幻の夢を追いかける華 作:日振
トリプルティアラの最終戦、秋華賞のトライアルレースに指定されているGII「紫苑ステークス」。本番と同じ距離で行われるそのレースはクラシックの舞台へ躍り出ようとするウマ娘達が数多く参加し、夢を掴む為の切符に変えてきた。
世間では紫苑ステークスを目前にした8月の下旬、海の匂いに包まれる海水浴場の波打ち際、スティルインラブはジッとオレンジに染まる水平線を見つめていた。信頼するトレーナーは飲み物を買いに行った先で手伝いを頼まれ、戻るのに時間が掛かると先程連絡が入ってきた。
「あれ、どうしましたか?」
スティルが動かないままでいると、同じトレセン学園のジャージを着た芦毛のウマ娘が話し掛ける。
首を傾げながらスティルが振り向けば、景色を眺めていただけだと気付いたのかそのウマ娘は良かったと胸を撫で下ろす。
「御免なさい、ずっと動かなかったから何か問題でも起こったのかと思ってしまって」
「いえ、お気遣い頂き有難う御座います」
スティルが軽く頭を下げ、顔を戻した時、漸く話し掛けてきたウマ娘の顔を認識する。
毛先になるにつれて黒くなる特徴的な芦毛、左右で美しく光るリチア輝石の瞳。学園ではある意味で知名度の高いウマ娘が立っていた。
「あの、もしかして、アセビボタンさんですか?」
「えぇ。私はアセビボタンですが、よく分かりましたね」
「分かります。有名人ですから……桜花賞の後、オークスだけでなくダービーも走ってみせたウマ娘」
「でも、勝てませんでしたから、それ程ではありませんよ」
「勝った負けたではなく、実現させた事自体に意味がありますから」
「あら……歳下の子に気を遣わせるなんて年長者失格だね、えっと、」
「名乗るのが遅れて申し訳ありません。スティル、です。スティルインラブ」
「気にしないで、私が勝手に話を続けてしまっただけだから。改めて、私はアセビボタンです」
美しい顔を和らげて控えめに笑うボタンはシチュエーションも相まり、スティルが学園で聞くアセビボタン像よりも大人っぽく感じられた。
思わず見惚れそうになる程、ボタンの事を見つめていればどうしたのと聞かれて、何でもないと必死に誤魔化す。そして、何か意識を逸らす為の話題はないかと探して、直ぐ目の前に迫ったレースの話題を口にする。
「そういえば、もう直ぐ秋華賞……ですね」
「秋華賞。そうだね、私のチームにいる娘も出るから、今から楽しみだ」
「そういえば、不快に思われるかもしれないのですが、ボタンさんは何故秋華賞には出走なさらなかったのですか?」
スティルが抱いた疑問に、ボタンは視線を動かすと頬を掻いて気不味そうに笑う。
「秋華賞か。それは、そうだな……ご存知の通りと言うか、私はクラシック級の時ダービーが終わった後は練習でさえも走れなくなってしまったから、それをどうにかする為にトレーニングの見直しだとか、病院だとかで色々していたらいつの間にか年が変わっていた。そもそも、秋華賞の存在自体を認識していなかったかもしれませんね」
「悔しくは、ありませんでしたか?」
「悔しい、か。確かに、悔しいとは思っていたけれど、それはレースに出れなかった悔しさというよりも、私の前を行く背中に追い付けない事への悔しさでした」
「前を行く、背中……ですか?」
「そう。私には目指す背中があるんだ。絶対に追い付けないとても早い鹿毛の髪を持った彼女。私の中にしかいない、幻影」
ボタンがギュッと手を握りながら呟く言葉に、スティルは思わず自身の中にある「はしたない部分」を思い出す。
「あの、それってもう1人の自分、の様な、ものなのでしょうか?」
「……それは違うと思う。私は芦毛で、彼女は鹿毛。見た目は違うし、私はその子に勝ちたいと思っているから。スティルインラブさんも、勝ちたいと思う背中があるの?」
「私は、その、困っているというか……あの娘の事を、はしたないと思ってしまって」
胸の辺りを掴み、不安げに気持ちを吐露するスティルを見つめ、ボタンはそっとその頭へと手を添える。チームとしても、家族としても下の子が多いボタンにとってその行為は無意識に出た動きだったが、スティルは驚いた風に顔を上げると相変わらず美しく微笑むボタンと目が合う。
「その不安な気持ちはきっと、1人で抱えるには大きいものだと思う。だからこそ、……まぁ、今だと分かり易い所ではトレーナーとか、周りの大人を沢山頼ってみると良いよ。私も、トレーナーが自分ごとの様に動いてくれたり、先生の言葉を思い出したりして追い付きたい背中だけへと囚われずに走れる様になったから」
「言葉……?」
「うん。昔ね、今はもう鬼籍に入ってしまったけれど、私の先生が言ってくれたの。ボタンの走りは美しいって、頑張りなさいって……その言葉を思い出して、本来のレースからは離れて一つのものに固執する今の私は先生が褒めてくれた姿じゃないなって」
スティルが見上げる先、思い出話をするボタンは美しくて、表情には大き過ぎる程の「愛」を映していた。
遠くから、スティルのトレーナーが名前を呼ぶ声が聞こえる。たった一言の呼び掛けだけで2人の仲の良さを察したのか、ボタンはクスクスと笑いながらご機嫌ようとスティルへと軽く手を振れば、スティルは頷いて一歩、二歩と後ろへ下がる。
しかし、スティルがトレーナーの方へと振り向く直前に動きを止めると真っ直ぐな瞳でボタンへと問い掛ける。
「ボタンさんは、その……先生という方を、今でも愛しておられるのですか?」
どうして、そんな事をスティルが問うたのか本人にすら答えは出ない。もしかしたら、年頃の娘らしくボタンから感じた愛というものに興味が湧いたのかもしれないし、自身の名前にも入った言葉の連想からちょっとした親近感からの蛇足だったかもしれない。
けれど、ボタンはスティルからの言葉にほんの少し考える間を置くと、左の耳に付けたアセビボタンの名前と同じボタンの花飾りを触りながら口を開く。
「えぇ。だって、家族だもの。ずっとずっと昔から、そしてこれからも死んでも良いくらいに……って、これだと愛の告白みたいね」
ザァザァと、波が押し寄せる世界でボタンはまた、クスリと笑ってみせた。