幻の夢を追いかける華 作:日振
世界が桜の花に包まれる4月。円谷巽は自身の購入したサラブレッドであり、数週間後に大きなレースを控えているアセビボタンへと触れる。今後、真っ白な身体になると言われているが、今の所買った時と同じ真っ黒な身体をしていてどちらかと言えば、格好良い見た目をしている。
満開となった桜の木から、花びらが降り注ぐのを円谷はボタンの隣に立ちながら見つめる。
「ほら、アセビさん。これが桜。君によく似合う花だ」
話し掛けても、種族が違う以上ボタンは円谷の言葉に首を傾げる様な動きを見せるばかりで、円谷もまた人の言葉が分かる事はないだろうと落胆する事もなく、ただ、話し掛け続ける。
円谷が歩けば、ボタンもまたその隣を歩く。途中、小さく細い枝ごと落ちた桜の花を見つけて、円谷はそれを拾うとボタンの前髪の部分へ差し込み、綺麗だねと笑う。
「次のレース、頑張るんだよ。私も見に行くからね」
何時もの様に円谷がその顔へ抱き付けば、ボタンもまたそれに応じる様に円谷の身体へ鼻や額、頬などを押し付ける。
もし、ボタンが人間だったのなら、ミツ子さんに怒られてしまうな。と、円谷はまたクスクスと笑った。
1951年、4月22日。12頭のサラブレッド達が殺風景な阪神競馬場に集結する。
円谷はいつも通り、落ち着いた様子で高級なスーツに身を包みながら友人である高垣芳司と共に、競馬場へと足を踏み入れる。
大きなレースとあってか、会場内には普段と比べたら見違える程の観客がいて、数多の人間達が自分の期待する馬へと夢を見ている。
「アセビさんは勝てるだろうか」
「勝つさ。あの子の強さは本物なのだからね、巽君も知っているだろう?」
「それはそうだけれど……しかし、心配するというのは人間にとってごく一般的な感情だろう」
「そうだな。存分に心配すると良い。そして、杞憂だったと過去の自分を恥じると良いよ」
「……そうさせて貰うよ」
円谷と高垣はボタンが出てくるであろう場所の近くで立ち止まると、目当てが出てくるまでの時間を待つ。
途中、円谷が軽く咳き込んだのを高垣は大袈裟な程に心配な顔をして、その背中へ手を添える。
「大丈夫か?」
「あぁ、悪いね。なんだか知らない内に風邪を貰った様で」
「全く……君は虚弱なのだから、今日は帰ったら直ぐに身体を休めるんだよ」
「分かっているよ。芳司君は心配のし過ぎだ」
「当たり前だろう。友人を心配するのはこれもまたごく一般的な感情なんだから」
生まれつき身体の弱い円谷は、何かしらの疾患が現れても慣れた様子であまり気にする様子はない。だが、その代わりに友人である高垣は毎度の様に深い心配の感情を円谷へと向けていた。
2人がそんな事を話していれば、遠くからざわりと盛り上がる声が聞こえて目を向ければ、レースに出走する牝馬達が姿を現し始めていた。
ターフへと向かう道すがら、円谷が「アセビさん」と声を上げれば、その声に反応したボタンは円谷の方へと顔を向ける。付け加えた「頑張りなさい」という言葉に、ボタンは首を傾げる様な素振りで返事した。
敷地内にゴルフ場があるという特異な形を持つ阪神競馬場のターフの上を、12頭の牝馬達が一斉に走り始める。円谷の所有馬であるアセビボタンは何者にも囲まれない、一番外の位置に陣取って落ち着いた様子でレースを進めていた。
4月と言っても下旬となり9割以上の花が散り、幾つかの逞しい花びらがだけが残る桜の木を背景に、遠くを走っていた馬達がコーナーを回り、円谷達の目の前へと戻って来る。
「ボタン!」
「アセビさんッ!」
コーナーを回り終わった瞬間に、真ん中から少し後ろにいた真っ暗な身体の馬がグンとスピードを上げて、500メートル近く残っている筈の直線の先頭に立つ。毛先だけが少し、白くなった尻尾が揺れる。
直線の半分に差し掛かる頃、後ろを走っていた馬達がボタンへと襲い掛かる。きっと、早いタイミングでスパートを掛けたボタンの体力はもうないだろうと考えられていた。
けれど、ボタンに乗った小金井近江が鞭を振るえばボタンはもう一度、スピードを上げる。誰にも追い付けない速さで埋められそうになった差をまた開いていく。
「ボタン! そのまま走れ!!」
円谷の隣に立つ高垣は身を乗り出す勢いで叫ぶ。円谷は既に声を忘れ、興奮に揺らしながら、その走りに魅了された瞳だけをボタンへと向けていた。
ボタンは正に「余裕」とも取れるリードを作り、ゴール地点である鏡の前を通過した。
は、と一瞬止まった息を吐いて、円谷と高垣は強く手を握り合う。
「よし、よしッ! お前の馬は強いな、巽君!!」
「あぁ、あぁ! アセビさん、本当に強い子だ。凄い子だ」
遠くから戻ってきたボタンへと円谷が駆け寄れば、ボタンは「勝ったよ」と言いたげに鼻を鳴らす。
円谷とボタンが戯れていれば、少し落ち着いたタイミングを見計らって写真を撮るぞと言われ、人のいる場所から離れターフの上へと移動すれば真っ直ぐに立った円谷にボタンが顔を寄せる。
「アセビさん、前を向いて。ほら、こっちだ」
円谷がカメラの方へ目線がいく様にボタンを誘導するが、ボタンはジッと円谷の方を気にするばかりで、仕方なく円谷はその顔へ手を添える。
馬上にいる小金井、カメラを構える高垣から、相変わらずだなと思われながらボタンは懐いた円谷へと「撫でろ」とアピールをする。
「改めてアセビさん、今日はおめでとう。やっぱり、君には桜がよく似合うね。アセビサクラの方が良かったかな」
撮影を終わらせて、円谷がボタンへと笑い掛ければ、ボタンは何時もの様に顔を円谷の身体に押し付ければ、円谷もまた何時もの様にその身体を抱き締めた。