幻の夢を追いかける華 作:日振
引き綱を手に持ちながらおーいと声を出せば、放牧地の奥からゆっくりと馬達が戻ってくる。大手の牧場の様に沢山の馬がいる訳ではないが、一人で集牧するには参ってしまう数に対して一々歩き回る事なく、一言で集まってきてくれる彼女らの頭の良さには感謝しかなかった。
「はい、今日もお疲れ様」
最初に戻ってきた群れのリーダーでもある芦毛の馬に引き綱を付け、放牧地の扉を開ける。軽く首筋を叩き、男が一歩を踏み出せば嫌がる事なく馬の方も歩き出す。すると、リーダーをの後を追い他の馬達が引き綱もなく列を作る。
「ほんと、お姉さんには助かってます。有難う」
男の言葉に、お姉さんと呼ばれた馬は得意げな表情をして、楽しそうな歩き方に変わる。嬉しい事は嬉しい、嫌な事は嫌と、人間と同じ言葉は話せなくてもそれ以上に表情豊かな反応を見せてくれる彼女はいつまでもずっと可愛らしい少女の様だった。
絶え間なく話し掛け続けゆっくりと馬房へ戻って来れば、最初にお姉さんを入れ、順に後を追って来てくれた他の馬達を入れる。
馬房の中を確認し、放牧地に取り残された馬がいないかを確認してから男は次に、飼料が置かれている人間で言う所の炊事場へと移動する。
「お疲れ〜」
「お疲れ様です」
「今日も皆良い子ちゃん?」
「えぇ。今日も、昨日もずっとです」
「ほんと助かっちゃうね〜。個人的にはちょっとヤンチャな子がいても楽しそうだけど、でもやっぱり、良い子方が治療とか削蹄とか諸々で助かるんだよねぇ」
「全くです。ヤンチャな子は制御出来そうにありません」
「本当? 君も、ウチのお姉さんに一目惚れした会社辞めてきたヤンチャさなのに」
「一目惚れは仕方ないですよ」
「ははっ! そりゃそうだ。数十年前の爺さんも一目惚れでこの牧場を始めたくらいだし、一目惚れは人間を動かすには強い力だ」
慣れた手手付きでそれぞれのバケツへ、それぞれの量の飼料を手早く入れていく上司となる女はカッカッカと特徴的な音で喉を鳴らす。
男は近くに腰を下ろすと、近所からお裾分け、訳あり、食べ切れないと様々な理由によって送られてきた飼料以外の林檎や人参を手に取り切り分けていく。
「あ、そういえばさ。今日の秋華賞は見た?」
「結果だけ。レースは家に戻ってから見ようかなと」
「懐かしいね。ツバキはあのレースで3着になったんだ」
「勝つ事は出来なかったけど、ほぼ最低人気からの大逆転でしたもんね」
「あの時はここも湧いたよ。あれが彼女の本来の実力で、もっともっと強くなれる逸材だって分かり切ってたからね」
「実際、もっともっと強くなりました」
「そーれーな! こっちも鼻高々ですよ……あ、完成したやつから持ってちゃってくれる? そろそろ、催促されちゃう時間だ」
「うっす」
男は使い古された代車の上にバケツを乗せ、ガラガラと押していく。この牧場の馬達にとっては聞き慣れた音に、馬房の中から次々に顔を出してくる。
「お待たせー」
バケツを取り付け、もしゃもしゃと食べ始めるその額を撫でてから、男は時計を確認して再び放牧地の方へと歩く。
先程までお姉さんや他の牝馬達がいた場所から道を挟んだ隣の放牧地へと引き綱を持って進む。
「鳩くーん、鳩丸ー!」
広く開けた世界の中、男の声が響き渡る。鳩丸と叫んだ単語に釣られてか、パタパタと一羽の鳩が飛んできて柵の上に止まる。牧場で飼っている訳ではないが、恐らく群れやコミュニティから外れて住み着いたのだろうなと男は思っている。
男は鳩丸へと顔を向け、まるで友達や同僚へと話し掛けるかの様な口振りで「呼んできて」と言えば、またパタパタと羽を動かして飛んでいく。
「ロード。おかえり、今日はちゃんと動いたか?」
大きな栗毛の身体をゆったりと動かして現れるロード。お姉さんことツバキのきょうだい的な存在となる牡馬。そして、鳩丸の友達で鳩丸が誘導しなければ動かないレベルの置き物さん。
「相変わらずか?」
引き綱を付け、男が歩き始めればロードもまたゆったりと歩き出す。反抗はしないし、暴れたりもしないが、運動のしなさ過ぎで心配になる。
地面に降りた鳩丸がチョンチョンと男とロードの前を歩く。すると、ロードは先程よりも足取り軽く、また、スピードを上げやる気を見せながらフンフンと歩き始める。
「いやぁ、鳩丸様様だなぁ」
首筋を叩きながら馬房まで戻れば、鳩丸は扉の前に飛び出していた寝藁の上で立ち止まりまん丸に座り込む。
用意されていたバケツを取り付ければ、ロードは一度中を覗き込んでから馬房の奥へと歩いて行く。
相変わらずマイペースだなと男は思いながらも扉を閉め、鳩丸へと手を振る。恐らく、鳩丸が餌を探しに飛び立てば、ロードも釣られて餌を食べ始めるだろう。
「あ、いたいた!」
「どうしたんですか」
「いやなに、そういえばと思い出してさ。今日、秋華賞があったのはそうだけど、東京ハイジャンプもやってたっしょ?」
「えぇ、そうですね」
「ロードとツバキのレースじゃーん。SNSにあげよー、許可貰ってきたから」
「自分は何をすれば?」
「お姉さんとおじちゃんの写真お願いしても良い?」
「勿論」
牧場の広報用として使用されている携帯を手渡され、男は踵を返す。より近いロードの馬房に戻れば鳩丸はおらず、ロードはバケツの中に顔を入れていた。
タイミングが悪かったなと思いつつロードへと声を掛ければ、ゆったりと顔を上げてくれる。
「一瞬ごめんね」
カシャリと軽い音が響き、データの中にロードを写した新たな一枚が記録される。
さて、と顔を上げた男は携帯をポケットに仕舞うと、お姉さんことアセビツバキがいる馬房へと歩き始めた。
◯圓谷牧場
【牧場便り】
本日、京都競馬場では秋華賞が、東京競馬場では東京ハイジャンプが行われました。
約30年前に秋華賞で3着となったアセビツバキ、東京ハイジャンプの前身となる東京障害特別(春)を優勝したアセビロード、異なる舞台で輝いた二頭は今日も元気に過ごしています!