幻の夢を追いかける華 作:日振
1951年6月3日、最も運のある馬が決定した。華々しい勝利、そして、栄誉を得た馬主とサラブレッドは更なる注目を集めたものの、レース終了後17日という短い時間で幻へと変わっていった。
数多くの人々が無情にも与えられる現実に顔を曇らせ、夢かもしれないと目を逸らす。
しかし、覆せないその事実は何年も先の未来であっても語られるニュースだった。
「大丈夫か?」
とある馬房の前で男が黒い毛色を持つ馬の額に触れる。その馬は東京優駿競走、日本ダービーで2着となった記録を持ち、競走前に幻と触れ合っていた。
珍しかったその行動に、黒い馬の関係者は緊張の最中に「もしや」と心を驚かせそうになったものだが、現実の手前口をつぐんだ。
「ごめんな。最近、巽君は体調を壊している様で」
男、黒い馬の馬主である円谷巽と親友とも言える高垣芳司は馬が言葉を理解し、人間と同じ様にコミュニケーションが出来るかなど分からないなりに謝罪の言葉を口にする。
黒い馬と馬主である円谷は正に相思相愛。誰が見ても強い絆が結ばれているのだと笑う程に仲が良く、異種同士でありながらも唯一自信満々にコミュニケーションが取れていると言える繋がりがあった。
今もこうして、高垣が円谷の現状に悲しそうな鳴き声を上げる。子供が親を心配する時と同じ悲痛さを持ったその声に、高垣もまた釣られて眉を下げる。
「大丈夫。また、良くなるから」
目の下に手を添えて、額を合わせる。優しく言い聞かせる様に飛び出した言葉には、高垣の願いも込められていた。
ダービーから半年近い時間が経ち、目前にはクラシック競争の一つであり、出走予定となっている「優駿牝馬」が迫っていた。馬主の円谷が来ない寂しさはあれど調教はいつも通り、何かによって気落ちや能力が落ちるという事はなさそうだった。
「次のレース、巽君も是非来たいと話していてね。ワタシ達も頑張るから、ボタンも頑張ろうな」
高垣が笑って再び額を撫でれば、黒い馬、アセビボタンはまたしても言葉を理解する様に首を振る。
アセビボタンは円谷の要望ともあって他の馬と比較したら全くと言える程レースへの出走数が少なかった。それでも、ダービーの2着を除き連戦連勝。ダービーも僅差かつ、あの幻の馬と肩を並べたパフォーマンスを見せたとあって、世間からは注目され始めていた。
ボタンは最初、期待なんてされていない馬だった。真っ黒で小さくて、愛嬌や迫力が伝わらなかったから。だが、今はもうその時とは違い、次のレースで優勝すればきっと、万来の拍手でもって迎えられるだろう。
「何より怪我せずに、やっていこう」
高垣の言葉に、ボタンは首を振る。
円谷程ではないが、高垣もまたボタンから好かれる人間の1人だった。
1951年11月18日。東京競馬場に集まったのは、アセビボタンを含めた全8頭の牝馬達。天候は晴れ、馬場状態も良となった今日は、また新しい歴史が生まれるのに相応しい状態となっていた。
鞍を付けたボタンはアクシデントと呼べるものが起こる事はなく、無事に本番を迎えられていた。けれど、やはりと言うべきか馬主である円谷は夏の暑さによる体調不良を長引かせ、競馬場へと来る事は叶わなかった。
ギリギリまで来ようと足掻き、遂には更に悪くなったらどうするのだと医師と高垣、家族総出で足止めした円谷の代わりに、今日は珍しくも妻のミツ子がやって来ていた。
「アセビさん? どうか、無理なくね」
円谷の影響か、もしくはなんと呼べば良いのか分からないのか、ボタンをアセビさんと呼ぶミツ子の手は優しく、けれど少しの不器用さがあった。
ボタンは女性らしい柔らかな手のひらへ、まるで返事をする様にその頬を擦り寄せる。
あぁ、本当に。
これまではあまり実感らしい実感を持っていなかったミツ子は、ボタンの行動に対し円谷の言葉を思い出していた。
東京競馬場、優駿牝馬。2400メートルで行われるレースは、スタートこそ少しバラついたもののその他と変わりない、手に汗握る勝負を繰り広げていた。
アセビボタンは先頭から3番手、スタートも良く、前の方で位置取るこれまでと同じ作戦で進み、正に完璧なレース運びと言える。
「アセビボタンは軽い足取りでスゥーッと先頭3番手であります」
実況もボタンの名前を呼び、期待する。そしてまた、観客達も同じ気持ちを持っている。
ダービーで2着になったその実力をまた。
幻の意思を継いで、これからもまた連戦連勝を。
様々な期待と、思いを無尽蔵に向けられて騎手である小金井近江は心臓が破けそうだった。でも、それは人間が勝手に感じている事で、ボタンには関係ない。彼女の走りを邪魔してはいけない。
最終コーナーを回り、直線に入る。小金井はボタンの へと鞭を一発入れ、合図を送る。小金井にとって最高の仕掛け所、かつ、ボタンにとっても最高の仕掛け所。
完璧な位置取り、完璧なレース運び、人馬一体として完璧な走り。
「ここでアセビボタン、アセビボタンであります。グングンとスピードを上げて参ります」
実況も、ボタンの走りを捉える。観客が一層の注目を向ける。
残り200メートルを切る。ボタンの脚はまだ健在だった。
「アセビボタン、遂に先頭へ……出ません。まさかのアセビボタンはどんどん失速していきます。これはどういう事でしょうか」
ボタンの脚が止まる。いや、本当に止まった訳ではない。それなのに、スピードが落ちていく。
怪我か。いや、怪我ではない。
苦しいのか。いや、苦しさもない。
小金井はもう一度鞭を入れる。ボタンも走る事への意欲を失っていない。絶えず脚を動かし続けている。
それなのに、スピードは落ちていくばかりだった。
「もしかしたら、私だったから嫌だったのかもしれませんね」
ミツ子は御免なさいねと眉を下げながら微笑む。そんな事はないとボタンは言いたげにその額をミツ子の胸へと寄せるが、優しい手付きで撫でられるだけだった。
アセビボタンは8着という大敗だった。20頭以上が出走するダービーだったらまずますと言える着順ではあるが、8頭しか出走していない優駿牝馬で考えたら最下位という結果であった。
レース後、改めて馬体に問題ないか入念なチェックを行ったが、ボタンは健康そのものだった。本当に、ただただ本領が発揮出来なかった結果だった。
高垣と小金井がボタンの首筋を撫でながら次はリベンジだなと笑う。期待はされていた手前申し訳ないが、ボタンにはまだ次がある。まだ、走れるのだ。
頑張ろうと声を掛けられ、ボタンもまた自信を表す様に首を振る。
アセビボタンは、大丈夫に見えた。