。

 馬主である高垣はまさかの解決方法に君は面白い事をするなぁと笑っていた。

 

 

 その日、小金井はいつも以上に気合を入れ、ルピナスの背に跨った。今日は「読売杯スプリンターズステークス」の開催日であり、前回、前々回とルピナスが惜しくも1着を逃したレースのリベンジの日であった。

 二度あることは三度あると言うが、三度目の正直と言われるのもまた事実。小金井は鞭を咥え、グローブをはめ直すと両頬を叩く。

 

「じゃ、お願いします」

 

 普段と変わらないテンションで調教師が小金井に向かい、普段と同じ同じ言葉を放つと、小金井は自分だけが追い込まれて馬鹿みたいだと力が抜ける。酷い緊張がなくなり、一番集中の出来る心地の良い緊張だけが小金井の中に残る。

 

「行くぞ、ルピナス」

 

 ガシャンと音を立て、ゲートが開き、小金井が鞭を入れる。ブルルと鼻を鳴らしてルピナスは先頭に立つ。後はこのまま、何が何でも逃げてしまえばアセビルピナスの勝利となる。

 前々回はほんの少し出遅れて後一歩が届かなかった。前回は最後の最後に押し負けた。

 今度こそ、得意の距離で、勝たせる。

 3ハロンを過ぎた辺りでもう一度鞭を入れ、ルピナスが加速する。絶えず何度か鞭を入れれば後続との差が更に広がる。完璧なアセビルピナスの走り。

 

 あと半分だけ、どこまでも逃げてしまおうか。

 

 小金井は漠然とした気持ちを持って、また鞭を入れる。腕を振るう様に手綱でも合図をすれば、短距離の範囲でルピナスは絶えず速くなり続ける。

 たった1分の出来事なのに、記憶が無くなる程必死に乗って、気付いたらルピナスは勝手に速度を緩め始める。レースが終わったのだと、小金井はそれで理解する。

 

「け、結果は……」

 

 調教師達の待つ場所まで小金井が戻ってくるなりそう言うと、調教師の男は豪快に笑い、マジかよとため息をつく。

 

「リベンジ成功ってな〜。しかも、レコードの文字が付いてきやがった」

 

 サムズアップをされて小金井は漸くルピナスの順位を知る。

 

「頑張ったなぁ」

 

 感情のままに馬上からルピナスの首へ小金井が抱き付くと、ルピナスはいつも通りブルルと鼻を鳴らす。

 この行動がアセビルピナスにとって「気分の良い時」に行う癖である事は、小金井は既に知っていた。

 

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