幻の夢を追いかける華 作:日振
地面で揺れる陽炎とジリジリと突き刺す日差し、容赦ない気温。カレンダーが7の月を表示してから暫く経った今、人間、ウマ娘、その他の動物と関係なく苦しい日々が続いていた。
トレセン学園でも校内では数多くのクーラーが稼働し、暑さ対策に関してのアナウンスがどこからともなく聞こえてくる。
「……それにしても、参っちまうな」
「おや。トレーナーさんは確か、沖縄の出身だったのでは?」
「沖縄出身と言っても我慢と慣れの限度はあるよ」
トレセン学園内の一室、「シェアト」と銘打ったチームが使用する部屋の中で、トレーナーである若旅伊吹は額に汗を滲ませながら、袖を捲った腕でクリアファイルを団扇の様にして仰ぐ。
その姿を見つめるのは、チームのリーダーであるアセビボタンという名前のウマ娘。
若旅は先程グラウンドのチェックに向かい、ほんの少しの時間で全身から汗を流しながら帰ってきた。反面、ボタンは涼しい顔で部屋の中に置かれた椅子、見慣れた定位置の場所に座っている。
「ボタンは余裕そうだな」
「余裕……そんな事ありませんよ? これでも他の方と同等に参っています」
「でも、汗一つかいてなさそうだけど」
「私は女優さんですから」
「女優さん?」
首を傾げる若旅を他所に、ボタンはふふふと上品に笑うと、コースターの上に置かれた汗っかきなグラスを手に取る。
1ヶ月前までは確かに使用されていたポットも、今だけは役目を終えている。
「今日は外トレーニングは中止だな」
「まぁ、大丈夫なんですか?」
「ウマ娘の能力アップという面では全然宜しくないが、命と選手生命には代えられないだろ」
「……ルーちゃん、大丈夫ですかね」
「一応、サマーダッシュについてはルピナスの得意距離だし出走登録はしている。だが、場合によっては取り消しも視野に入れないとだな」
「得意距離だからこそ、受け入れてくれますかね。ルーちゃんとローちゃんは、重賞の場という意味では私達より機会が少ないですから」
「納得して貰うしかないよ。それに、ロードに関しても今後のレースを諦めて貰う可能性がある」
「トレーナーさんの腕の見せ所ですね」
「こういう時に見せたくはないが、見せるしかないな」
若旅とボタン、壁に掛けられたレースカレンダーを見ながら話していれば、タイミング良く部屋の扉が開かれる。
立っていたのは先程話題に出たアセビルピナスと、アセビロード。トレーニングの為に体操服姿の2人は、扉を閉めると冷えた室内にうひゃーと声を上げる。
「少し移動するだけで汗が出てしまうんだね?」
「ルーちゃんも、暑さからは逃げられないですー」
気温に関して小言を言いつつもやる気は満々といったルピナスとロードは、今日のトレーニングメニューを聞こうと若旅の元まで近付くが、若旅は携帯で気温や天気に関してが記載されているサイトの画面を見せながら口を開く。
「今日は外トレーニングは中止。室内のトレーニングルームに変更する」
「あらー」
「おや、何か理由があるのかな?」
「2人の健康を優先してだ、この暑さだとトレーニングの前に倒れかねん」
「でもー、これまでは外で普通にやってましたー」
「唐突なんだ」
「今まではなんやかんやで行えてたが、流石にここまでくるとな」
若旅は改めて携帯の画面へとルピナス、ロードの視線を誘導する。画面には、現在時刻の気温にプラスして、デカデカと「危険」だの「注意」だのという文句が表示されていた。
「でもでもー、グラウンドでのトレーニングもしないと、力が付かないですねー?」
「うら達はもう少しでレースなんだね」
「それはどうにか考える。でも、場合によっては君達の健康と命を最優先にして取り消す可能性もある事は念頭に置いておいてくれ」
「……あらー」
「仕方ない、ことなのかな?」
「ごめんな。流石の俺でも、お天道様を変えられる程の力は持っていないから」
ルピナスとロードもバカではない。日々の気温がこれまで以上に高くなっている事は分かり切っている。
頭では若旅の言葉を理解して自分もそれが良いと思うが、気持ちの面では受け入れる事が出来ない。
「ウース」
静かな空気の中、また新たに扉が開かれる。海を思わせる柄が施された扇子を振ったアセビスズナが異様な空気感に一瞬首を傾げるが、それでも特に気にも留めず敷居を跨ぐ。
更に後ろからは残りのアセビツバキとアセビコウロも姿を表すが、コウロは特にヨロヨロと暑さに参っていた様だった。
「大丈夫、コウちゃん」
「はひっ!? だ、大丈夫! 大丈夫ですっ、はい!」
「もう、無理はしちゃダメだよ?」
「……は、はい! 無理しないです!」
力こぶを作るコウロの背後から、ツバキが無言で首にタオルを掛ける。なんの変哲もないタオルに見えたが、生地がコウロの肌に触れた瞬間、形容出来ない悲鳴の様な声が部屋の中に響き渡る。
コウロの声に分かり易い反応をしない分、両目を大きく開いたボタンが悲鳴を上げる程のタオルはどんなものなんだと触れてみれば、触り心地はとても冷たく、ひんやりとしていた。
「これ、もしかして冷たくなるタオル……?」
「はい。これがあれば少しは回復するだろうと思いましたが」
「ビックリしちゃったね」
「……吾とした事が失念していました」
「ツバキがうっかりするなんて、皆、暑さに参ってるんだね?」
ロードが言えば、同意するかの如くルピナスが頷く。
「やっぱり、外のトレーニングは中止だな」
クリアファイルで仰ぐ若旅が、どこか納得するかの様な表情で小さく呟いた。
薄い硝子を隔てた直ぐ後ろから聞こえていた蝉の声は、更に大きくなっていた。