幻の夢を追いかける華 作:日振
11月23日、午後に予定された重賞レースに騎乗する為、騎手である新田翡翠が浦和競馬場へ足を踏み入れると、とある馬房の前で立ち止まる。
馬房の中、後ろを向いていた馬へと舌鼓で合図を送ると、馬は一度尻尾を揺らすとまずはおずおずと顔だけを新田へと向け、その後直ぐに身体ごと新田へと向かってくる。
芦毛ではないけれど、白くなる前の芦毛の様な灰色の毛色を持った馬。アセビコウロ。コウロは相変わらずオドオドとした様子で新田を見つめる。
「……おはよう」
新田は相手に感じさせる事が多い鋭い雰囲気からは想像出来ない、優しい口調と手付きでもってコウロの鼻先を何度か撫で、半顔のみの力でその身体を確認する。目に見える不調はなく、馬房に取り付けられたバケツの中身も綺麗になくなっている。
新田はコウロの身体や体調が問題なさそうな事を確認すると鼻先を軽く叩き、踵を返す。次は午後に予定されているレースに関して最後のミーティングを行う為、調教師達が集まっているであろう場所へと歩く。
教えられていた場所へと新田が辿り着いた時、既に新田以外のメンバーは集まっており、謝罪の言葉を口にしながら少し離れた端の方に自身の場所を取る。調教師が口を開き、レースについての話をしていくが新田は口を開かない。コウロの癖も、怯えも全て調教の時に話している為、何か話したいと思う事がない。ただ、話を聞き、言われた事をそのままに実行するだけ。
今日もまた、会話に耳を傾け時々レースについて共有された事へ頷き、ミーティングは終わる。
「それじゃあ、今日の大一番。宜しくお願いします」
「はい。お願いします」
人と人との繋がりが良くも悪くも大切となる業界の中、随一の可愛げがない騎手である新田であるが、幸か不幸か新田の身の回りにはその気質をあまり気にしない人達が集まっているお陰で仕事で困難が起きる事はない。
それは、新田の運の良さかもしれないし、ちょっとした才能だったのかもしれない。
新田が次に騎乗する第10レースが始まるまでの時間、特にやる事もなく暇潰しにレースを見ていれば、不意に着用していたジャケットの裾が引っ張られる。顔を動かせば、丸みの残る輪郭を持った見知った顔。
「どうしたの、こんな所にいるなんて珍しい」
「休み、だったから……お父さん見に来た」
「そう」
新田翡翠という騎手を知る人間ならば、きっと驚いて尻もちをつくだろう柔らかな表情をしながら、新田はその丸い頬へ手を添える。若さ故か荒れた場所のないスベスベとしたその手触りは心地良く、新田の心を少し動かす。
しかし、頬を撫でられた方は恥ずかしそうに目を逸らし、そっとその手を剥がす。新田は、剥がされた手を気にする事なく、隣の椅子の座面を手で払えば新田の隣に、小さな身体が座る。
「今日は誰と来たの? 美鶴は?」
「お爺ちゃんと来た。みっちゃんは来てない」
「そう。お爺ちゃんは?」
「知らない人と話してる。なんか、オシリアイ? って言ってた」
「そっか……そうだ、お腹は? うどんとかカレーとか、色々あるよ」
「今はお腹空いてない。お父さんがレースに勝ったら、その時に何か奢って?」
新田は隣に座る息子、新田伊織の頭を了承の言葉の代わりに優しく撫でる。伊織は、お年頃かまた直ぐにその手を剥がす。
2人並んで目の前に広がる風景をジッと見つめていれば、伊織が何かを思い出した様に持っていたバッグを漁り、新田へと差し出す。
「これ、サシイレ?」
伊織が差し出したもの、小さく丸みのある手に握られていたのは、唯一自身の心を映した場所であり、息子・娘以外には入られたくないとすら思っている私室に並んだ一冊の本、可愛らしいフォントとデフォルメされたイラストが押し出された絵本だった。
新田は絵本を受け取ると、何回も読み返した所為で癖の付いた紙を捲り、無意識に頬を緩ませる。何度も読み、簡単に暗唱が出来る内容でありながらも、新田は初めて読む本と同じ気持ちで平仮名を目で追っていく。
「元気出た? これで今日勝てる?」
「……うん。元気出た、有難う。頑張る」
本を閉じ、新田が笑いながら伊織の小さな身体を抱き締めれば、伊織は両耳を赤くしながら目を閉じた。
遠くでアナウンサーの声が響き、レースの終わりが告げられる。新田が「勝つだろう」と思っていた5番の馬が、その通りに一着となっていた。
「それじゃあ、準備があるから。お爺ちゃんはどこに居るの?」
「あっち」
新田は自身の手で小さな手を包みながら、伊織が指を指した方向へと歩く。
歩幅を合わせ、ゆっくりと進みながら伊織からしたらお爺ちゃんであり、新田からしたら父親である男の姿を見つけ預ければ、男から頑張れよと激励の言葉を受け、新田は頷く。
「レース前に圧力を掛ける様になって申し訳ないが、本当に翡翠が騎手になってくれてよかった。駄目という訳ではないが、これで調教師や厩務員だったら、その才能が埋もれたままだったかもしれない」
「……そうですか」
「俺は父親として鼻が高い。これからも、気を付けてな」
「はい」
新田は空いていた手に持っていた絵本を伊織へと返す。男は、読んで貰ったのかと影も悪意も不快感もない優しい祖父の顔をしながら伊織の頭を撫でる。
では、と会釈をして新田は踵を返し歩き始めた所で無意識に止めていたのかもしれない呼吸を再開させ、意識を切り替える。先程まであった温かな気持ちを仕舞い込んで、騎手になる。
2021年、11月23日。火曜日、浦和競馬場。第10レースJpnII「浦和記念」は、天候は晴れ、ダート状況は重馬場と発表された。
新田とコンビを組み出走するコウロの馬主である高垣琴も見守る中、新田は勝負服を身に纏いコウロへと跨る。競馬場へとやって来た競馬ファン、インターネットを通してレースを見ている競馬ファン、沢山の視線を浴びているコウロは相変わらずオドオド、ビクビクとしていてその強さに反して低い人気に留まっていた。
そんなコウロが少しでもマイナスな気持ちから意識が逸れる様にと、新田は小さく鼻歌で童謡のメロディーを奏でる。どこか懐かしい音色に、コウロは耳を傾け不安定だった足取りが正常になる。
「走るよ」
言葉を掛けながらゲートへと入り、目の前が開くのを待つ。全11頭の枠入りが終わり、ガシャンと目の前が開く。
コウロはゲートが開くのと同時、綺麗に一歩を踏み出すと新田からの指示のままに中団から少し後ろにポジションを取る。
新田は左側に残った視界と、尋常ではない感覚でもって、隊列が少し縦長であること、集団になっていないからこそ自身の右側には誰もいないことを確認しながらコーナーを回る。キックバックにより身体を黒く染めながら、新田は前方を見つめる。逃げる馬はおらず、先頭までしっかりと確認出来ていた。
コウロは酷く怖がりな性格をしているが、レースでパニックになる事は殆どない。頑張り屋で、強い子なのだと新田は認識している。
2週目に入り、残り800メートルを切った所で隊列は更に縦長となり、それぞれのポジションも徐々に動いていく。
「ここから、もっと頑張るよ」
3コーナーを過ぎ、新田が合図を送ればコウロはギアを上げ、間隔が開いていた前方へと迫る。右側には誰もいないからこそ、何も心配がいらない大外から先頭へと辿り着く。
浦和競馬場の短い最終直線、200メートルと少しの攻防戦。しかし、新田には浦和競馬場において、コウロに2着を与える訳にはいかなかった。馬主である高垣の願いを叶える為にも、浦和競馬場のレースでだけは負けられなかった。
新田が鞭を入れれば、コウロもまた高垣の気持ちを知ってか最後にもう一段階ギアを上げる。コウロ以外全ての馬が歳上で経験も積んだベテランではあるが、それを感じさせる事なくコウロは一騎打ちに正面から挑み、一歩前へ出る。
ふっと小さく息を吐き、コウロの首筋を叩く。ゆっくりとスピードが緩み、コウロは嬉しそうに尻尾を揺らす。ウイニングランの声援を聞きながら、調教師達が待つ場所へと戻って来れば、コウロは忽ち大人達から褒められて嬉しそうな反応を見せる。
暫くすれば馬主である高垣がやって来て、興奮を隠し切れない様子でコウロをわしゃわしゃと撫でる。
コウロは顔を蕩けさせながら、その顔を高垣へと押し付け「もっと」と強請っていた。