幻の夢を追いかける華   作:日振

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 行く末の話

 

 1969年、10月5日。日本のとある馬が海外のレースに挑戦した。レース名は「凱旋門賞」。未知の世界とも言える国外のレースを走った結果は、噂によれば大敗だったらしい。

 しかし、誰が何を言おうと日本が世界と戦う上で価値のある一手であったと思いたい。

 煙草を咥えた高垣芳司は頭の片隅で考えながら煙を吐く。鮮やかな青色に灰色が混ざる。

 

「ごめんくださいまし、円谷ですけれども」

 

 玄関の方から声が聞こえ、こっちだよと叫べばカラカラと下駄を鳴らし歩いて来る美しい着物姿。

 高垣は片手を上げ、酷くカジュアルな様子で招き入れれば、着物姿の女性もまた上品に笑いながら手にしていた風呂敷を高垣の隣に置く。

 

「うちの巽さんに是非にと頂いたのですけど、流石に食べ切れなくて。蓮之介や珠子はまだ苦手ですから」

 

 女性、円谷ミツ子が解いた風呂敷の中には旦那である円谷巽の好物であり、評判も良い老舗の漬物屋の名物があった。

 

「まだ、大人の味は分かりませんか」

「えぇ。もう少し、大きくなってからですね」

「そうですか。疲れたでしょう、どうぞ、少し寄っていって下さい。ワタシの方も、丁度美味しいお茶の葉を貰ったばかりです」

「ふふっ、それは楽しみですわ。お邪魔致します」

 

 高垣は縁側から立ち上がり漬物を手にすると、ミツ子もまた再び玄関へと回る。長年雇っている気の知れた家政婦に漬物を渡し、お茶の用意を頼めば客間で高垣はミツ子と向かい合って座る。

 艶のある座卓の上に置かれた温かなお茶と、先程の漬物が盛られた小鉢。湯呑みから立ち上る香りを楽しみながら、お茶を一口飲み込んだ後、感触の良い漬物を咀嚼する。

 

「相変わらず、この店の漬物は旨い。全く、随分と時間が経っているのにまだ縋ってしまう。この味だけで、昔を思い出す」

「……私もです。だからこそ、あの子達がこの味を食べられる様な子でなかった事に安堵してしまいそうになります」

「それは一体どうして」

「漬物は毎度、食事に出していますから。慕っていた父と一緒に食べた味を知ってしまっていては、楽しい場がいつまでも悲しい場になってしまいますわ」

 

 伏し目がちなミツ子はそっと湯呑みに口を付けこくりと喉を動かす。

 小さく息を吐き、穏やかに笑う。

 

「お気に召しましたか」

「とっても。どちらのものか、お聞きしても」

「京都のものです。いくつか分けましょうか?」

「宜しいのですか?」

「はい。これなら蓮之介と珠子、トヨさんとも楽しめるでしょう」

「……有難う御座います、本当に何から何まで」

「これくらいです、ワタシは何も」

 

 短い沈黙。遠くからは大きく鳴いたのか、馬の声が聞こえてくる。

 ミツ子はその音に顔を向け、フッと表情を和らげる。

 

「あの子は、まだ元気ですか」

「早いもので、もう20歳を超えましたが未だ健在で」

「そうですか。それは良かった」

「子供も産んで、その子達もまた強く走りましたよ」

「まぁ! それは素晴らしいわ。今度また、蓮之介と珠子を連れて来ても構いませんか?」

「それは勿論、なんたってボタンは貴方達の馬ですから」

「貴方達……私は、」

 

 言葉を遮る様に、また馬のいななきが聞こえる。貴方の馬です。と、高垣が確信を持った声色で見つめれば、ミツ子はぎこちなく頷いた。

 湯呑みに口を付け、温度が変わった事によりまた味わいの変わったお茶を飲み下す。

 

「……そうだ、知っていますか。日本の馬が外国のレースに挑戦したらしいですよ」

「外国の? そんな事が出来るのですね」

「本当に、結果は芳しくなかった様ですが、今後はもしかしたらこういった外国への挑戦が主流になる日がくるかもしれませんね」

「……もしかしたら、あの子の子供も」

「可能性はありますよ。ワタシ達の縁が途切れない限り、誰かがワタシの意思を継がなくなるまでは、ボタンの血は残り続けるでしょうから」

 

 高垣が当たり前の様に言えば、血が残り続けるというスケールの大きな話にミツ子は驚いた様だった。だが、直ぐに表情を変えて楽しみだと笑う。

 

「ワタシ達が生きている間に、叶えられれば良いですけど」

「私達がいなくなったとしても、蓮之介や珠子、またその後が続くでしょうから、大丈夫です。巽君と気長に待ちます」

 

 ミツ子は混ぜて下さいなと悪戯っ子の様に言って湯呑みを傾けた後、茶托に置くと壁に掛けられた時計を一瞥する。

 

「すみません。私、そろそろお暇させて頂きます」

「もうこんな時間でしたか……また是非いらして下さい。今日は都合が付きませんでしたが、女房も会いたがっていますから」

「えぇ、直ぐにまたお邪魔させて頂きます」

 

 ミツ子は立ち上がり、高垣もまた併せて立ち上がる。玄関まで共に歩けば、2人の様子を察した家政婦がミツ子の下駄を用意していた。

 頭を下げ、背を向けるミツ子を見送り、高垣は先程までを頭の中で反芻する。

 高い高い壁、夢物語の話。それでも、彼が愛したボタンの血が、夢の先へと辿り着く未来を期待する。

 

「巽君は、やり過ぎだって笑うかな。そこまでなんてと怒るかな」

 

 いや、ボタンを競馬に誘った時の様に、結局は何をするんだと笑ってくれるだろうか。

 

「それまでに縁が途切れなければ良いが」

 

 可能性の中では、一番あり得る未来に、高垣は思わず溢れた苦笑いを浮かべた。

 

 

 古いネクタイを結び、胸元には同じ様に年季の入ったレースのハンカチを仕舞う。

 見慣れない景色の中、見慣れた姿を見つけて胸を撫で下ろしながら小さく「頑張れ」を口にする。

 

「勝てますか」

「何もかもが日本と違う舞台ですからね、その言葉に確信を持って頷く事は出来ません。しかし、彼女はその何もかもが違う舞台で結果を残している。期待はして、宜しいかと」

「そう、ですか」

 

 己を落ち着かせる様に、ネクタイ、ハンカチをキュッと握る男は促されるままに歩き、ゴールから近い場所からターフを見つめる。

バクバクと嫌に動く心臓をおちつかせながら、何度も時計を確認する。

 

「辿り着いた。本当に、辿り着いた」

 

 男がこうして馬主になったのはごく最近の話だったが、馬主になるまでに自分の家がずっと昔に一度だけ馬主になった事があったのを知った。

 そして、その頃から長年仲の良い家と夢の話をした事も。

 

「ご先祖様……貴方達のボタンちゃんから続く血が、世界の壁を破り、凱旋門賞にまで来ましたよ」

 

 今度は力強く胸元を握り込みながら言えば、隣に座る男とは正反対に落ち着いた女がクスッと笑う。

 

「ご先祖って、まだそんなに前の人達ではないでしょう?」

「へ!? え!? あ、そ、そうだね!?」

「緊張し過ぎです。なる様にしかならないのですから、信じなさい。貴方のデージーちゃんを」

「うん……そうだね」

 

 力を込めていた手に柔らかな手が添えられて、段々と力が抜けていく。

 どんな時でも冷静でいてくれる最愛の存在に救われながら、男は深呼吸をして目の前の光景を見つめる。

 整列した競走馬達がターフに現れ、その中から鬣に花の飾りが付いたゴムを結び尻尾にも赤と白のリボンを飾っているアセビデージーを見つけ、必死にカメラに写し込む。

 

「お爺ちゃん……お父さん……円谷家、高垣家の皆様……力を貸して下さい……デージーの背中を押して下さい……」

 

 穴が開かんばかりにゴール板を凝視しながら手を合わせる男に、女はどこか不思議がりながら口を開く。

 

「ねぇ、桧さん。どうしてこのレースにはそんなに必死になるの? これまでのレースも凄い? 凄いレースなのでしょう?」

 

 女の言葉に、男、円谷桧は少しの間考えた後、ポツリと呟く。

 

「昔、話したらしいんだ。ボタンの血を継ぐ馬達が海外のレースを勝つ日がくるかもしれないって。その時が丁度日本の馬が初めて凱旋門賞に出走して、凱旋門賞は特別らしいんだ」

「らしいって、たまたまこのレースの名前を出しただけではなくって? 言葉を聞く限り、海外のレースを勝つかもしれないというだけで、凱旋門賞という指定はあるの?」

「……え、そ、どう、なんだろう」

「分からないの?」

「又聞きも又聞きだからね……でも、海外のレースに勝てるかしらって話をしていたというのは本当だよ」

「じゃあ、凱旋門賞でなくても大丈夫じゃない。その夢、あの子はもう叶えてしまってるわよ。それに、確かツバキって馬も海外のレース勝ってるじゃない」

「……た、確かに」

「全く。変な所でお間抜けさんなんだから」

 

 クスクスと笑うその表情に、円谷もまた釣られて笑う。先程までの緊張と必死さが嘘の様に身体から離れ、どこかへと消え去っていく。

 大きく深呼吸をする。漸く、円谷は落ち着いて自分の馬を応援出来そうだった。

 

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