幻の夢を追いかける華   作:日振

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 お土産はアップルパイで

 

 新田翡翠は日常の中で行う癖の一つとして自身から見た右側に寄り、壁にピッタリと沿って歩くというものがあった。理由は単純明快で、新田の右目が景色を映す機能を失い、真っ暗となっているから。勿論、全ての時でそれが出来る訳でもなく、基本はインドアを極める事で何事もなく過ごせる様にしていた。

 レースの騎乗依頼があり、船橋から遠征をして盛岡に辿り着いた新田は長年バレットという名のサポートを務める男から声を掛けられ、顔を横に向ける。

 

「レースまで時間的な余裕はありますけど、今日はホテルで過ごして明日競馬場へ入りますか?」

 

 男は新田の性格をよく知っていて、必要最低限以外は干渉してこない。その距離感のお陰か、新田にしては珍しくあまり壁を作らずに接する事が出来ていた。

 提案された言葉に、新田は静かに首を振る。

 

「いえ、お土産を買いたいです」

「ご家族宛てですか?」

「……はい」

「分かりました。では、一旦ホテルに荷物を預けてから歩きましょうか」

 

 新田が頷く。そうすれば、男はそれ以上の言葉は続けず、荷物を抱え直して左腕を差し出す。

 

「行きましょうか」

 

 右側の視界がないからこそ、左目の代わりとなる男の左腕を新田が軽く握ると同じタイミングで歩き出す。一応の表示として結んだヘルプマークがバッグで揺れる。

 男は行儀悪く歩きながら土産物屋の事を調べているが、新田がそれを指摘する事はない。

 仕事仲間としての信頼はあるが積極的に話す事はない静かな時間に、盛岡の生活や野鳥の音が響いていた。

 

 

 粕毛にも似た珍しい毛色のアセビコウロは見慣れない景色に顔を左右に忙しなく動かしていた。見慣れた厩務員や調教師の姿はあるが、それ以上に知らない景色へと意識が向いている様だった。

 その時、コッコ、もしくはカッカ、そんな感じの軽い音が響き、コウロの耳がピンと立つ。

 音の主は盛岡競馬場へとやって来た新田で、調教師や厩務員だけでなく、新田の姿まで見えたコウロは漸くソワソワとした状態から人間に集中した。

 

「元気そうだね」

 

 相変わらず優しい声で、優しい手付きで、新田がコウロの顔に触れれば、嬉しそうに目を細め尻尾が揺れる。

 側から見たら心を許した相棒同士のコミュニケーション風景だが、新田の顔付きは真顔のままでそれが酷くアンバランスだった。

 盛岡競馬場で開催され、ダート1600メートルで行われるJpnI「マイルチャンピオンシップ南部杯」は、左回りのコースである為、右側の視力がない新田にとっては得意な条件だった。

 ゴーグルで両目を保護し、勝負服を着用した新田はパドックでジッと立っている。もしかしたらただただ怖くて固まっているだけなのかもしれないコウロの元へ向かうと、再び舌を鳴らす。

 

「せーのっ」

 

 厩務員が支え、新田がコウロの背に跨る。駆け付けた馬主である高垣琴が、勢い良く頭を下げるのに対して新田は変わらずに軽く馬上から会釈を返す。

 中央競馬所属の名だたる馬達に囲まれながら、コウロは軽く砂を巻き上げながらゲートへと向かう。唯一、体色の面だけでならば、アセビコウロは誰よりも目立っていた。

 

 

 雲に覆われ、時間に対して薄暗さが強い世界の中、電灯に照らされたダートの地面を一斉に15頭の馬が走り出す。

 青い勝負服が鮮やかな3番の馬が先頭に立つと、そのまま後続に譲る事なく位置をキープする。

 一部分だけスッと伸びた緩やかな直線の先からスタートし、400メートル進んだ所で楕円のコースに合流していく。先頭は変わらずで、コウロと新田はそこから更に後ろで果てしない先頭を見つめている。新田が頭を振れば、タイミング良く隣には誰もおらず、ほんの少しコウロを促して囲まれた場所からそっと抜け出す。

 今、先頭を走っている馬はとてつもなく強い。どのタイミングで仕掛けるべきか、この場所ならまだ追い付ける。しかし、相手は4コーナーを過ぎてからスパートを掛けるだろう。その時、コウロにその背を喰らい付いて、前に出る力は残っているだろうか。

 様々な事を頭の中でごちゃごちゃと考えながらその瞬間を見計らっていれば、言葉では説明の出来ない第六感的な感覚に襲われる。

 

「……いや、今じゃないと駄目だ」

 

 コウロに一回だけ、鞭で軽い合図を送れば徐々にスピードが上がっていく。

 他に囲まれていなかったからこそ何も気にせずに順位を上げていけば、目当ての背中の影を踏む。

 

「アセビコウロが並んだ! このまま前に出られるか!」

 

 左目に映る青い色と並んでコウロが先頭に立つ。後は約400メートルの直線を最後まで走り切れるか。

 きっと、どちらかの全力が一瞬でも鈍れば勝敗が付いてしまう。

 パドックで見た凛々しい顔付きの若い騎手が、新田の隣で絶対に負けないと闘志を燃やしている。

 羨ましいと思う。競馬というものへ、それだけの情熱を向けられるのが。

 だからこそ、隣の彼へと失礼がない様に、レースだけは全力でやろうと、新田はもう一度コウロへ合図を送る。

 新田の合図に、コウロはいつでも純粋に、必死に、応えてくれる。

 

「今、並んでゴールインッ! マイルチャンピオンシップ南部杯、ラストは中央と地方のとてつもない一騎討ちとなりました!」

 

 暫く惰性で進んで、ゆっくりとスピードを緩めていく。コウロは深く息を吸っていて、本当によく頑張ってくれたのだと新田はその首筋を何度も何度も撫で付ける。

 先程までピッタリと並んで競い合っていた青年から手を伸ばされて、新田は戸惑いながらも、取り敢えずはその手を握る。

 ゆっくりと戻って行けば、1番人気の馬に勝ったからか困惑と祝福の混じったかの様な騒がしさに迎えられる。

 

「頑張ったね、コウロ」

 

 優しい声、優しい手付き、優しい言葉。

 それに反する変わらない表情は、ゴーグルに隠れて殆ど分からなかった。

 

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