幻の夢を追いかける華 作:日振
舗装された道の上、小さく息を吐きながら伊波実幸は走る。騎手として活動する上での体力を維持する為に行うランニングは暑い日も、寒い日も、酷い悪天候の日を除いて続けてきた。
立ち止まり、ボディバッグからタオルを取り出し汗を拭く。深呼吸をすれば、頭の中に色々な事が頭に浮かぶ。
目前に迫ったレースへ出走する為に、伊波が騎乗する予定の競走馬は既に出発しており、伊波もまた昼には地元であるこの土地から出発する予定となっている。
「……よーし!」
パチンと頬を両手で叩く。全てのレースを同じ気持ちで迎えているが、大きなレースとなると一段と気持ちが乗ってしまう。キャリアで言うならばまだまだ下っ端ではあるものの、最高の相棒と出会い最高の舞台に立てる幸せを噛み締める。
伊波はバッグからドリンクボトルを取り出して一口飲み、また一歩、新たに踏み出す。
朝焼けに染まるまだ涼しさが残る空気の中、伊波の熱い呼吸が混じる。女性として周りの騎手よりも斤量について悩む事は少ないが、それでも定められた上限の中で鍛えられたしなやかな筋肉には、伊波の努力が詰まっていた。
見慣れない風景に酔ってしまいそうになる人混み、海外旅行でもないのに何度もチェックしパッキングしたキャリーケースを転がし、伊波は東京を歩く。家族や世話になっている厩舎の面々から顔を合わせる度に土産を求められ、レースに必要なのはたった1日だけなのに何日も旅行する様なキャリーケースは重く、伊波は早々に間違えたなぁと内心で自分自身に苦言を呈す。
ひいこらひいこら、無駄に体力を消費しながら荷物を預けて漸く身体を伸ばす。
「全く都会の人は凄いなぁ」
独り言をしながら携帯を取り出し、何もない所で自撮りをする。分かり易くお上りさんといった様子だが、伊波は特に気にする事なく保存されたデータを家族で使用しているメッセージアプリに送る。
直ぐに気を付けてや、改めての土産の催促に笑いながら画面を切り替え、目的地までのルートを確認する。
「調整ルームに向かうまでは全力で楽しむからね!」
伊波の持つ形態の画面にはビッシリと土産物屋や観光地のリストが記載されていた。
2020年6月24日。大井競馬場、第11R。ダート2000メートルJpnI「帝王賞」は曇り空の下、馬場状態は重という発表となった。
強いライトに照らされながら、美しい海の色を宿したメンコを着用したトゥカーナェが歩く。美しいレースが重ねられ、額に王冠のワッペンが付けられたそれに見合ったやる気を見せるトゥカーナェに跨り、伊波はその首筋を優しく叩く。
「今日も頑張ろう。生駒さんに大きな花丸を届けるよ」
トゥカーナェの馬主である生駒道彦は直前まで体調を崩していたという事もあり、大事を取って今回の遠征は控えていた。
だからこそ、一層の力が入る。
「生駒さんからはいつも通り勝ち負けについては言われてないが」
「勝ちたいです!」
「そうだな。俺もだ」
普段のジャージ姿から変わり、しっかりとしたスーツを着た調教師が向けてきた拳に伊波もまた自身の拳をぶつける。
「……この大舞台、伊波実幸とトゥカーナェが預かります。お任せ下さい!」
「おう。任せるぞ!」
ファンファーレが鳴り、トゥカーナェと伊波がゲートの中へ入る。
1人と一頭の横には、牡馬と男性騎手しかいない。どうしても埋められない差が存在する。
しかし、だからと言って勝てない訳ではない。
「やるよ、トゥカーナェ」
ゲートが開く。
勢い良く、いや、良過ぎる程のスタートを切ったトゥカーナェは先頭に立つ。意図せず「逃げ」の状態になってしまい、一瞬後ろに下げようかと思うが、今日のトゥカーナェの状態とやる気を信じて手綱を引く手を緩める。
大丈夫。私の相棒は強い。
伊波は力強い目でただただ前を見つめた。
「佐賀所属のトゥカーナェ! 後続を引き離して逃げる逃げる! 2000メートルの一人旅!」
1978年に始まった帝王賞は近年、中央競馬に所属する馬が勝ち続けていた。地方所属の馬が優勝した実績は10年前まで遡る。そして、トゥカーナェと同じ牝馬に限定するならば17年前で勝利記録は止まっている。
「残り1000メートル! 先頭は未だにトゥカーナェ! 佐賀競馬所属の牝馬が帝王賞の歴史に名を刻めるか!」
トゥカーナェは淡々と先頭を走る。暴れる事も、怯える事も、掛かる事もなく、ただ淡々と自由に走り続ける。
特徴的で鮮やかな色のメンコに沢山の視線が集まる。中央所属の馬が強さを見せる事の多いレースにおいて、地方所属の馬、更にはメスのサラブレッドが「勝つかもしれない」という期待に胸を膨らませる。
「頑張るよ、トゥカーナェ!」
珍しく伊波がトゥカーナェに軽く鞭を入れれば、トゥカーナェは応える様にスピードを上げる。最終コーナー手前、無謀にも見える位置からのラストスパート。
後ろには沢山の実績を積み重ねているライバル達。
「トゥカーナェが単独で第4コーナーを通過!
残りは約400メートルの直線です! しかし、直ぐ後ろからは14頭のサラブレッドが襲い掛かる!」
最終直線に入り会場のボルテージは更に上がり、聞き取れない声援が夜の空に響き渡る。
大きなリードは徐々に差が縮まり、トゥカーナェの影が踏まれる。
「まだ諦めない! トゥカーナェ!」
伊波が叫ぶ。トゥカーナェは、その言葉に対して走りで応えてくれる。
縮まった差が、分かり辛い程度にまた開く。調教施設、技術、中央と比べてもしかしたら劣っているかもしれない。だが、それでも、その土地で鍛えられた脚が、中央の馬を並ばせない。
2000メートルの最終地点、まだギリギリ耐えられる。
「頑張れ、頑張れ、トゥカーナェ!」
最後の一押し、伊波が口にすればトゥカーナェは耳を倒しながらグッと頭を下げる。
「トゥカーナェ! トゥカーナェ! 逃げ切った、トゥカーナェ! 今一着でゴールイン!!」
伊波はゴーグルを外す。震える身体でトゥカーナェの背中に腰を下ろし、荒く息をする。
軽く背中を叩かれ、おめでとうの言葉が降り注ぐ。呆然としたまま頭を下げれば、トゥカーナェの鹿毛とメンコのコントラストが見えて漸く呼吸の仕方を思い出す。
「……よっ……し!!!」
強く握った拳の後、伊波は改めて人目を気にせずに「やった」と空気を震わせる。
遠くから真っ白なシャツを着た厩務員が不器用そうに走って来る。
「デカい土産が出来た!」
「はい! トゥカーナェは、世界で一番強い子ですから!」
固く手を握り合いながら笑えば、トゥカーナェは可愛らしく舌を出した。