幻の夢を追いかける華 作:日振
2003年、12月27日。クリスマスが終わり、世の中が本格的に年越しへと向けて動き始めた土曜日、中山競馬場で行われる予定だったJ・GI「中山大障害」は、天候の悪化を理由に中止される事が発表され、年明け10日に振り返られる事となった。
レースに出走する予定だったアセビロードもまた、他の馬と同様にリズムが崩されながらも本番までに作られた少しの猶予の間、何事もなく過ごせる様にという方向へ意識が変わっていた。
厩舎の中から意地悪をするが如く崩れた空を見上げながら、厩務員はロードの不器用に編まれた鬣を解していく。
「全く、参っちまうよなぁ」
人間の事、レースの事、様々な意味を込めて厩務員は語り掛けるが、相手となるロードは相変わらずのんびりと何も気にしていない様だった。
年が変わり、2004年の1月10日。中山競馬場第10R、J・GI「中山大障害」は、前回とは打って変わり晴天と良馬場に迎えられながら開催された。
騎手である安曇直幸が自身の頬を叩き、よしっと気合いを入れる。厩務員の手を借り、ロードの背中へ上がると尻尾の方をトントンと叩く。
出走馬はロードを含め14頭。そして1、2、3番人気に推されていたのは障害レースに勝負の舞台を変えてからは更なる強さと、安定した成績を記録している馬達で、最近では成績を落とし始めているロードとは正反対の状態だった。
「じゃあ、宜しく!」
「はい! 全力を尽くします!」
厩務員に背中を押され、ロードと安曇はゲートまでの距離を軽い脚取りで芝を走って行く。こんなにも伸び伸び身体を動かせるのにも関わらず、勝負の世界では劣り始めている。
年齢を考えたら、ロードが得意とする圧倒的な追込みの戦法を辞めた方が良いのかと考えた事もあるが、ロードが自分らしく走れる方法は変えない方が良いとこのままどこまでも貫いていこうと話が付いた。
「今日も頑張ろう」
ゲートの中。安曇が呟く。
瞬間、目の前が開き、競走馬達は一斉にゲートから飛び出す。ロードと安曇が選ぶのは、最後方。13番目の馬と騎手からも離れた位置。
先頭はチアズシャイニング、ビッグテースト、ブランディスの3頭が並ぶが、コーナーを回り、正面スタンド前の障害を越える頃にはブランディスが先頭を奪い進んで行く。ロードはある程度固まった隊列から離れ、障害物もコーナーも深い坂も全て遅れてクリアしていく。
「落ち着いていこう」
安曇はロードを落ち着かせる様な言葉を口にするが、ロードの性格上、掛かったりなどはした事がなく意味のない言葉であった。
複数回の坂を下り、上り、襷コース。設置された一番の難関である大障害を13頭の馬が全馬クリアし、遅れてロードもクリアする。遠くで中継を見ていた競馬ファンか、関係者か、それとも厩務員か、人間が美しいものを見た時に自然と溢れる簡単の声が響く。
アセビロードという馬は、誰よりも、何よりも、飛越の瞬間が美しかった。それは、障害レースを知らない人間からも目を奪う程のもので、ロードが持つ最高で最強の強さだった。
レースの後半戦に入り、隊列は徐々に縦長へとなっていく。先頭には殆ど後続に譲る事なくブランディスが立ち、レースを引っ張っていく。
ロードもまた、ゴールへ向かってゆっくりとスピードを上げるが、それでも未だ最後方に位置取りとなっていた。
「大丈夫ッ!」
前を走っていたユウフヨウホウが、2度目の大障害で落馬し、ゆっくりと空馬の状態で歩き出す。安曇は手綱を動かし、ユウフヨウホウからロードを離すと鞭を入れてロードの意識をレースへ戻す。スピードを上げ、漸く前を走るメンバーに追い付く。
4100メートルの長丁場、6度目の坂を越え、安曇は鞭を入れる。ロードはスピードを絶えず上げ続けるが、先頭のブランディスには届きそうもなかった。
「頑張れ、ロード!」
安曇は言葉と身体、全てでロードを鼓舞するが、努力はあと一歩、二歩、届かずにブランディスは2馬身以上の差を広げ、得意の中山でまたしても勝ち星を挙げる。
アセビロードは大きく開かれた着差の中、10着でレースを終える。
「お疲れさん」
レース前同様、尻尾の辺りを叩く安曇と、のんびりと歩き始めるロード。
平地のレースと比べ、年齢層が高い障害レース。その中でも特に高齢とされる一頭であるロードは、勝てなかったものの、無事に走り切れた事実に安曇は安心し、その身体を労う。
厩務員達が待つ場所へロード達が戻り、安曇が馬上から降りた瞬間、厩務員はその顔を全力で撫で回す。
「今日もよくやったわ! 帰ったら林檎でも人参でも角砂糖でも、ご褒美貰おうな!」
厩務員の言葉に、ロードは嬉しそうに尻尾を揺らすのんびり屋で、置き物と称される程に動きの少ないロードが唯一と言って良い感情の昂りを見せるのが、誰かに褒められている時だった。
「去年分の中山大障害が終わって、今年はどう進んでいくか分からないけど、怪我なくやっていこうぜ」
安曇がロードの額を撫でながら言うが、ロードが反応らしい反応を見せる事はない。
これがご褒美に意識が持っていかれているのか、元来ののんびり屋の性質なのかは安曇には判断しかねる具合だった。