幻の夢を追いかける華   作:日振

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 She Stopped the Nation.

 

 2018年の10月、ワーリビー国際馬房。黒鹿毛の牝馬であるアセビデージーが慣れた様子で大きく欠伸をする。

 逞しいその様子に安堵の様な、呆れの様な感情を持ちながら日本から一緒にやって来た厩務員がブラシで尻尾の毛を梳かす。

 

「本当に、これだけあちこち移動しても何の問題もないタフさは天性のものだ。オーストラリアのチェックも普通にクリアしそうだし」

 

 デージーが現在、ワーリビー国際馬房に滞在している理由は単純明快で、目前に迫った国を止めると言われる「大一番」に出走する為だった。

 14日間の検疫期間を終え、CTスキャンを撮り終えたデージーの身体は普段と変わらないままで、日本以上に厳しいチェックがあると言えど、出走取り消しの事態にはならないだろうと確信していた。それでも、しそうなんて語尾を使ってしまうのは日本人故のものなのかもしれない。

 今年のレースにはデージー以外にも日本馬であるアレザンルマントが遠征しており、これまで交わった事のない相手でありながら厩務員は自分の中だけで謎のライバル心を覚えていた。

 

「ほら可愛い。お嬢さん、どうかな?」

 

 慣れた手付きで厩務員がデージーの鬣を結び、花の飾りが付いた髪ゴムで結べば、デージーは得意げな表情を浮かべる。

 ワーリビー国際馬房にいる間、検疫の観点から日常的に触れ合えるのは厩務員や調教助手程度で調教、レースで相棒となる騎手のルドルフ・コヴァーチュは日本の様にコミュニケーションという意味合いで気軽な気持ちで馬房に来る事が出来ない。

 寂しいかと、厩務員が聞いてみるが、デージーは案外ケロリとしている。今回のメルボルンカップ以外にも海外遠征をメインとして各地を転々としている経験、良い意味での「慣れ」があるのかもしれない。

 

「それじゃあ、また明日」

 

 最後にデージーの首筋を撫で、扉を閉める。厩務員はそのまま国際馬房を出ると、用意されている宿舎へと向かう。産業を始めオーストラリアの動物を守る為の保護、予防であると分かりつつも、文字通り桁違いなセキュリティ体制に厩務員の方が面倒臭いと吐き捨てそうになってしまう。

 しかし、自分が根を上げたらデージーの経歴に泥を塗ると理解しているからこそ、身体を伸ばしながら暫しの辛抱だと受け入れ、深呼吸の後、再び歩き始めた。

 

 

 2018年11月6日。オーストラリア、フレミントン競馬場。場内はやはりと言うべきか、隙間なく集まった観客で賑わっている。

 着飾った人々と、華やかに彩られた柵に囲まれたパドックを周回しながらルドルフはデージーの頭を撫でる。

 想像していた通り、デージーは事前のメディカルチェックもなんなくクリアし今日もまた鬣を飾りの付いた髪ゴムで飾り付けた姿で本番を迎えた。2色のリボンを編み込んだ尻尾が歩く度にポンポンと揺れる。

 

「賑わってますね〜」

 

 馬上から辺りを見渡すルドルフの声には快味が滲んでおり、それがデージーにも伝わったのかデージーの脚取りが徐々に軽く、ステップを踏んだ様なものに変わっていく。

 だが、レース直前の今、無駄な体力は消費させまいと落ち着かせようとするが逆に遊んで貰えると感じたのか、更にステップは大きくなっていく。

 

「あはは! ゴキゲンね?」

「ちょ、ちょっと! 落ち着こう! ね!」

「こうなったデージーはユカイユカイね〜」

「レース後なら全然良いんだけどなぁ……!」

 

 楽しそうにパドックの周回から外れ、日本とは全く違う観客の目の前を歩きながら馬場入りをすると、厩務員は曳き綱を外しルドルフとデージーの背を見送る。

 地元、オーストラリア所属の牝馬が一頭出走している以外はライバル達は全て牡馬、もしくはセン馬であり威圧感を感じるが、それに怖気付く様な性格ではないデージーは相変わらずマイペースに、楽しそうに芝の上をゆったりとした速度で進んで行く。

 

「長い距離、でもKdo bojuje, vyhraje.なんですね? デージー?」

 

 ルドルフの言葉にデージーは一瞬だけ顔を後ろに向ける。直ぐに前を向けば、殆ど間を置かず目の前が開ける。

 雫型のコースから伸びる直線から設置されたゲートから、現代の日本ではまず見られない頭数の競走馬達が飛び出す。デージーは真ん中辺りのゲートを割り当てられていたが、このレースに至っては内枠、外枠の差はあまりなくルドルフは左右前後を確認しながら長丁場のレースに対してデージーが消耗しないポジションへと促していく。

 長い長い正面スタンドの直線を進み、タイトな1コーナーを回る。3200メートルという長丁場、他のレースと比べても未だ隊列に動きは見えない。

 馬場状態は「重」と発表されたオーストラリアを代表するイベント「メルボルンカップ」。3200メートル、日本の天皇賞(春)と同じ距離で施行される長距離戦に挑む24頭に、分かる範囲でも200万という注目が降り注ぐ。

 

「The Japanese runner, Asebi Daisy, is settling towards the rear as they race past the first turn.」

 

 淡々と実況するアナウンスは後方にいるデージーは軽く済ませ、先頭にいる競走馬達へと意識を向ける。

 ルドルフからは遥か遠くに見える先頭集団の背中は小さく、果てしないが、デージーの脚を信じて手綱を握る。

 タイトなコーナーを抜け、向こう正面コース。隊列は今もまだ殆ど変わる事はない。1600メートル地点、レースの折り返し地点を通過してデージーもまだ動きを見せない。

 

「Asebi Daisy is travelling comfortably into the third bend past the halfway mark.」

 

 雫型のお尻の部分、大きく膨らんだコーナーを回るとルドルフは視界の中、僅かに周りの人馬が動き始めるのを捉える。

 競馬場に集まった観客のボルテージが3コーナーを過ぎ、4コーナーに近付くにつれて更に更に上がっていく。

 先頭のセエスカポが単独で最終直線に入る。3000メートル近く走り、尚且つ重馬場という事も相まってか前にいた何頭かの馬はスピードが鈍り、後ろに下がり始めてしまう。

 

「Inside the 400! And here comes the Japanese mare, Asebi Daisy, storming home from the back with a powerful run!」

 

 最終直線入って少し進んだタイミング、ルドルフが合図を送ればデージーはそのままギアを上げ、限られたスペースから臆する事なく前に出る。

 どんどんと前にいた馬達を追い越し、先頭争いに混ざり込む。

 

「membrillo and Catacol de Prince fight it out, but Asebi Daisy ranges up to join the battle! And look at Contre Croise coming with a wet sail from the back!」

 

 激しい競り合い。自分よりも歳下の牡馬、セン馬に囲まれハンデキャップとして斤量も重く設定されながらも、デージーは何も劣る事なく走り続ける。

 残り50メートル地点。コントルクロワゼがメンブリージョを交わし前に出たのをきっかけに、ルドルフがもう一度鞭を入れれば、これまで2400メートルまでしか経験のないデージーは、限界ギリギリながらも期待に応えようと最後の一伸びをしてみせる。

 

「A furious battle between Contre Croise and Asebi Daisy! Asebi Daisy just edges ahead! It’s the Japanese mare, Asebi Daisy, taking out the Melbourne Cup!」

 

 手綱を引きゆっくりとデージーのスピードを緩めていく。自信を持って挑んだものの、本当に3000メートルを超える距離すらも走り切ってしまう底知れないポテンシャルに畏怖の念に近いものを感じてしまう。

 流石に疲れた様子のデージーと共に、ゆっくりと芝の上を進み再び観客の前を通りながらパドックへと戻れば調教師や厩務員、デージーを支える皆から囲まれ漸く甘える様な素振りで、疲れたとアピールをし始める。

 人間達から沢山沢山誉められたデージーは嬉しそうに目を細める。歓声の中、鬣に結ばれた黄色いバラの飾りが揺れた。

 

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