幻の夢を追いかける華 作:日振
沢山の馬房が立ち並ぶ前に置かれた使い込まれ年季の入った七輪の中でパチパチと木炭が控えめに火花を散らす。七輪の上には、乱雑に使われているのか元がなんだったかも分からない炭となった塊がこびり付いた網が置かれている。
七輪の側、しゃがみ込んだ男は懐からクシャクシャになったタバコの箱を取り出して、一本を選び出すと木炭へ先を押し付けて火をつける。
深く吸い込んで、深く吐く。有害物質を含んだ煙が空へと向かって揺れる。
「……ここいらで〜」
男は煙草を咥えたまま、鼻歌をしながら未だ空虚な網の上へとキラキラと輝く秋刀魚を一尾、二尾と置く。
皮の焼ける音、身が焼ける音が辺りに響き渡る。その音と煙の匂いになんだなんだと何頭かの馬が顔を出す。
ジュワジュワと秋刀魚が焼ける音を聞きながら、食欲をそそる匂いを楽しむ。そして、それらを無駄にする様に再び煙草を吸い込めば、酷く酒が飲みたい欲に駆られる。
「安く買えたからって仕事場でやるもんじゃねぇなこれ」
本能が酒を欲しているのを必死に抑え込み、秋刀魚をひっくり返す。綺麗に焼き色が入った方と、焦げ付いてボロボロになった方。しかし、旬からは少し時間が経っているものの秋刀魚が持つ味や魅力は変わらず。
男はゴクリと唾を飲み込み、待ちきれんばかりに煙草をギリギリまで吸い込む。煙を吐き出しながら残りの殆どがフィルターとなった吸い殻を地面へ擦り付ける。
その時、男から一番近い位置にあった馬房から一頭の馬が顔を出す。その馬は、七輪から立ち昇る煙に不快そうに首を振りながらも、見慣れない状況をジッと見つめている。
「オー、スズ。お前も食いてぇか?」
男が目線を変え、スズと呼ぶアセビスズナへと問い掛ければ。スズナは興味なさそうに、男の言葉を無視してただ煙を見つめ続ける。
アセビスズナは1956年に生まれた727頭の内、日本ダービーを勝利しトップに立った牡馬であるが、「日本ダービーだけを勝つだけに生まれてきた」と言わんばかりにその後は戦績が低迷した。アセビスズナの母、アセビボタンもまた日本ダービーに挑戦しその後の戦績が低迷した事から似た者親子だと言われる事もあるが、ボタンが精神的なものだと考えられているのに対し、スズナは満足したのだと考えられていた。
けれど、競走馬としてはこれから本格的に脂が乗り始めるスズナが走れなくなるのは勿体無いと調教師を始めとする関係者はスズナに対して様々なアプローチを行った。だが、全て無駄だった。ボタンと違い、芝のコースに立つ事すら嫌う様になったスズナは調教師や馬主、厩務員にもお手上げで、芝が駄目ならとダートを走る為に意識を変えるという意味でも伝手のある荒尾へ移籍する事になった。
男が見つめる馬房から去るのは明日。なんでもない日にひっそりと、旅立つ予定になっている。
「……仕方ねぇなぁ〜」
秋刀魚をもう一度ひっくり返し、しっかりと焼けている事を確認すると男はその身をほぐして掌に乗せる。フッと雑に息を吹きかけ身に籠る熱を冷ましていく。
男は立ち上がり、スズナの口元へと秋刀魚の身を持っていくと、スズナは訝しげに匂いを嗅ぐとゆっくりと秋刀魚の身を口に入れ、咀嚼し始める。本来は草食動物であるが故に差し出した手前、食べないだろうと思っていた男は多少驚いた声を出すものの、直ぐに「美味いか?」とその額を撫でる。
普段の餌の様に量がある訳でも、林檎や人参の様に分かり易い味がある訳でもなく、人間の一口分より多い程度しかなかった秋刀魚は、スズナは食べた感覚すら理解出来なかったのか首を傾げるばかりで反応らしい反応を見せない。
「ははっ! テメェのデカい身体だと、この美味さは分んねぇか!」
ガッハッハと豪快に笑う男を見つめ、自分が笑われたと感じたスズナは男の身体を押し退ける様に鼻先をぶつけてくる。男は勢いが殺せずになん歩か下がると、謝罪の言葉を口にしがら首筋を叩く。
スズナは機嫌を悪くしたのか、馬房の中へ引っ込んで男への興味をなくす。
「明日までの仲なんだ、出ていく時までには機嫌を直しといてくれよ」
男はスズナへ向かって言うと、踵を返し七輪の前にしゃがむ。少し焦げた匂いの混ざった秋刀魚に醤油をかけると、箸を突っ込んで骨から身を離す。
熱々のまま、それを口に入れて咀嚼すれば人間らしい感情と、満足感が湧いてきて思わず息を吐く。流石に大根おろしやすだちまで持ってくる気力はなかったが、面倒臭がらず持ってくればよかったと物足りなさがじわじわと浮かび上がる。
背骨を取り、内臓と共に秋刀魚を食していれば口の中に感じる旨味と苦味と共に、後ろ髪を引かれる感情が現れた。
「美味いなぁ……なぁ、スズ。魚も食えるってんなら、お前と一緒に、来年も食いたかったなァ……」
楽しい食事の途中、ふとした瞬間に男の頭の中へと浮かぶ「まだ何か出来たのでは」「アセビスズナはこの場所でもう一度輝けるのでは」という思考。後悔が残らない程、スズナへやれる事は全てやった。それで駄目だった。
頭では分かっていても、心が追い付かない。
アセビスズナはこの場所に戻ってきて、この場所からレースへ向かうのだと信じて疑っていなかった。
いつの間にか親馬鹿になってしまった思考回路が別れの邪魔をする。
「まぁ、でも……笑って送り出してやるよ」
新しく煙草を出し、火をつける。
七輪から立ち昇る煙に混ぜ込む様に男は自身の口から煙を吐く。
酒を持ってくればよかった。と、眩しい程に美しい青空を見ながら、男は自嘲しながら後悔を煙で誤魔化した。
偶々安く買えたからとどこか衝動的に購入し、使い道に迷った挙句、隙間を埋める要因でお弁当の中に入れた秋刀魚の竜田揚げを口にしたアセビスズナを見ながら、同じチームのアセビルピナスは「おー!」と声を上げる。
「あれー? スズナさんは、秋刀魚お好きですかー? ルーちゃんもー、好きですー」
いつもの様に、間延びした口調で言うルピナスの言葉に、スズナもまたいつもの様に興味なさげなテンションで「別に」と返す。
「えー、でもー。態々揚げ物をつくるなんて、大変ですねー? ルーちゃんはー、好きじゃないとやりませんー」
「揚げ物ッテ、フライパンで揚げ焼きみてーにしただけダ。大変でもなんでもねーダロ。本当に、偶々だよ」
ちょっと懐かしい気がしただけだ。
スズナが付け加えた言葉に、ルピナスはまた首を傾げた。