幻の夢を追いかける華 作:日振
アセビツバキを例えるなら、「頑張り屋」という言葉が相応しい。最近は悔しい結果が続いて、いつかの名花を期待する観客席から沢山の失望を向けられている事に気付いている筈なのに、へこたれずに走り続ける。
「……お疲れ様」
朝の調教を終わらせ、ツバキの鼻を撫でる。相変わらず、調教の手応えはバツグンで記録を見ても日に日にタイムが上がっていく。
それでも、勝負の世界は残酷で。
ツバキの脚が遅い訳ではない、逆に早いくらい。なのにレースだと何かが食い違う。完璧にツバキが走って、俺が出来うる限りを尽くしても何かが足りない。
父の乗っていた馬、アセビルピナスが走る時にスイッチが入らないといけなかった様に、恐らくツバキにも何かあと一つのスイッチが足りない。
ツバキの走りが崩れ始めた時、オープン馬になったあの時に、もしかしたら俺が、俺達が何かをやってしまったのかもしれない。
「明日、頑張ろうな」
黒い身体を撫でる。そうすれば、お返しをする様に俺の肩へ顔を寄せ唇だけで洋服を噛む様な素振りを見せる。有難う、と言えば言葉を理解する様に目を細める。
まだ、ツバキはトンネルの中を歩いている途中だけど、絶対に外の世界へ、明るい場所へ連れて行く。
地面を蹄鉄で抉り、千切れた芝を巻き上げる。前を走る馬が少し横に寄れた結果生まれた隙間へ、ツバキの身体を滑り込ませる。
最後の直線、直近のレースで考えれば頭一つ抜けた手応えを感じた。
最後に鞭を一発入れる。
「……よし、よしっ! 久し振りの表彰台。よく頑張った!」
検量前、汗ばむツバキを気にせずその身体へ抱き付く。間違いなく最高の走りだった。デビューした時と同じ、燃える烈火を感じる走り。
ツバキに足りないあと一つへ近付いた様な気がした。
「このまま勢いが消えない様に」
未来がどうなるかなんて分からない。けど、絶対に俺はこの子の烈火を絶やさず、一番上へ連れて行く。
自分の騎手人生を全て捧げても、必ず。
年が変わり、出走した「目黒記念」。惜しくもクビ差で表彰台は逃したが、ツバキの糸が千切れている様な事はなかった。
続く「宝塚記念」、2着になる。勝ったレースではないけれど、優勝したかの様に喜ぶ俺を周りは奇異なものに対する一歩引いた目で見てくる。だが、下を向けば何時もよりずっと、ツバキの瞳が輝いていた。
あぁ、前を向いた。と、漠然と思った。褒められた達成感か、成長か分からないけれど、足りないピースを漸く見つけた。
「君は、自信がなかっただけだ」
最初が順風満帆だったから、初めての敗北が3歳というまだ成長しきっていない心へ、酷い痛みを伴いながら突き刺さった。また次頑張ろうと言葉で言うのは簡単だけど、期待を掛けてくれたのにって繊細な心はどうすれば良いのかが分からなくなった。
でも、こうして走った後、たった1人だけだったとしても「頑張ったね」という声が聞こえれば、大丈夫だったんだ。今まではどうして勝てなかったんだ、なんて気持ちに持っていかれて周りの音に意識が向かなかった。
「ほら、ツバキ。耳を澄ませて、君の走る姿を応援してくれる人が、いるんだよ」
柵を挟んだ観客席、画用紙程度の大きさの布に書かれた滲むマジックペンの文字。「頑張れアセビツバキ」、その単語をツバキは理解していないかもしれないけど、小さな横断幕を持つその人が「ツバキちゃん頑張れ」と言った言葉は賢いツバキなら理解している。
「頑張ろう。ツバキ」
ツバキは俺の言葉へ返事を返す様に、控えめな音で鼻を鳴らした。
宝塚記念が終わり初めて走った9月のスパーキングレディーカップ、宝塚の走りで期待されて応援された12月の有馬記念は走り慣れない馬場に囲まれた馬群と散々な結果だった。けれど、ツバキは前を向いていた。「まだやれます!」と言わんばかりの強い瞳を輝かせていた。
また年が明ける。
寒空の下、ツバキへと跨る。首筋を撫でれば、グローブ越しに熱が伝わってくる。
GIII「中山金杯」、ツバキは正に絶好調といった様子でその足取りも軽い。
段々と芦毛らしく白い部分が増えてきた身体を見ながら、ふと思い出す。
ツバキの名前の由来である椿の花言葉は「控えめな素晴らしさ」、しかし白い椿になると花言葉は「完全なる美しさ」となる。
「そっか。ツバキは今、完璧になる途中なんだね」
黒と赤では全く違う色だけど、きっとこの身体が真っ白になった時、この子は「完璧」へと至る。
「頑張ろう、ツバキ」
ピンと耳が天を向く。頷く様に、ツバキが首を振る。
今日も遠くで「ツバキちゃん頑張れ」と声が聞こえる。ツバキの瞳がキラキラと輝く。
ゲートが開く、ツバキはいつもの様に先頭集団に位置取って走る。最後のコーナーを回って、直線に入り難関の登り坂、ツバキは踏み込む脚を変えもう一度走りの勢いを増す。
やっと、届いた。
「このまま行こう、ツバキ」
深い青のレイを纏うツバキの鼻へ自分の額を寄せる。関係者と記念撮影を終わらせて、沢山褒められたからか、それとも沢山の人に囲まれたからか、ツバキは珍しくテンションが高くなっていた。
まるで「もっと褒めて」と言うみたいに。