幻の夢を追いかける華 作:日振
東京競馬場で行われる芝2000メートルの東京優駿、所謂日本ダービーのトライアルレースとして機能している「NHK盃」が目前に迫ったとある日、馬房の中へと身体を滑り込ませた男が一頭の牡馬に鞍を付けながら、煙草の煙を口から漏らす。
「アンタよ、本当にやれんのか?」
馬はデビューから連戦連勝を記録し、未来へ期待が持てる、もしやを想像させる走りをしたが、皐月賞・ダービー・菊花賞を本格的に視野に入れた年齢になってからは、ほんの少し成績が落ち込んでいた。
やるだけやるしかないとは理解しているが、スタートが良かった手前心配になってしまう。
「まーまー、気楽にいくしかないよなァ」
煙がまた一つ吐き出される。馬は至近距離のその匂いが嫌だったのか、頭を振って身体の向きを変えてしまう。
男は悪かったと口にしながら馬房の外へと煙草を投げ捨てると、馬の身体を何度か叩く。
「もうねェよ。ほら、な? これから調教なんだ、機嫌悪くしないでくれや」
時折、遠くから馬の鳴き声が聞こえる中で男が言えば、馬は仕方ないとばかりに身体の向きをゆったりとした動きで戻す。
有難う、有難うと男が笑いながらその鬣を撫で付ければまたしても鬱陶しそうに頭を振る。
「全くよ、どこまでも手厳しいヤツだなお前は」
馬の拒絶的な態度にも、男は屈する事も気にする事もなく豪快に笑う。
出会ってからまだ数年と言えど、このつっけんどんとした馬、アセビスズナの態度に男はもう慣れっこだった。
1959年5月5日。10レース目に行われた第7回NHK盃は、1番人気の馬がレコードを記録する走りで決着した。上位入着は人気の馬が占めているが、2着には12番人気の馬が名を刻み、反対には2番人気の馬が下位に沈んだりとちょっとした番狂わせも起こっていた。
アセビスズナを担当する男は、厩務員という立場ではあるが敵情視察のつもりでレースを観戦しており、観客と同様に声を上げる。
「こりゃあ、本番は今年も楽しみだなァ」
この内の何頭がダービーへと出走するかは分からない。しかし、20頭を超える馬が集まるあの大舞台にこのまま駒を進める馬も多くいる。
「スズは勝てるかねぇ……いや、勝てるって信じなきゃだなァ」
男は新しい煙草へと火を付ける。匂いが苦手だと言う妻や、臭い臭いと逃げていく娘息子にスズナの存在。
手に持つ白く細いそれを辞めようかとも考えた事は何度もあるが、男の嗜みとして未だ辞める算段は付けられていない。
大きく吸って、ジリジリと葉が燃える。口の中に広がる独特の感覚を楽しみながら、文句を言われる煙を吐き出す。
「……せめて、あの坊ちゃんが元気で走れる状態でいかせねぇとな」
その為にスズナがストレスに感じる要素はなくそう。
「うっし、前言撤回!」
嗜みなんて知るものか。
男は、丁度良く短くなった煙草を靴底で地面に押し付けると、その勢いのまま箱の中に沢山残った煙草をグシャリと握り潰した。
NHK盃を終えてから本番となる日本ダービーまでの約20日の間。男はこれまでのヘビースモーカー手前の生活から煙を抜いた事による禁断症状と戦った。時には自分ではどうしようもない苛つきを妻へと向けてしまったが、妻は逞しい心根でもって逆に男の好きな筑前煮を口の中へと放り込んできた。
スズナは世の中のダービーに浮き足立つ気配を感じ取ったのか、日に日に何かへと集中する様になり、調教に対してもこれまで以上のやる気を見せた。
「馬は馬なりに、身体を作ってるのかねェ」
無意識にポケットへ手を添えながら男が言えば、スズナは相変わらずそっぽを向く。ブラシから伝わる筋肉の感触は硬く、以前よりずっとがっしりとしていた。
そして、手入れをする男が一時的とは言え煙草を辞めているからか、これまでの強い匂いが薄くなりスズナは知らない人間が見たら気付かない程度の素直さを見せていた。
「スズ。本番は、もう少しだ」
人間が勝手に抱えている因縁とも言えるレース。スズナの母が不調になったきっかけのレース。
アセビスズナという馬は、そのレースの事を分かっていた。人間がダービーの事を話せば、ジッとその方向を見つめ、珍しく興味の片鱗を見せる。それ故に、スズナと関わる人間達はダービーの舞台へ連れて行こうと決めた。
「あとは、しっかり寝て、しっかり食う」
男は餌の入った桶を手早く用意するとスズナの側に置く。モシャモシャと桶の中に顔を寄せ口を動かすスズナの隣にしゃがみ込み、その鬣を撫で付ける。その力加減は強く、子供のおむつを交換しようとした時に脚を折るつもりかと三行半を叩き付けらる程不器用ではあるが、有難い事に馬のスズナにとっては関係のない話だった。
「頑張るぞ、スズ」
全てのポケットを無意識に弄り、煙草の代わりに見つけたボンタンアメを口にしながら子や妻へと同じ甘さを含んだ声で男は言う。スズナは返事をする事も、目線を男に向ける事はなかった。
相変わらずだなぁと、一転、大きな笑い声が響き渡った。