幻の夢を追いかける華 作:日振
2018年、3月14日。船橋競馬場ではナイター競馬として第63回JpnII「ダイオライト記念」の開催日に指定されていた。タイミングの都合で世の中がホワイトデーに浮き立つ中、船橋競馬場もしくはインターネットを通した画面の向こうではホワイトデーとはまた違った熱狂と、注目が今か今かとその時を待ち望んでいた。
天候、晴。馬場状態、稍重。施工距離2400メートルという長丁場のレースには、中央競馬であるJRAからは3頭、NARからは7頭の競走馬がゼッケンを付け姿を表す。JRA所属馬への注目の他、一部から大きな注目を向けられていたのが佐賀競馬所属の「トゥカーナェ」という名前の牝馬。
トゥカーナェは今回のダイオライト記念唯一の牝馬である事や、佐賀三冠を始め前走のJpnIII「佐賀記念」を制した実力が評価されたのか、4番人気と地方競馬所属の馬の中で1番の人気となっていた。
「頑張ろうね、トゥカーナェ!」
トゥカーナェの主戦騎手である女性騎手、伊波実幸が普段と変わらない快活な笑顔を浮かべる。トレードマークとなっているコバルトブルーのメンコに隠された可愛らしいその顔を撫で、トゥカーナェと心を交わしてからその背中に跨る。
自分達以外の競走馬が全て牡馬、セン馬とある意味でアウェーな状況ながらトゥカーナェは動じる事なく、パドックを歩いていく。佐賀や厩舎スタッフからお洒落なお嬢さんと言われ、大切に手入れされた鬣や尻尾、馬体が電灯に照らされながらキラキラと光る。トゥカーナェを知らないであろう人々ですら目を奪われている様で、馬上の伊波は内心で「そうだろう」と自分ごとに胸を張る。
カパカパと足音を鳴らしパドックを周回した後、合図のままにダートコースへと移動する。稍重の地面を確かめながらゲートの方へゆっくりと進路を向ける。
「やるよ、トゥカーナェ」
首筋に手を添えながらゲートの中で珍しく伊波が真面目な口調で言う。普段は年頃らしい元気で明るい女性である伊波は、スタート前の一瞬と、レース中だけは真面目な顔をする。だからこそ、トゥカーナェも伊波の雰囲気からスイッチを切り替えて、甘えん坊なトゥカーナェから競走馬のトゥカーナェとして目の前が開かれるのをジッと待つ。
全ての馬が枠入りを終わらせる。暴れる馬はなく、緊張感はありながらもストレスはない状態で始まりへと意識を集中させる。
ガコンと音を立てながらゲートが開く。
スタートダッシュは完璧に出来た。
向こう正面2コーナー付近からスタートするダイオライト記念は開始直後からJRA所属馬であるカーテタプファーとムィヤスクラヴィが並ぶ様な状態で飛び出し、アパロォステイトが追う形で4着以下を大きく引き離し、4コーナーを通過する頃には縦長の隊列へと変わっていた。
カーテタプファーとムィヤスクラヴィ、既に2頭の一騎打ちといった様子でありながら、それを壊す様に、認めないと言わんばかりにコバルトブルーの影が隣にあった。
「佐賀所属のトゥカーナェ! ここでカーテタプファーとムィヤスクラヴィの競り合いに並びます!」
牝馬として、一番軽い斤量となったお陰かスイスイと足取り軽く進み、トゥカーナェは先頭を走る2頭へと追い付いた。しかし、いくら斤量有利とは言え高い壁である中央の馬と同じペースで走るなど無理だと、牝馬ならば尚更だとトゥカーナェの走りは暴走の一言で片付けられる。
トゥカーナェと伊波が取った一手にやっちまえと声を上げるファンもいるが、それはそれとして勝つ事は無理であるとも思われていた。
コーナーを回り、2週目に入る。10頭の集団は更に縦長のものと変わり、残り1000メートルを切るとアパロォステイトが少しずつスピードを上げ、先頭を走るトゥカーナェ達へと並ぶ。
中央所属の競走馬、斤量有利で付いていけるトゥカーナェ。4頭が鎬を削る後ろ、プフェデグレーセから連なる後続馬達は残酷な程に差が開いていた。
「頑張れ、トゥカーナェ!」
誰かに笑われるかもしれないという不安など気にせず、伊波は今日も声を上げる。どうにも出来ない身体的な差で息も絶え絶えになりながら、必死に声帯を振るわせる。
ムィヤスクラヴィが一歩、二歩と少しずつ前から遅れ始め、最終直線に入るとカーテタプファーが単独で前に出る。
「なんとなんとトゥカーナェ、その足取りが全く鈍らない! カーテタプファーに並んでいる! 最後は中央と地方の一騎打ちの展開となりました!」
実況でさえ想像も付かなかった展開に、応援しているファンが前のめりになる。残り100メートル、カーテタプファーへ先頭を譲らない粘り強さは斤量差では片付けられない、トゥカーナェの実力そのもので。牡馬の持つ力強さ、迫力へ臆せずに力強く砂を巻き上げる。
「トゥカーナェ! カーテタプファー! 並んで……いや、トゥカーナェが一歩前に出たか!?」
ムィヤスクラヴィ、アパロォステイトも差を縮めているが、トゥカーナェは最後の最後に誰よりも強い闘争心を見せた。
コバルトブルーのメンコ、頬の部分に縫い付けられた赤い花飾りが夜のコースに降り注ぐ強い光に照らされる。
「頑張れ……頑、張れ……トゥカーナェ!」
最後の一歩まで気を抜かせず目の前の勝利を掴みたい、掴ませたいと伊波は声を出し、トゥカーナェもまた伊波の言葉に応える様にコンマ何秒で決着する世界で最後まで走り続けた。
ゴール板、首の上げ下げによる鼻先の差。伊波は荒い息を隠しもせず、時々咳き込みながらも徐々にスピードを緩めるトゥカーナェの首筋を優しく撫でる。
最後、トゥカーナェがカーテタプファーよりも前に出ていた気がする。けれど、その差は本当に僅かで伊波が心の底から喜ぶには確定された結論を見るまでは不安の方が大きかった。
コース内に設置された巨大なモニターの下から順に着順の数字が表示される。4着、7番。3着、2着と続き、少し間を置いてから2着、1着が表示される。
2着、1番。1着、10番。トゥカーナェが着用しているゼッケン番号は10と印刷されていた。
「や、やった……! やったよ、トゥカーナェ!」
レース結果を認識した瞬間、伊波が口元に手をやりながら馬上で目を見開く。溢れそうになる喜びをジッと耐えながら、伊波はトゥカーナェの首筋に抱き着きながら、乱雑にも見える動きでゴシャゴシャと両腕を絶え間なく動かす。
トゥカーナェ自身も伊波から誉められている事を理解して嬉しそうに首を振りながら、しきりに伊波の方へと顔を向ける。
やったやったと1人と一頭で喜びながらゆっくりとゴール板前まで戻り、他のライバル達が一足先に戻った真っ新な砂の上で立ち止まり、ピースサインを掲げればわっと歓声が上がる。
ゴーグルを下げた伊波にはレース前と同じ快活な表情が浮かんでおり、トゥカーナェもまた満足げな表情をしている。
「今の気分は!」
興奮した声で問われ、伊波は考える間もなく口を開く。
「最高! トゥカーナェ、本当に凄い子です!」
改めてガッツポーズをする伊波を見上げながら、迎えに来た厩務員もまた釣られて笑う。
トゥカーナェと伊波実幸、1956年から始まり長い歴史のあるダイオライト記念に佐賀競馬所属の牝馬と佐賀競馬所属の女性騎手の記録が、初めて刻み込まれた。