幻の夢を追いかける華 作:日振
パドックへと向かう前、誰もいない通路の真ん中で深く息を吸って、一度だけ吐く。頭の中にノイズはなく、自分のやるべき事と教えられた事だけが反芻している。
白を基調とした軍服の様なカッチリとした勝負服に身を包んだアセビツバキは、気合いを入れると一歩を踏み出す。
大勢のファンが一堂に会するGIレース、ツバキは11番人気という控えめな人気に収まったが、昔の様に悩む事はない。それを覆して仕舞えば良いとさえ思えている。
「……どうぞ、宜しく」
パドックを見ているレースファンへと一礼しながら、誰にも聞こえない声で言う。ツバキの表情は晴れ晴れとして、メンタル的にも落ち着いている。正に絶好調の状態で本番を迎えられた。
顔を上げ踵を返す途中、柵の向こうに同じチームの仲間やトレーナー、そして敬愛する存在を見つけ、ツバキは心の中で「いってきます」と呟いた。
京都レース場、芝2000メートルのGIレース。トリプルティアラ最後の一戦「秋華賞」は天候にも恵まれ、バ場状態も良と発表された。
今か今かと期待する割れんばかりの歓声に似た言葉を聞きながら、ツバキはゲートへと入ろうとしてその場で立ち止まる。レースが始まる前の一瞬、強い恐怖とも不安とも言い表せられない感情に襲われる。だが、ツバキはもう一度大きく深呼吸をしてゲートへと入る。
恐怖や不安を感じても良い。それは、ツバキだけではなく周りのウマ娘達も持つ普遍的な感情。大切なのは、その感情に飲み込まれず如何にバネにするのか。
ツバキはトレーナーである若旅伊吹や、敬愛するアセビボタンから教えられた言葉を思い出す。
「吾は、吾の誇りを勝利へと届かせてみせる」
ツバキの言葉に呼応する様に、耳飾りに付いた椿の花と花の様に染まった一部の髪の毛が風に揺れる。
ガコンと目の前が開いて、ツバキは強く地面を踏み込んだ。
まずまず揃ったスタートを切り、ツバキは先頭から5番手あたりの位置を取る。最内にいる所為で周りを他のウマ娘達に囲まれてしまうが、ツバキ自身はその部分に関しては問題なく真っ直ぐに前を見つめる。
平坦な芝の上を進み、1コーナーを回る。後半に存在する坂に向けてツバキは最短距離で向かう為に、内ラチから離れない様にコーナーで身体に掛かる遠心力をジッと耐える。
先頭は逃げるウマ娘が1人、しかし、大きく距離が開いているという訳ではなく、しっかりと自分の目で先頭を捉えられている。
「ギュッと18人が固まって淀の坂を進んでいきます!」
向こう正面コースに入った中間地点、ツバキは呼吸を入れる。ポジションも殆ど変わらずにキープ出来ており、体力もまだ余裕がある。
ツバキは11番人気という、言ってしまえば低人気で収まった1人で、昔の様な期待も既にかけられていない。
「あぁ、軽いな……!」
2本の脚には強い負荷が掛かっている筈なのに期待されていないからこそ、自意識過剰を打ちのめされたからこそ気持ちは軽く、これまでのレースと比べたら随一の状態で走れている。焦らず、教えられたままに走れている。
「淀の坂を超えて残るコースは平坦! ウマ娘達も徐々に動き始めます!」
ツバキ後ろ、横を走っていたウマ娘が動き始め、隊列が変わっていく。だが、ツバキはまだ動かない。
勝負所は、目の前の4コーナーを過ぎた瞬間。
「バ群が開いたッ……!」
目の前が開いて一筋の光を見つける。ツバキはそれを逃すまいと、地面を強く踏み込み周りから少し遅れてスピードを上げる。教えられた通りのタイミング、想定通りの流れ。
ツバキは開かれたバ群から飛び出す様に先頭に立つ。誰にも囲まれない1人きりの世界で勝負服のスカートが揺れる。
「アセビツバキが先頭に立った! GIレースの舞台で久し振りの勝利を飾れるか!? しかし、後ろのウマ娘とは差が殆どない!」
平坦な道を力一杯に走る。ただ前を見つめ、自分の今現在持っている全てを爆発させる。
最終直線に入った時、ツバキの事を応援するチームの姿が見えた。与えられた応援へと報いる為にも、悩み迷う心から脱出したい。きっと出来る筈だ。
ツバキは鈍る脚を必死に鼓舞して、残りの50メートルを走り抜ける。
「今、ゴールインッ! トリプルティアラ最終戦である秋華賞は大荒れの決着となりました!!」
ゴール板を過ぎ、徐々にスピードを緩めながら呼吸を整える。1着となった元禄模様の入った勝負服のウマ娘が高く手を上げながら喜んでいる。
ツバキは流れ落ちる汗を拭いながら、称賛の言葉を優勝したウマ娘へと言えば、涙を流す件のウマ娘は幸せそうな表情で有難うとツバキの手を握る。
呼吸も安定し、観客席の方へと戻って来たツバキは電光掲示板を見つめ、漸く自分の順位を知る。
3着。勝ち負けのみで語るなら負けの順位。けれど、しっかりと走れた事に対して、ツバキは小さく拳を握る。
「ツバキ〜! 良くやったんだね!」
控え室へ戻ろうとしたツバキへと応援に来ていた同じチームのアセビロードが声を掛ける。その声に応え、ツバキがロードへと手を振れば一緒に来ていた他の仲間達も口々に称賛の声を上げる。
ツバキは笑いながら、後頭部で留めていたスポーツ用のベルトを緩ませると眼鏡を外す。
「おや、泣いていますか?」
「吾が泣く筈ないだろう」
「ん〜? 泣き虫さんに言われても説得力がないんだね!」
ロードの言葉に、ツバキは徐に一歩踏み出すとその額へとデコピンをする。
目を大きく開き困惑するロードを置いて、ツバキは集まっていたボタンや若旅、アセビコウロへと挨拶をするとウイニングライブに向けて踵を返す。
目元に流れた汗を拭いながら、ツバキは再び眼鏡を掛け直した。