幻の夢を追いかける華 作:日振
2006年、古馬となった牝馬の目標レースとなる様に創設されたGIレース。勝利の女神からタイトルが付けられた「ヴィクトリアマイル」は、様々な物語と熱狂を生み、東京競馬場、インターネットを使った配信、レースのリプレイ動画と観客の心を奪っていった。
2026年、今年もまた新たな記録が歴史の中に刻まれた日の夕方。とある場所で虫除けの為に馬着を着た一頭の牝馬が放牧地から収牧の時間となり、迎えに来た男が曳き綱を取り付けると仕切りを外す。30歳という馬にとっては大きな節目を迎えてはいるものの、その足取りはしっかりとしていて、これからどんどんと気温が上がる季節を前にしても食欲が落ちている様子もない。
「はい、今日もお疲れ様」
男が脱がした馬着は無地の生地ではあるものの、ひらがなのワッペンで名前がアイロン付けされ、その隣には不器用に花の刺繍のアレンジが施されていた。
馬着を脱ぎ、晒された白い身体。驚かない様に、ゆっくりとシャワーを浴びせていく。気持ち良さそうに目を細める様子を男は笑いながら見つめると、蹄に詰まった土を取り除き、ジャンプーで汚れを落とし、尻尾をブラシで梳かして鋏で切り揃える。
「お姉さん、どうです?」
タオルで顔を拭きながら、男が言えば頷く様に顔を上下に振られる。牧場に転職してから暫く、この牧場にいる動物達は総じて人間の言葉を理解していそうな反応をする子が多いなと男は思う。
シャワーで身体に残る泡を落とし、水をきる。残る水分をタオルで拭き取れば馬体がキラキラと光を反射する。
高齢となり、アスリートとして走っていた昔と比べると筋肉自体は落ちてきている様に感じられるが、それでもリードホースとして日夜仔馬達と放牧地を歩き、走り回っているからか、生命力自体は未だ輝きを失ってはいなかった。
「ほい、終わり」
曳き綱を手に持ち、男が洗い場から歩き始めれば、馬の方も反抗する事なくゆっくりと歩き始める。
夕方の陽に照らされて、普段とは違う雰囲気にまた目を奪われる。親馬鹿というか、惚れた結果というべきか、男はポケットから取り出した携帯でカシャカシャと音を立てると、満足そうにまた笑う。
「今日も綺麗だね、お姉さん」
プロポーズじみた言葉を口にすれば、いななく声で返される。自意識過剰なプラス思考で男が返事をしてくれたと喜べば、今度は呆れが混じったかの様な小さないななきが響き渡った。
男は競馬場にいた。隣や後ろ、はたまた建物の中には数え切れない程の人がいて、皆が目の前のターフを見つめて歓声を上げる。中には明日明後日の事など気にしていない勢いのある応援も聞こえてきた。
向こう正面、恐らく18頭の馬達が走っている。先頭は茶色の馬で、2番手、3番手、4番手の位置に芦毛の馬がいた。
あぁ、あの子と同じ色だなぁと、男は思う。白毛程純白ではない、けれど、栗毛や鹿毛などと比べたら一目瞭然な白さ。
白い馬が、同じ色を持つ馬が懸命に走っている。男は、無意識に頑張れと口にしていた。馬名は分からない。でも、応援したかった。
サラブレッドの集団が3コーナー、4コーナーを通過して、最終直線へと入る。既に五月蝿い程盛り上がっていた声は更に大きくなる。どこからか、怒号に似た声もあったかもしれない。
「あ!……え?」
白い馬を応援しようと男が再び口を開こうとした瞬間、気付く。先程までは遠くて分からなかったけれど、最終直線に入り、モニターにも大きく映される様になって気になっていたその芦毛の馬は、男の唯一としている推し、大好きな牝馬アセビツバキと全く同じだった。黒と薄紫、2色のシンプルデザインの勝負服を着用した騎手が促して、ツバキは徐々に前と差を詰める。
「え、あ、は……?」
脳内が疑問符に覆い埋め尽くされる。何故だ、とか、どうして、とか色んな感情に支配されて何も考えられなくなる。
だが、困惑を全て振り切って男は声を上げる。
「頑張れーッ! ツバキ、頑張れーッ!」
やっと言えた言葉。
男がアセビツバキを知った時、年齢的にもタイミング的にもこうして応援の言葉を叫ぶなんて出来なかった。それが今、どうしてか応援出来る。目の前でツバキが走っている。
残り50メートル。ツバキがその他の馬を振り切って、先頭に立つ。
男が思い出すのはたった一つのGIタイトルであるフランスのマイル戦、ジャック・ル・マロワ賞に勝った時の走り方。
あの子が、勝つ瞬間をこの場所で、この目で見れる。
「ツ!」
パチリ。と、目が開く。
あれ、と先程までの興奮が突如として冷めていく。目の前で繰り広げられていた筈の熱狂は失われている。それなのに、心臓はやけにバクバクと動いていた。
けたたましく鼓膜を揺らすこの音はなんだと顔を左右に振って、手の中の四角く薄い板の所為かと知る。
音を切り、ロックを解除すれば再生の終わった動画の画面が表示される。タイトルには、「ヴィクトリアマイル」の文字。
「……はぁ、なるほどねー。すげーキモいじゃん」
レース映像を確認している途中に寝落ち。ここまではありきたりな話だ。しかし、その後に「アセビツバキがヴィクトリアマイルで優勝する世界の夢」を見るなんて、深層心理の力が強過ぎると鼻で笑う。
「確かに距離的にも良い感じだけどさぁ」
男は乱雑に頭を掻く。ヴィクトリアマイルは2006年創設に対し、アセビツバキの引退は2004年。
正に「夢」でしかない先程までの映像に男はもう一度ベッドへと倒れ込む。
「いや、せめて、こう走った事あるレースのもしもとかさぁ」
存在すらしなかったレースを走らせるとか、オタク過ぎぃ。
ベッドの上を何度か転がった後、男は微妙な顔をしながらのっそりと起き上がった。