幻の夢を追いかける華   作:日振

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 その感情を忘れるな

 

 アセビツバキは偶々見たレースの光景をキッカケに、アセビボタンへの好意を抱いた。それは、尊敬でもあり、信奉にも片脚を入れている様な強い感情を伴う歪なもの。何故、ツバキが一目見ただけのボタンへその様な感情を生み出したのかは分からないが、ボタンが「あの子」の背を追うのと同じ、ツバキもまたボタンの走る姿を見てその背を追い掛けようと決意した。

 

「次は、GIへ挑戦したいです」

 

 アセビボタンをリーダーとして活動する「チームシェアト」が使う教室の中で、机上に様々な資料を所属するウマ娘ごとにまとめて広げていたトレーナーである若旅伊吹へ向かって、ツバキが凛とした佇まいと声色で宣言する。

 伊吹は「ふむ」と小さく呟いた後、目線を右斜め上に向けて長考をして、頷く。

 

「駄目だ」

「……何故でしょう?」

 

 ツバキは冷静に伊吹の言葉へ首を傾げる。普段通りの平静を保っている様だが、珍しく両耳が少し別の方向を向いた。

 部屋の中にピリピリとした空気が流れる。

 

「ツバキは確かに強いよ。でも駄目だ、まだGIに出れる程の力は無い。君は、時間を掛けた後に大成するタイプだから」

「しかし。吾はあの方と同じ舞台に」

 

 あの方。が誰を示しているかなど、伊吹はよく知っているし、出来る事ならツバキの願いも叶えてやりたいとも思う。だが、ツバキのトレーニング記録を見る限り、ジュニア級は高みを目指さずコツコツと実績を重ねる方が良いと伊吹は考えている。

 それ故に、可愛い教え子の気持ちへバツ印を付ける。

 

「ツバキの気持ちは痛い程分かる。だけど、同じレースに出る事だけが憧れの背を追う方法ではない」

「けれど、現在の吾の成績は自意識過剰ではありますが、GIに出ても充分成果を出せるものであると考えています」

「そうだね。デビューから条件戦を含めて3戦3勝。文句なしの成績だ」

「なら!」

「……君の脚はまだ遅い。それに、メンタル面もまだ未熟だ」

 

 瞬間、ほんの少し別の方向を向いていた両耳が髪に触れる程倒れた。冷静を装ってはいるものの、隠し切れない激情の色が溢れ出る。

 しかし、生まれた感情のままに言葉を放っても醜いものにしかならない。ツバキは深く息を吐き、自身の中に生まれたいらないものを捨てる。

 

「酷い言い方であると思っている。だけど、事実だ。ツバキが出たいと思っている阪神ジュベナイルフィリーズと同じ距離で測った君の記録は最高で1分36秒。距離以外の条件が違うから一概にこうとは言えないけれど、せめてあと1秒は縮めたい。そして、現在の精神面では優勝したとしても大敗したとしても影響が出る」

「順位など、終わった後など、どうでも良い。吾は、ただ出たいのです」

 

 泣きそうな顔で懇願するツバキの願いを、伊吹は受け止めて咀嚼して、けれどツバキの目を見ながら真剣な顔で変わる事なく「駄目だ」と小さく返した。

 

 

 騒がしい阪神レース場、爪が食い込む程強く両手を握るツバキは必死に両目から溢れそうなそれを堪えながら、目の前で行われるレースを見つめている。

 ピカピカの勝負服を身に纏って美しく駆け抜ける彼女らを見ながら、せめて、この気持ちを忘れるものかと脳味噌に刻み込む。

 優勝したウマ娘が嬉しそうに手を上げる。電光掲示板に映し出された記録は例年よりずっと遅いもので、これなら自分が出走してもという悔しさと、実際に生のレースを見たからこそ感じる息が詰まる様な重圧を自分は耐えられただろうかという疑問で頭の中がグチャグチャになって、遂には堪えていたものが溢れ出る。

 

「クソっ……クソっ……!!」

 

 祝福に包まれた世界で唯一、周りとは違う感情で泣き叫ぶ。他人の目など気にする余裕なんてなく、溢れた気持ちのままに声を上げる。

 そして、自然と涙が引いていったタイミングを見計らう様に、ツバキの隣で誰かが立ち止まる。

 

「今年も凄かったね〜」

 

 楽しそうな声色。その声の持ち主をツバキはよく知っている。その声を聞いて、雷に打たれたかの様な錯覚を覚えながら急いで両目を擦り、身体の向きを変え軽く頭を下げる。

 

「す、すみません! この様な醜態をボタン様の前で晒すなど」

「良いんだよ、悔しい時は悔しいって感情を出して……というか、その様を付けるの辞めて欲しいな〜って」

 

 気恥ずかしそうに頬を描くボタンを見ながら、ツバキは「恐れ多いです!」と返す。

 ツバキがボタンへ向ける感情が妙に信奉を感じさせるのも、この呼び方が一つの原因であった。

 

「まぁ、呼び方は追々として、この悔しいって思いを忘れちゃ駄目だよ。私達にこれからずっと付き纏ってくるものであり、乗り越えるものだから」

「ボタン様も、レースで悔しいと思うのですか?」

「最近はずっと、思いっぱなしだよ。でも、いつかきっと」

 

 ツバキが見つめていたボタンの瞳に、美しい光が灯っている。それは小さくて今にも消えそうなもの。だけど、同時に絶対に消えるものかと逞しさを感じるもの。

 

「……吾もいつか、この気持ちを乗り越えられるでしょうか」

 

 ツバキの言葉に、ボタンはツバキの手を握り、しっかりと目を合わせながら頷く。

 

「大丈夫。貴方には、その力があるよ」

 

 力強く言われた言葉に、心の何処か、小さな所に火種が生まれる。ツバキのそれが大きな炎となって、暖かさをもたらすのはまだ少し、未来の話。

 

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