幻の夢を追いかける華   作:日振

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 唯一無二で最強

 

 最終コーナーを回り、ラストスパートを掛けた一番スピードの乗ったタイミング。何か特別な事があった訳ではないが、偶々、本当に偶然、百合江水仙が騎乗していたオンリィバディが躓いた。

 身体全身に襲い掛かる衝撃に耐えながら手綱を力一杯にギュッと握るが、スピードと比例した力を受け切れずに地面へと投げ出される。

 百合江が覚えていたのは「すみません」「御免なさい」と叫ぶ自分の声と、なるべく他の馬や騎手の邪魔にならない場所へ転がろうとしていた事のみで、痛みを感じた様な気もするが、それをしっかりと認識する前に百合江の意識は途切れてしまった。

 動かなくなった百合江の側、転んでしまったオンリィバディは顔を上げ困惑した様子で左右に顔を振る。移り変わる視界の中、映り込んだ人間の姿。自分の方へと変に手を伸ばしている風な状態で動かない人間を不思議がりながら、立ち上がり、何歩か歩く。

 顔を上げてと鼻先をその背中へ押し付けるが、人間はピクリとも動かない。オンリィバディがどうしてだと耳や顔を動かす最中、酷く焦った様子で何人もの人間がやって来て、倒れた人間は運ばれて行く。

 その光景をオンリィバディはジッと見つめながら、湧き上がってくる言語化の出来ない感覚を誤魔化す様に声を上げた。

 

 

 朝、目が覚める時とは違いどこか不快感を残しながら百合江は目を開ける。真っ先に目に入ったのは蛍光灯の光、続くのは口を抑える母親と、手を握っていた婚約したばかりの恋人。父親は、平静を保っている様に見えて覚束ない手付きでナースコールを押していた。

 百合江が落馬した日から数日間、百合江は目を覚さなかったらしい。しかし、それは普段身体を使う仕事だった為に無自覚な疲労が溜まっていた結果で、生死の境を彷徨っていた訳ではなかったのだが、心配を掛けたのは事実で百合江は掠れる声でまずは謝罪を口にした。

 打撲、脳震盪、複数箇所の骨折。一般人が負う怪我としては酷いものだが、騎手を辞めなければいけない程にはなっておらず、医者の話を聞きながら百合江はホッと胸を撫で下ろす。オンリィバディもまた、転んだ事による怪我を負ったものの、骨折や脱臼など命に関わったり引退に繋がる様な状態にはなっておらず、百合江は自分の事以上に「良かった」と胸を撫で下ろす。

 

「ごめん。これからを考えていた矢先にこんなになっちゃって」

「私、全部分かって付き合い始めたから大丈夫だよ。だけど、もし、負い目を感じているなら早くその怪我を治してね」

「……うん。有難う」

 

 ベッドに横たわりながらも頭を下げようとする百合江に対し、婚約者である白妙千代美は変わらずにその手を握りながら首を振る。百合江はその優しさ、騎手というある意味で危険な職に就いている自身を受け入れてくれる強さに感謝しながら、握られた手を握り返した。

 

 

 百合江の骨折自体は落ち方の激しさに反して数ヶ所で済んだものの、その数ヶ所の症状が重く回復までに1年の時間を要した。けれど、それだけでは終わらず動いても良いとお墨付きを貰ってから始まるリハビリもまた数ヶ月の時間を要し、更にその先に待つ「馬に乗れる様にする」為のリハビリもまた時間が必要で、百合江は長い道のりに心が負けてしまわない様に見舞いに来た師である小金井斗真へとオンリィバディの近況を問い掛ける。

 

「あー、それがな。水仙が乗らなくなってから、サッパリなんだ」

「……え? まさか、何か問題でも!?」

「いや。奇跡的に、走りやメンタルに問題が残る事はなかったんだ。これは多分、お前じゃないからだよ」

「私じゃ、ないから?」

「そう。メンタルや走りに問題がない上、ケアだって充分以上にやっている。それなのに、ここまで走れなくなるのはもう騎手が違うからとしか言いようがない。オンリィバディはお前に合い過ぎたんだ。正に、唯一無二の相棒、的なやつじゃないか?」

「唯一……無二……嬉しいけど、それはそれで心配です。あの子は、これからもっと凄い馬になる筈でしたから」

「そうだな。なら、散々言われているだろうが早く復帰しないと。オンリィバディは何か変わればと障害の練習も始めてるぞ」

「え、オリバは障害レースを走るんですか!? じゃあ俺も障害挑戦します!! まだ免許は返していないので!!」

「……は……はっはっは! そうだよな、水仙はそういう男だよな!!」

「え、あれ、何か笑う要素ありました!?」

 

 他の患者が検査や散歩なりで外に出ていた事が幸いして文句を言われる事はなかったが、病室内に小金井の豪快な笑い声が響き渡る。話が弾み、2時間程度話した小金井は最後にお見舞いの言葉を言って百合江へと別れを告げて帰って行った。

 配膳された夕食を口にしながら、小金井から言われた事を百合江は再度思い出す。

 オンリィバディはGIも勝った素晴らしいサラブレッドであるが、血統的には喉から手が出る程でもなく、後継として貴重となるものでもない。だからこそ、走りの噛み合わせが悪くなっても走って結果を出すしかないと思われている。けれど、それは間違いで、引退した所でというよりも、オーナーでさえも口にした「百合江を待っている」からこそオンリィバディは引退せずに走っている。様々な事を試しているのも「百合江ともう一度走れる様にする為」で、オンリィバディに関わる人々は全員、オンリィバディと百合江水仙のコンビが復活するのを待ち望んでいる。

 百合江はその話を聞いてから、早く会いたい、早く戻りたいと余計に思う。それ故に、コンビ復活を実現させる為、大きく音を鳴らしながら手を合わせ頂きますと声を上げる。決められた量の配膳は漫画やドラマの様に山盛りなんて事はないけれど、それでもしっかり食べてしっかり身体を休めて、しっかりリハビリをする。

 それが、今の百合江に出来る最善だった。

 

 

 あの日、落馬してから数年経ち、百合江は漸く現場へと復帰した。同期やお世話になっている厩舎、可愛がってくれている先輩達へ挨拶を済ませ、最後に最愛の相棒の元へ歩く。

 馬房の中、のんびりとしていたオンリィバディに「オリバ」と、この世界の中で百合江しか使わない渾名を口にする。すると、声自体は小さかった筈なのにレース中と見紛う早さで顔を出す。

 

「覚えててくれたんだな〜。有難う、オリバ」

 

 信じていなかった訳ではないが、目の前で分かり易い反応を見せてくれると百合江も嬉しくなってオンリィバディの額へと手を添える。

 

「あの、次はどのレースを走るんですか?」

「次? 次は、再来週の障害未勝利戦だよ」

「練習してるってのは病室で聞いてましたけど、やっぱりレースの方にも出るんですね」

「あぁ。なんでも挑戦させてみようってオーナーがな」

「私が乗っても良いですか?」

「おう、オーナーもお前の頼みならオッケーしてくれるんじゃ……って、は? いや、いやいやいや、無理だろ」

「任せて下さい!! 競馬学校出てからも何かに繋がればって趣味程度ですが馬術をやらせて貰ってますし、なんならこんな時の為に入院中、斗真さんにお願いして障害の皆さんから色々教えて貰ったのでちょっとは大丈夫だと思います!」

「は、え、はぁ……? 何と言うか、変な所で行動力あるな。でも、俺にその権限はないし、もし乗るつもりなら自分で話付けな」

「はい! オリバと頑張ります!」

「……乗る気満々じゃん」

 

 呆れた風な顔をする厩務員を他所に、百合江は携帯のロック画面を開き迷わずに電話帳の中からオンリィバディを所有する馬主の名前を見付け、電話を掛ける。コール音が鳴った瞬間に時間も考えずに迷惑だったかと切ろうとするが、それよりも先に少し懐かしい声が聞こえる。

 百合江はまず、復帰した事への報告と入院中に見舞いを送ってくれた事への感謝を伝えると、おずおずとオンリィバディの話題に移る。厩務員と同じく乗れるのかという部分を心配され、百合江が根拠のない自身で「大丈夫だ」と返せば、それならばと了承される。

 

「よしっ、オリバ! 次のレースまでに君を完璧にエスコート出来る様にするから、また一緒に頑張っても良いか?」

 

 黒い頬に触れながら言えば、考える間もなくオンリィバディはズイッと前に出る。きっと、百合江の言葉を理解しての行動ではないのかもしれないが、オンリィバディが昔と変わらずに信頼してくれている事実が百合江は涙が出る程に嬉しかった。そして、掌から伝わる温もりに戻ってこれた幸せを噛み締めた。

 

 

 土曜日、お昼前に行われる障害3歳以上未勝利は15頭が集まっていた。オンリィバディは平地ではGIすら勝った実力を持つサラブレッドだが、百合江が入院してからの崩れ方が著しく、コンビ復活の人気をもってしても5番人気に留まっていた。

 百合江はオンリィバディと顔を合わせてから無理矢理にでも時間を作っては障害レースで記録を重ねている名手達の元へと歩き、小さな事でも慢心せずに気になった事を聞いていた。障害騎手達もまた、新たに障害レースへと挑戦する若者を拒む事なく、本来なら門外不出であろう自身らの技術を惜しみなく百合江へと伝えていく。

 

「やるよ。オリバ」

 

 ゲートの中、ポンポンと首筋を叩けばオンリィバディはジッと前を見つめて集中する。目の前が開き、他の馬と並んでオンリィバディは狭い箱の中から飛び出す。

 今回のレースは、中山の様な深い谷も、京都の様な三段跳びもない。百合江がコースを間違えなければ適性と、己の走りで勝負が出来る。

 

「いち、にの、さんっ!」

 

 ハードル障害をタイミングを合わせオンリィバディと一緒に飛ぶ。初めてのレースにしては百合江は上手くレースに対応出来ているのではと感じるし、オンリィバディは百合江がいない間ボロボロだったとは思えない完璧な走りをしていると思えた。

 鐙に足を掛け、スピードに乗る感覚は懐かしく、心地良い。

 コーナーを回り、目の前に迫る最終障害。今度はタイミングが掴み切れなくてほんの少し危険を感じる飛び方をさせてしまったが、オンリィバディは転ぶ事なく着地し最終直線を駆ける。百合江が鞭を一回入れれば、グンとスピードを上げ、先頭に立つ。

 

「オンリィバディが先頭に立った! 1馬身、2馬身と徐々に差を広げていく! 待ち望んでいた相棒と共に久し振りの勝利へと触れるか!!」

 

 重賞レースでもないのに興奮した様子のアナウンサーが叫び、観客の中にはオンリィバディのファンか大きく手を挙げる何人かの姿があった。

 百合江がオンリィバディの背からいなくなってからはずっと、掲示板に載る事すらなかった。けれど、最愛のバディが戻ってきた1戦目、初心者と初心者のコンビは障害レースの舞台で勝利を飾る。

 馬上で片腕を挙げた百合江は、スピードを緩めるオンリィバディの首筋を何度も叩きながら再び片腕を上げる。

 

「マジで……本気で! 俺の事を待っていたって話に自惚れそう!」

 

 ゴーグルを上げ、両目から溢れる涙を乱雑に拭いながら、百合江はオンリィバディの鬣へと顔を埋めた。

 点数を付けるのなら、百合江の騎乗振りはきっと30点にも満たない酷い有り様で、勝てたのもオンリィバディの実力の面があまりにも大きい。だが、事前に聞いていた状態からは想像も付かない程の完璧な走りと、変わらない強さに対し百合江はどこかフワフワとした感覚に包まれながら「有難う」とオンリィバディへの感謝を口にした。

 

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