幻の夢を追いかける華 作:日振
1972年、中山競馬場。芝1200メートルで行われる「京成杯3歳ステークス」は9頭の馬が集まり、スタートと共に一斉にゲートから飛び出した。
青空に照らされた良馬場の地面は心地良いのか、出走していたアセビルピナスはどんどんスピードを上げ、後続に5馬身もの差を開く。
「ポンと飛び出たアセビルピナスは楽な足取りで進みます! この大きく逃げた体制は最後まで保つのでしょうか!」
スタートした瞬間、鞭を入れ、ルピナスのスイッチを入れた小金井近江はいつも通りの様子で手綱を握るが、内心では小さな焦りを感じていた。
ルピナスは、デビューしたばかりで出走数が少ないながら、短距離を主戦場とする馬だと思われている。しかし、実際は体力が無さ過ぎて短距離を走るしかなかった馬である。1200メートルがベストと言えど、後先考えずに爆走したら、1200メートルすら保たない可能性がある。
そして、このレースでのルピナスは間違いなく爆走している側であった。きっと走るのが楽しいのであろうが、残りを考えると冷や汗が流れる。
「落ち着いて、もう少しペースを緩めなさい!」
小金井が手綱を引くが、既にルピナスはどこ吹く風。もとい持ち前のマイペースさで走りを緩める事はなかった。
中山競馬場は最終直線に坂が残っている。だからこそ、元々体力がない上にデビューしたてなルピナスは先頭を走るのだけならまだしも、こんなにも差を開く様な走りをするのはあまり好ましくなかった。
「4コーナーを回って、ただ一頭アセビルピナスが最終直線へと入ります! 短距離レースで頭角を表し、4連勝で錦を飾る事が出来ますでしょうか!」
興奮した様子の実況の声を他所に、徐々にルピナスの脚が鈍っていく。今はまだ、小金井しか分からない程の感覚ではあるが、これがあと20メートルもしたら観客にも伝わってしまう鈍りとなるだろう。
先程まで5馬身はあった差が、ゆっくりと縮められていく。それは、地面の傾斜と共に顕著になっていく。
「もう少し、もう少し!」
小金井がもう一度鞭を入れるが、ルピナスに加速する力は既に残っていない。唯一出来る事と言えば、今のスピードをどうにか維持する程度。
小金井の背後、直ぐ近くに他の馬と騎手達の威圧感が突き刺さる。
「おぉっとここでアセビルピナスにマードレブラウが並ぶ! 僅かにアセビルピナスが前に立っているがこれはもう苦しいか! 残り100メートルッ!」
半馬身もない差。相手はきっと余裕があって、ルピナスは既に限界の状態。小金井は鞭を入れ、ルピナスを追うが、最後のもう一踏ん張りが期待出来る力は残っていない。
小金井は、せめて一つでも上の順位が取れるようにゴール板までの間、全力でルピナスを鼓舞する。
「今ゴールインッ! 1着はマードレブラウ! 2着に入ったのはカスタノヴェレ、アセビルピナスはギリギリ3着に入れたか!」
1200メートルという短い距離でありながら、他の人馬以上に疲れた様子を見せるルピナスの首筋を小金井は叩く。ルピナスはフラフラと歩きながら、荒い呼吸をして、身体をブルブルと振るわせる。
後先考えない爆走によって与えられた陣営の心労、小金井の心労など気にせずに、酷い疲れはあるもののルピナス自身は満足げな雰囲気を出していた。
「ボタンは頑張り屋で、スズナは我を貫いた。そして続くお前はマイペース……と、本当に飽きのこない子達だよ。全く」
疲れが見える足取りではあるものの荒れた息が穏やかになったルピナスの手綱を動かして、出口へと誘導する。やって来た厩務員も、小金井同様に「やりやがったな」と、その首筋を労わる様に叩く。
しかし、最後はガス欠を起こしたとはいえ、3着まで残した根性は素晴らしいもので、素直に褒められるべき長所である。
「もう少し、マイペースが落ち着けば良いんですけどね」
「でも、そうなったらそれはもう、おらぁ達のルピナスではなくなるんじゃねぇの?」
「その通り。だから、頭を悩ませます」
「はははっ! どんな馬でも否定しない、センセーの美徳で」
ケラケラと笑う調教師は胸元に手を持っていき、ポケットの中に何も入ってない事に気付くと分かり易く肩を下ろす。普段は煙草でも入っているのだろう。
「煙草、辞めたらどうです?」
「あれは辞められねぇわ。もう、第2の肺みたいなモンで……それに、担当する馬が良い結果を出した時に吸う一本目はこれはもう格別でなぁ」
「肺から煙を吸って、肺を痛める。全く分かりませんね」
「そ。センセーには分からない、大人の味なんですわ」
厩務員は楽しそうにルピナスの鼻先を撫でながら、息子を可愛がる様な声色で「なぁ?」とルピナスへ同意を求める言葉を口にするが、ルピナスは相変わらずのマイペースで反応らしい反応を見せる事はない。
しかし、くすぐったかったのか、顔を振る動きがあまりにもタイミングが良くて、「僕は知りません」と言いたげな、もしかしたら言っているかもしれないと小金井は馬上で小さく笑った。