幻の夢を追いかける華 作:日振
身体に水を掛け、泥を落とす。特別なブラシを鬣に滑らせて絡まりをなくしていく。真っ黒な毛では汚れは目立たないものの、目立たないからこそ美しく整える。手抜きなんてしてやるものかと完璧な手入れをする。
黒い馬、アセビボタンはその強さに反して人気はあまりなかった。少しも明るい部分がない全身は、誰が見ても真っ黒でパッチリとした可愛らしい瞳すら上手く見えない。それ故に、走っている時はよく分からない黒い塊が動いているだけにしか見えず、時代柄、体格も相まってボタンを見た人間の中にはぎこちない笑みを浮かべる者もいた。
けれど、ボタンの強さは本物でデビューから3戦3勝、他の馬と比べたら体調を崩していたのかと勘違いされるくらい殆ど走っていないレベルではあるが、圧倒的なパフォーマンスでもって、1着賞金25万円という大きなレース。去年新設された「阪神3歳ステークス」のステージへと辿り着いた。
「アセビさん。頑張って、走っておいで」
額を合わせた馬主の円谷巽は、ボタンの頬を撫でながら願う様に言葉を紡ぐ。本来なら、競馬の世界にいる筈ではなかった馬だが、土俵に上がったのなら美しき愛馬がのびのびと駆け抜ける姿を見たくなってしまうのが人間の業である。
着順は気にしない。ただ、美しく、自分らしく走って欲しい。
「私もしっかり応援するからね」
額を離し、円谷が笑えばボタンも笑い返す様に目を細める。鬣に指を添えて感触を確かめれば、少しも引っ掛かる事なくサラサラとしたボタンの毛が指の間を通り過ぎていった。
1950年11月23日。阪神競馬場、第8レース「阪神3歳ステークス」は惜しくも曇り空に迎えられながら馬場入りが始まる事となった。中山記念(春)や京都記念(春)に次ぎ、セントライト記念と同額の大きなレースともあって競馬場には沢山の観客が押し寄せ、己の夢に勝って欲しいという願いを賭ける。
1200メートルという短距離の舞台に集まった10頭の馬達がスタートラインに立つ。ゴールの前には円谷の他、友人でありボタンを競馬の世界へと誘った張本人である高垣芳司、円谷の妻であるミツ子に、子供の珠子と蓮之介がいた。円谷家の大集合ともあれば、無様な姿は見せられないと騎手である小金井近江は深呼吸をした後、強く手綱を握る。
発馬機が上がり、10頭の馬が一斉に走り出す。
「只今スタート致しました。短距離のレース、各馬が一斉にスピードを上げます。まず、飛び出したのはピークスプリングであります。その次にメーゼフルス。1馬身程空いて、アセビボタン」
たった6ハロンしかないレース、普段より早口なアナウンサーの声と、どんどんと変わっていく隊列。
小金井は、自身の周りへと気配を集中させ他のレースならまだ動かないタイミングながら、ボタンに指示を出しスピードを上げさせる。ボタンは他馬を苦手としていて、このまま内埒に沿って走ってしまえば、直ぐに囲まれて走りが鈍ってしまう。
ボタンは小金井からの合図を受け、スピードを上げる。囲まれる前に、先頭を走っていたピークスプリングと並ぶ。青みを帯びたピークスプリングと、ただ純粋に真っ黒なボタンが並ぶ。
「残り600メートルであります。アセビボタンは早くも先頭に立ちました。そのままピークスプリングを離します。ピークスプリング、メーゼフルスが2番手争い。その直ぐ後ろ、トレースロワもやって参ります」
残り600メートル。レースの半分が終わり、後半戦へと入る。スプリント戦で残り1分もない距離ではあるが、それだけの距離があれば大きなレースに出走する程の実力のある馬ならば覆せる距離。だからこそ、小金井は鞭を入れ、ボタンの意識が緩まない様に、馬群に囲まれボタンが苦しくならない様に合図を送り続ける。
ボタンは単独でコーナーを回り、独走と言える状態に入る。しかし、最終直線に入り後ろの馬達も更にスピードを上げる。
それでも、後ろから迫る人馬にも、ボタンよりも力が強いであろう牡馬にさえ差を縮める事が出来ない。
「トレースロワがアセビボタンへ迫ります。その後ろにイヴァイトレであります。しかし、アセビボタンは軽やかな足取りでものともせずに進みます」
完璧な足取り、鈍る事ない強さ。ボタンはこれまでのレースと変わらずに、圧倒的な実力でゴール板の前を駆け抜ける。小金井は、鞍上であるからこそ分かるボタンの能力を感じながら、来年、4歳となったボタンが櫻花賞や皐月賞から始まるクラシックレースでも素晴らしいパフォーマンスをしてくれるだろうと期待し、その首筋を叩く。この馬にはきっと、距離なんて障害は関係ない。
ボタンはゆっくりと歩きながら機嫌が良さそうに首を動かして、最愛の人間を探す素振りを見せる。小金井が笑ってボタンの視線を誘導すれば、円谷の姿を見つけたのか走り出し、自然と立ち止まる。
一見すると見目の悪いボタンだが、見た目ではなく強さになら心惹かれる人間もいる。ボタンが立ち止まった場所の近くからは、ポツリと今回見せた強さを祝福する言葉が聞こえてきた。
「おめでとう、アセビさん」
柔らかな円谷の声と、円谷を真似して祝福の言葉を続ける珠子と蓮之介の声。ミツ子は、ボタンの走りをはっきりと見たのが初めてだったのか、驚いたまま何も言わなかった。
ボタンの尻尾が揺れる。人間が褒められて笑顔になる様に、ボタンもまた目を細める。一緒に同じ時間を過ごしていたからこそ円谷達にはそうしたのだと、よく分かる。
「アセビさん。あなたの美しさを、これからも沢山の人に見せていこう」
記念撮影の際、円谷がボタンにギリギリ聞こえる程の声で言う。ボタンは、その言葉に応えようとしたのか自身の顔を横に向け、円谷の身体にグイッと押し付けた。