幻の夢を追いかける華 作:日振
うだる様な夏の暑さも過ぎ去り、冬の寒さが世の中を包み始めた11月、勝負服に身を包んだアセビボタンは東京レース場の控え室の中、本番までの僅かな時間を過ごしていた。
小さな深呼吸を一つ。緊張は、していない。ただ、本来、自分が出来る走りが出来る様に努めるだけ。
鏡を見て少し緩んだ耳飾りのリボンを結び直し、今一度姿見で全体を確認する。
和装と洋装をミックスした様なスタイルの勝負服は、衣装という意味でのファッションに疎いボタンの為にトレーナーである若旅伊吹が沢山の資料を用意し、2人で頭を悩ませ、デザイナーの力も借りながら作り上げた傑作である。
大丈夫だと分かりつつも、不安はない方が良いと靴紐を結び直し蹄鉄を確認する。
もしかしたら、もしかしたら、が頭に続々と浮かんできて、やっぱり緊張しているのかもしれないとボタンは自嘲する。
「……今、大丈夫か?」
控え室のドアが4回ノックされた後、くぐもった若旅の声が響く。ボタンは聞き慣れたその声へと了承の言葉を返せば、扉が開かれるとレースの時にだけする正装をした若旅が軽く手を挙げる。
「緊張は、してないか」
「いえ。案外、緊張しているかもしれません」
「そうか。でも、お前なら大丈夫だよ。確かに長い間スランプにも悩まされたが、トレーニングは完璧にしてきた。後は当たって砕けろだ」
「砕けちゃ駄目でしょう?」
「それもそうだな」
少しの小言を言い合って、顔を見合わせる。
あの日、日本ダービーでボタンが2着を取ってから何かに運命付けられる様にスランプへと陥った。
いつも通りに走っている筈なのにスピードへ乗れなくなり、怪我をしている訳ではないのに脚が酷く重くなって、油の切れたブリキ人形の様に動かなくなる。
あの日から、追い付けそうだった鹿毛色の背中には追い付く所か、影すらも踏む事が叶わなくなった。
それなのに、ウマ娘としては落ち切ったボタンの事を見捨てる事もせず、逆にこれまで以上の繊細さでもってケアやトレーニング方法を見直し、支え続けた若旅が名誉あるレースへと出走出来る様に計らってくれた事実にボタンは感謝しかない。だからこそ、これで勝てなければ本当に私は終わりだな。などと、考える。
「そろそろ時間か。パニックには……なってないな」
「はい。教えられた事も忘れてません」
「良しッ! じゃあ、やってみようか」
「……はい」
カチカチと時計の針が動くにつれ、初めての感覚に襲われたボタンは戸惑う。耳が遠くなる様な錯覚がして、若旅の言葉が聞こえ辛くなる。
ボタンは、レースに出るのが「怖い」と感じた。
徐々に目線が下がり、遂には若旅の顔すらも見る事ができなくなる。
その時、大きな音が空気を震わせる。
「アセビボタン!」
「へ!? あ、は、はいっ!」
突然の事に、ボタンの両肩が揺れ耳がビリビリと震える。思わず上げた顔と、見開かれた目を若旅はジッと見つめていた。
「俺はボタンの走りを見た時に心を奪われた、惚れ込んだ! 夢を応援したいと思った! でも、勝てるとか、絶対に勝てなんて言葉は俺の身分では言えない。だからさ……順位なんてどうでも良いから、もう1度。俺にアセビボタンが笑顔で走っている姿を見せてくれないか?」
「笑顔……?」
柔らかく細められた瞳と、そっと包まれるボタンの手。
男女の違い故か、それともボタンの手が小さいのか。すっぽりと包まれた両手には、若旅の体温がこれでもかと伝わってくる。
たったそれだけの行為に、どうしてか、酷く心が落ち着いた。
「ボタンは気付いてないだろうけど、あの子に勝ちたいってトレーニングを積んで、大きな舞台に全力で挑むボタンの姿は、レース中も1着を取った時も最高に、それはもう良い顔をしてるんだからな?」
「そう、なんですか」
「そうだよ。だからさ、この場所に来ている沢山の観客や、中継で見ている沢山のファン達へ見せてやろう」
「……なんですか、それ」
「担当トレーナーからのちょっとしたお願いだよ」
ギュッと手を握られて、力が湧いてくる。
今直ぐにでも走りたいと思ってしまう。走りたいと思ってしまう。
先程まで感じていた怖い、不安なんて感情が、どこかに消え去る。
「……えぇ、そうですね。見せ付けてきます。だから、1番良い所で見ていて下さいね? 2000メートルの旅なんて、2分もあれば終わっちゃうんですから」
東京レース場、芝2000メートル。天候は晴れ、バ場状態も良と発表されたGI「天皇賞(秋)」は、ボタンを含めても少数となった9人のウマ娘で争われている。
1コーナーの奥からスタートしたレースは誰一人としてミスをする事なく、全員が鍛えてきた能力と、完璧な作戦でもって向こう正面のコースを進み、3コーナーを通過する。あと一呼吸置いた後、レースは動き始める。
「3、4番手にアセビボタンであります。現在、左右前方を他ウマ娘から囲まれておりますが、上手く進路を見つけられますでしょうか」
最高峰のレース実況にしては淡々とした声色のアナウンサーがボタンの名前を口にするが、実況の通りボタンは未だバ群の中にいた。
周りを囲まれ、圧迫感からボタンは顔を顰め、苦しい、煩いと思考が支配され身動きが取れなくなる。体力は充分残っている残ってる筈なのに、心が削られていく所為で本来は感じなくて良い筈の疲労感が襲い掛かってくる。
ボタンは昔から何故かバ群が苦手だった。走る音と荒々しい呼吸音しか聞こえないその場所に、他のウマ娘達が持つプレッシャーに、脚がすくんでしまう。
「いよいよ、第4コーナーを回りました。先頭は変わらずレーヌサターンが軽やかな足取りで進んでいきます」
先頭から少し遅れてボタンもまた、コーナーを回る。遠心力によって先程よりは視界が開けるが、ボタンの脚はうごかない。
一度すくんでしまった脚では、誰の声も聞こえない。ただの雑音に包まれ続ける。
その瞬間、奇跡か、己の作った幻聴か。
約束通りに一番良い所に立っていた若旅の声が聞こえた様な気がした。
「行けッ!! ボタン……走れッ!!」
幻聴に連鎖して、記憶のどこかで声が響く。
聞き覚えのない声。誰かも分からない相手の言葉。
ただただ「頑張りなさいッ!」と応援する声。それなのに、不思議と力が湧いてくる。
「先頭は変わらずレーヌサターン。しかし、ノーヴァメールが猛烈に追い込む。残り200メートルを切った。ここでホークフラッグも3番手へ進出した。しかし、このラストスパートでアセビボタンも出ました。凄い脚であります。過去の強さをもう一度見せるか。レーヌサターンとの一騎打ちであります」
雑音しか聞こえない様な世界でハッキリと、ボタンを応援する声が聞こえた。
坂を駆け上がりながら「そうだろう」と結論付けたのは、若旅の声と、若旅に釣られて思い出した先生の声。
酷く少ない欠片程の記憶しか積み重ねられなかったけれど、ボタンが先生と呼ぶ父親は、お兄ちゃんと共に走るボタンを常に応援してくれていた。
笑顔で、大きな声で、「ボタン、走れ」と「頑張りなさい」と。
まさか若旅が同じ言葉を向けてくれるとは思っていなかったが、随分と背中を押してもらった。
「……ここで、頑張らないといけないんだッ」
「3枠アセビボタン。ただ今ゴールしました。見事、レーヌサターンを交わしました。大きく差を開いてトップであります。一度枯れたと思われた牡丹が再び花開いて見せました」
全力を出し切った後のバクバクと動く心臓と、震える両脚のまま、ボタンはゆっくりと歩き出す。
目的とした場所へと辿り着き、柵へと体重を預ける若旅へと笑い掛ける。
「……見て、いてくれましたか」
歓声の中、若旅は顔を上げると勢い良く拳をボタンの方へ差し出す。
「見たさ。この目で、特等席でな」
ボタンは若旅の言葉に頷いて、自身の拳を同じ様に差し出すと、大きな拳へとコツンと合わせた。