幻の夢を追いかける華 作:日振
平日にも関わらず、サラリーマンやOL、はたまた大学生グループなどで賑わった居酒屋の真ん中の席。ガヤガヤと騒がしい音をBGMにしながら2人の男女がジョッキを傾ける。
時折、目の前に置かれた焼き鳥やモツ煮、枝豆といった酒の肴に手を伸ばし上手い上手いと言いながら咀嚼し、それをまた酒で流し込む。
クラシックな居酒屋の楽しみ方をしながら、ある程度の時間が経ち、スーツを着ていた若い男がジョッキをギュッと握りながら、目の前に座る「先輩」へと目を向ける。そして、意を決した様に数ヶ月前からずっと頭に浮かんでいた事を口にする。
「俺……転職? しようかなって……」
「転職? そりゃまたどうして」
先輩は心底不思議そうな顔で、鮮やかな緑色をした枝豆を口にしながら、首を傾げる。責められているとは感じさせない、穏やかな声色。
男はその声に促されるまま、自分の思いを吐き出した。
「今の仕事とか、先輩達の下で働く事に不満とか、嫌だなって思うマイナスの感情は一切なくて……逆に離れたくない! って思うくらいなんですけど、この仕事と同じくらい挑戦してみたい! って思う仕事が出来て……」
「へぇ、それは素敵な事じゃん。ちなみにどこを目指しているのか聞いても良い?」
「えっと……牧場スタッフです」
「牧場? それまたカメラのアシスタントとは正反対。というか、掠りもしない所にいったね〜」
「自分でもそう思います。でも、ちょっとしたきっかけがあって」
先輩は男の話を聞きながらグラスを傾け、何度か喉を動かす。その姿を見ながら男もまた、新しく届いた唐揚げに手を伸ばして咀嚼し、何杯目かのビールで胃に流し込む。
2人は淡々と会話を進めているが、相変わらず周りは騒がしくて、男と先輩が座るテーブルだけが世界から取り残された様だった。
先輩は先程の不思議そうな表情をそのままに、再び口を開く。
「……牧場って言ってもさ、色々あるじゃん? 牛、豚、鶏、羊とか」
「あー、馬です。競馬の、動画見て……すみません……」
「え? 何で謝るのさ」
「いや、だって、競馬ってギャンブルの面もありますから、嫌な人は嫌だろうし」
「あー、それもそっか。確かに飲みの場では出さない方が良い話題とも言われてるね。でも、大丈夫だよ。私は走る馬格好良い〜! って思ってるタイプだから」
「それは良かったです」
「馬ねー、馬か〜……滅茶苦茶格好良いよね〜」
「はい! 凄く!」
先輩の言葉に、男は頷く。しかし、アルコールが入っている所為か思った以上の大きな声が出て、先輩がほんの少し肩を上げ驚いた様に目を大きく開く。男はその反応を見て、もう一度「すみません」と小さく呟く。
「良いよ良いよ。夢中になれるものを見つけるのは大切だからね。でも、動物園、水族館とかにも言える事だけど、命を扱う以上牧場も朝早いよ〜? 今よりもずっと」
「それは承知の上です! って、先輩詳しいんですか?」
「詳しいっていうか、ちょっと知り合いがね……あ! なんなら話付けてあげようか? 君が本気の本気なら、手伝わせて欲しいな」
「え……い、良いんですか!?」
「うん! 良いよ〜。君が頑張れる子だっていうのはよく知ってるし、知り合いも何人か人材欲しいって言ってたし」
「有難う御座います! あの、こんな事聞くのも申し訳ないのですが、動物とは全く関係ない職から牧場に進むのって……」
「全然大丈夫じゃない? 今だって、脱サラして〜とかそれこそ競馬を見て〜っていう理由で始める人もいるし。愛する気持ちと、最低限の体力さえあれば問題ないって、多分」
「……そっか、有難う御座います!」
男は少しの脱力の後、居住まいを正し、先輩へと頭を下げる。
頑張りたいと思った手前、どうしようかと一歩進めなかった気持ちに対して、背中を叩いて貰ったから。
「改めて、本当に有難う御座います! 高垣先輩!」
「どういたしまして。頑張れよ、知り合いの所は馬がメインだけどそれ以外にも色々なかわい子ちゃん達がいるからね」
「お、押忍!!」
男が発する大きな声に、今度は驚かず、先輩は笑いながらジョッキに残った液体を飲み干した。
男と先輩が話してから数年の月日が経った。
男が今の職を目指そうと思ったきっかけは、動画サイトのオススメで突然出てきた競馬の動画だった。男は、競馬に対しては深い思い出も、感情も、それこそ批判的な気持ちも一切なかった。本来なら素通りするだけのものだったが、サムネイルに写っていた一頭の馬が白くて綺麗だったから、男は動画を再生した。
レースには真っ白な馬以外にも、沢山の馬が一緒に走っていた。だが、男はその中でも群を抜いて真っ白な馬が走る姿に目を惹かれた。雨が降ったのか白い身体をぬかるんだ地面で汚れるのを厭わず懸命に走って、最後の一瞬まで頑張る姿に目が離せなくなった。
男が牧場のアルバイトとして働き始めてから一番驚いたのは、男が心を奪われたその馬が、目の前にいた事だ。
男が見たレースは昔の映像で実際に行われたのは、男が5歳か、6歳の頃だった。それ故に、寿命を考えたら既に亡くなっているのだろうなと思っていた存在が変わらずに立っていたという事実に、一瞬時が止まった様な感覚を覚えた。
唯一見た事があるあの動画だって、白い馬は勝利していない。確か、3着だった。
それなのに、隣に立つ先輩に促されるまま触った掌から伝わる熱に、何故だか無性に泣きそうになった。
愛が職を変える時もある。