幻の夢を追いかける華 作:日振
少ない出走数ながら人々の心に強い印象を残した牝馬、アセビボタンの初年度産駒となる鹿毛の牡馬は生まれた事を祝福する様に咲き誇っていた花から名前を取り、「アセビスズナ」と名付けられた。
ボタンは初めての子育てながら母らしくしっかりと小さな身体を守り、スズナは子供らしくスクスクと成長した。
スズナは自身が目に映す世界に対して、あまり興味のない様な素振りを見せた。同じ歳の馬達が好奇心旺盛に走り回っていても、スズナは柵の中でゆっくりと歩いた。けれど、その中には自分なりの拘りがあるのかその拘りに触れると時折苛烈な一面を見せた。
時が経ち、競走馬として走り始めてもスズナの無関心は続いた。自身に備わった能力だけでゴリ押している様な雰囲気で、何かキッカケを作らなければ直ぐに通用しなくなると、騎手であり、スズナの母、ボタンに騎乗した小金井近江は頭を抱えた。
「……何がお前の目指す場所なんだ」
相変わらず「無関心」を感じさせる静かさで水を飲むスズナを見つめながら、近江は付き合いで貰った煙草を吸いながら問い掛ける。しかし、その言葉に返事が返ってくる事はない。
約一ヶ月前に行われた皐月賞でスズナは初めての負けらしい負けを記録したのを近江は思い出しながら、スズナへと再び話し掛ける。
「皐月賞、お前が珍しくも少しやる気を見せたから期待したんだ。あぁ、お前の夢はこれかって。だが、最後の最後に何かが違うとばかりに脚を緩めた。何が嫌だったんだ」
スズナは答えない。ただ、近江の中にだけ不安が積み重なっていく。近江のスズナに対して持つ感情はただの一方的なエゴイズムであるが、観客が願う夢でもあった。ボタンの子として、少しでも大きな舞台で勝って欲しいと。それが酷く残酷な願いであると深く理解しつつも、矢張り願わずにはいられなかった。
1959年5月24日、日曜日。22日の夜から降り始めた雨は今現在も地面を濡らしており、不良馬場であるとアナウンスされた。
最も運のある馬が勝つと言われる「東京優駿競走(日本ダービー)」。スズナを含めて26頭が出走する祭典だった。
スズナが身体を雨粒で濡らしながら歩く度に、生まれた時からの付き合いである近江は「おや?」と首を傾げる。普段なら悪い意味で力の感じない足取りが、今日ばかりは地面を割るのではないかと錯覚する程にしっかりとしていた。母であるボタンが初めて惜敗したのと同じ舞台、何か感じるものでもあったか、成長に伴い今日という日に偶々意識が変わったのか、近江には判別の付かないキッカケだったが、プラスの方向に変わったスズナへ「良かった」と素直に思う。
「頑張ろう、スズナ」
その言葉を聞くと、珍しくスズナは鼻を鳴らした。
ゲートのないスタート位置に横一列に並んだ26頭の馬達。スズナは真ん中より少し内のポジションに立ち、その瞬間をジッと待っていた。人気は15番、出走数の少なさと、その気迫を感じない走りの所為であるとよく分かっていた。
大観衆が大きな歓声を上げる中、バリヤー式発馬機がテープを上げる。空気を揺らす蹄の音が、その瞬間に鳴り響く。
「今一斉にスタートであります。注目されていたあのアセビスズナはこの舞台で勝利する事が出来るのか、注目が集まります。まずは、中団よりやや後ろに落ち着きます」
アナウンサーも、矢張りあのアセビボタンと同じレースに出走したとあってか、低人気ながらも最初に実況を行うと、その後は直ぐに前を走る馬達の名前を呼んでいく。
一段となった26頭の馬達が1コーナーを回ると、足音が少し小さくなる。始まったばかりでまだ大きな動きはない。
スズナは先頭からは少し距離があるものの、飛び出し易い外めのポジションを確保する事が出来て、近江は馬上でタイミングを見計らうかの様に深く息を吸う。掛かっている訳ではないが、スズナからこれまでには感じられなかった勢いが感じられて、ほんの小さな「期待」が湧き上がる。
「向こう正面に入り、アセビスズナ変わらず中団やや後ろであります。先頭からは8馬身程度の差があります。先頭は3コーナーへの坂を上り始めます」
こんなにも緊張するレースなのに走ってしまえば3分も使わない。そのアンバランスさから、数十秒前にスタートしたと思ったレースも、既に最終直線前まで走って来てしまった。
スズナはまだ、スパートをかけ始める気配がない。それならば、最後の直線に出た瞬間に勝負が始まる。
「全馬、最後のコーナーを進んで参ります。先頭に多くの馬が集まってきました。アセビスズナは未だ中団であります」
フッと、合図をしていないにも関わらず、スズナの踏み込みが変わる。
「直線に入ります」
先頭で逃げる馬は未だに先行集団へと3馬身の差を付けている。スタミナが豊富なのか、他の馬もスピードを上げている筈なのに、その差が縮まらない。スズナから見たら10馬身程はあるだろうか。
スズナが強く、強く地面を抉る。グンっと頭が下がって、怪獣の様な威圧感を放つ。
「アセビスズナ動き始めました。グーンとスピードが上がりまして、スルスルと他の馬を追い抜かして行きます。早くも先頭集団の位置にまで順位を上げています。しかし、まだ3番手の位置であります」
近江が鞭を振るう。残り約250メートル。スズナは更に脚の回転を速める。強い踏み込みで勢いを付けて、更に他の馬よりも何倍も速い脚の回転で前に進む。
グゥと唸り声の様な呼吸音だけが鮮明に聞こえる。
「アセビスズナ先頭に追い付きました。残り100メートルであります。アセビスズナ、更に前に出ます。1馬身、2馬身と距離が開きます」
油断するなと近江は絶えず鞭を振るう。「勝てる」と思ってしまっても、絶対がない場所で慢心するなど愚の骨頂であり、あの細い鏡の前を通り過ぎるまでは駄目だと近江はスズナと共に前を見る。
「アセビスズナ、力強い走りで進みます。アセビスズナ、今、悠々とゴールイン。見事、ダービーを勝利しました」
深く息を吐く。勝ったと、慢心になりかけた心を捨て去って、本心から「勝った」と一瞬だけ拳を握る。
「やったな。スズナ」
スピードを緩めていくスズナの首筋を叩けば、相変わらずの無反応で返される。
近江は、自分勝手な考えだと自覚しながらダービーというものに対して「敵討ちだな」と笑えば、スズナが突然立ち止まり、ジッと先程まで走っていたコースを見つめる。その姿は、勝利を噛み締めている様にも見えたが、スズナの事だから気になったものがあったのだろうと近江は結論付けて、スズナを人の方へと促せばゆっくりと歩き始める。
「……スズナ、おめでとう」
改めて近江が言葉を掛ければ、スズナはまた珍しくも鼻を鳴らした。
ダービーを勝利してから、どちらかと言えば無気力故に走らなかったスズナは、無気力ではなく、明確な「拒絶」として芝の上を走る事を嫌がる様になった。
様々なアプローチを行いどうにか苦手を克服できればと奔走したが、結局スズナの気持ちは変わる事がなく、起死回生の一手としてスズナは5歳になってから伝手を辿り遠く離れた九州、荒尾の地で走る事になった。
スズナを送り出してから早2年、電話や手紙で荒尾から伝えられるスズナの様子を聞くにダートでは上手くやっているらしい。
「……ほんと、ダービーだけを勝つ為に頑張ったみたいだよ」
なぁ、スズナ。
煙草の煙を吐きながら咳き込んで、やっぱり身体に合わんなと笑う近江の目線の先、スズナが入れられていた馬房は空っぽだった。