幻の夢を追いかける華 作:日振
1961年10月4日(水)。
あれは、僕が10歳の誕生日を迎えて直ぐの話だ。
子供の脚で走って数十分程の場所にあるとある施設に潜入した。
そこは海の近くにあって、校庭よりも広いのに何をしているのか分からない場所だった。両親からはお前にはまだ早いと言われたけれど、施設に入って行く人達の楽しそうだったり、悔しそうだったり、悲喜交々な表情を見たら気になって、仕方がなかった。
誕生日前までにしっかりと調査して、その施設に入るには100円という大金が必要な事を知った。しかし、僕の貯めに貯めたお小遣いを使えばなんとかする事ができるので問題はなかった。
おじさんの後ろで親子の顔をしながら歩いて、念願の謎の施設に入る。
その場所は木が一本生えたグラウンドに、沢山の座る場所が並んだ謎の建物、更には最初に見たグラウンドよりも大きいグラウンドがあった。
成る程、ここは運動ができる施設なのか。それなら、地面が砂になっていて走り辛そうだけど、学校は体育の授業とか運動会をこの場所を使えば借りてやれば良いのにと思った。
でも、両親が何故この場所が僕には早いと言ったのか、何故運動施設なのに人がグラウンドの中に居ないのか。新しい疑問ができてしまった。
「なぁ、おじ」
疑問を解消しようと近くにいたおじさんに話し掛けようと思ったら、小さなグラウンドの周りにいたおじさん達が声を上げて歩いて行ったので、思わずその動きに釣られて顔を向ければ、小さなグラウンドの中に沢山の馬がいて、クルクルと回っていた。
日常生活ではまず見ない。見慣れる事のない動物と、訳の分からない施設にずっと頭が混乱していた。
「な、なぁ、おじさん! どうして馬がいるの!?」
今度こそ、近くにいたおじさんへ興奮気味に話し掛ければ、驚いた顔をした後に面倒臭そうな顔をして、懐から出した煙草を吸いながらここが「ケイバジョウ」である事を教えてくれた。ケイバジョウは沢山の馬を走らせて、1着になる馬を当てる遊びができるらしい。
「それ、僕もできる?!」
「ア? ガキには無理だ」
「どうして?」
「1回遊ぶにはな、沢山の金が必要なんだよ」
「どれくらい?」
「千円、二千円、もっとか?」
「せ、せん!?」
頭がクラクラとした。僕がここに入る為のお金を出すにもお小遣いを切りはたいて苦労していたのに、高々1回遊ぶだけで倍以上なんて出せる訳がない。
まさか、僕はとんでもないお金持ちの遊び場に来てしまったのかもしれないと背中に変な汗が流れる。
「坊主、お前何でこんな場所に来た」
「え? えっと、ずっとこの場所がどういうものか気になってて、先週10歳になったから、突入してみようと思ったんだ」
「ハッ、お前もクソみてぇな場所が気になったモンだな」
おじさんは僕を鼻で笑いながら吸い終わった煙草を地面に押し付けて、2本目に火を付けると、どの馬が気になると聞いてきた。
気になるのはなんて聞かれても、僕は正直、毛の色しか違いなんて分からなかったけど、何となく目を奪われた馬を指差す。
「あれ! あの、3番の馬!」
「ほぉ、初めてにしては中々良い馬に目を付けるじゃねぇか。あの馬はな、少し前にダービーに勝ったんだ」
「ダービー?」
「あぁ、何万頭といるかもしれねぇ馬の中で1番になった馬だ」
「1番! 凄い! じゃあ、あの馬が今日も1番だね!」
「いや。分かんねぇぞ、なんたって、ダービー馬の癖に今はこんな所にいるんだからな」
「こんな場所?」
日本ダービーが凄いという事は分かったけれど、おじさんの言っていた言葉はよく理解ができなかった。首を傾げる僕をおじさんは態々大きい方のグラウンドにまで連れて行って、色々教えてくれた。
僕はおじさん達が持つ小さな紙を買う事も出来ないが、3番の馬を応援しようと思った。
馬が大きなグラウンドに集まって、一斉に走り出す。
僕が応援する馬は茶色い毛で、他と見分けが付けれなくて必死に「3」の文字を目で追った。
馬の名前が分からなくて「3番!」「頑張れ!」って応援していたら、何故か隣のおじさんは笑っていた。
3番の馬はスタートが下手だったのか走り出してからはずっと後ろの方にいて、勝てそうにもなかった。だって、3番の前を沢山の馬が走っていて、先頭なんかはもう何十メートルと離れている様にも見えたのだから。
口では応援していても、頭は冷静に「負け」の2文字を受け入れていた。
目を惹かれて勝って欲しいと願っていたが、僕だって駆けっこで捕まる時があるから仕方ない。
「僕の3番、勝てないね」
「ん?……あぁ、まぁ、初めてはそう思うわな」
「どういう意味?」
「競馬はな、人間の駆けっこと違うんだよ。最後まで、ちゃんと見とけ」
おじさんが指をグラウンドの方に向け、僕も誘導のままに視線を動かす。僕の視界の中で、3番よりも後ろを走っていた白い馬が徐々に前へ、前へ脚を進めていた。
3番もさっきよりも脚が速くなっている様にも見えて、思わず立ち上がる。
4本の脚で地面を蹴って、少しずつ、少しずつ、他の馬を追い越して行く。
無理だと思った大きな差も狭まって、瞬きをした内に遂には一番前の馬も抜かしてしまった。
周りの何人かのおじさん達が声を荒げているのも気にならないくらい心臓がバクバクと早く動いて、息が荒くなる。
「……凄い」
「おー、久し振りに良い走りしやがったな……5レース振りの勝利か」
「ね、ねぇ! おじさん! あの馬、なんて名前なの?!」
「あいつかぁ?あいつはな」
おじさんが僕に何かを渡す。
見てみれば、おじさんが持っていた小さな紙と同じ、小さな紙。書いてある内容は分からないけれど、「3」の文字が見えて、おじさんが遊びの券をくれたのだと分かった。
有難うと言う手前、券の端っこに「200円」と書かれていて、大きな声を上げてしまった。
200円なら、残っているお小遣いをかき集めて、こっそり貯めているへそくりも全部使ったらギリギリ払えた金額だった。
2022年8月20日(土)。
見ていた風景が歪んで、思わず目を開ける。
そこにはあのおじさんも競馬場すらも消えて、見慣れた自分の家だけが映っている。
膝の上には1冊の本が開いたまま、ページに折り目まで付いて置いてある。そして、本を手に取って自分が何をしていたのかを思い出す。
夢の中と同じ様に動かせない、不便になった身体で立ち上がり、水でも飲もうと部屋を出れば、そこも見慣れた我が家が広がっている。
湯呑みを持って居間へと入れば、昨日から遊びに来ていた孫が携帯電話を弄って何やら嬉しそうに騒いでいる。
「どうしたんだ?」
「あっ! 爺ちゃん! 爺ちゃんって、競馬とか見てる?」
競馬。興味本位で潜り込んだガキの時分以降は勉強やら、仕事やらですっかり見なくなっていた。けれど、あの時の光景が目に焼き付いて、もう一度見たいと時々テレビで流していたもの。
「まぁ、少し見る程度だな」
「じゃ、じゃあさ! 昔の馬は知ってる?」
「昔? 突然どうしたんだよ。ガキの癖に賭け事か?」
「……賭けてはないよ! 正確には」
孫の口からポツリ、ポツリと放たれる先程騒いでいた訳。俺は古い人間で存在の影すら知らなかったが、今の時代は競走馬をモチーフにしたゲームが人気になり、孫もそれが好きで今はモチーフとなった競走馬を調べるのがそれを好きな奴らにとってのブームなのだそう。
「はぁ……。よく分からねぇが、爺ちゃんだって有名な名前を知ってるくらいだからな。昔の馬って言ったって、お前が好きな馬はなんて言うんだ?」
「えっとね、この娘!」
そう言いながら、孫が口にした言葉と見せてきた携帯の画面。
その言葉と、画面に写る女の子の絵と一緒に書いてある名前。何度読んでも変わらない、俺の思い出の名前。
「懐かしいな……アセビスズナか。覚えているよ、荒尾の海を背にして走り抜けた茶色の馬、差すのが得意な3番の馬」
もう、その馬が走る姿は見られない。
もう、その馬が走った場所に行く事も叶わない。
だけど、久し振りにその馬がその競馬場で走っている姿を思い出せた。
今日は寿司でも取るか。と言ってみれば、孫は驚いて立ち上がった。
その動きが面白くて、思わず笑ってしまった。
2022年8月28日(日)。
すっかり寂れた荒尾競馬場の土に汚れた観覧席に座る。
俺の知らない風景となってしまった場所ではあるが、その昔、お小遣いを握り締めて潜り込んでいた入り口や座っているこの場所は案外変わっていない様にも見えた。
「すみません。今、インタビュー宜しいですか?」
こんな寂しくなった場所でインタビューなんかとも思ったが、相手の風貌と、荒尾競馬場のこれからを思い出して察する。
良いですよ。と返せば、当たり障りのない質問をいくつかされ、俺も当たり障りのない答えを返す。
「貴方にとって、荒尾競馬場はどんな場所ですか?」
最後に出された質問を、今までとは違いゆっくりと飲み込み、よく咀嚼する。
謎の運動施設だと思っていた場所、大きいグラウンド、煙草臭いおじさんと、何となくで選んだ3番。
「……やっぱり、アセビスズナが走った場所。ですかね」
「アセビスズナ? 競走馬ですか?」
「えぇ。荒尾の海を背に逞しく走った、格好良いヤツがいたんです。と言っても、もう60年くらいは昔の話です……あ、ほらこれ、アセビスズナが勝ったレースの馬券なんです」
「当時の……正に、歴史の生き証人ですね」
「有難う御座います。私も、最後の最後に此処に来る事ができて、もう一度あの馬が走った世界を見れて良かった」
昔と違って、俺の背は伸びて少し曲がって、皮膚は皺くちゃになって、眼鏡がないと視界はボヤける。
それでも、君の姿はよく思い出せるよ。僕の格好良い、アセビスズナ。
20××年8月。
独特な海の匂い。潮騒だけが聞こえてくる世界。
誰もいないのだからと乱雑に靴と靴下を砂浜に投げ捨て波に両脚を晒す。
独特な匂いを放つ潮風が制服と髪を揺らす。
昔から海が好きだった。崇高な理由はなく、ただ何となく好きだと思っている。
映像でも写真でも何でも良い。目に入るとただ、漠然とした懐かしさで胸がいっぱいになって、涙が出る程誇らしくなる。
そして、理由のないファンタジーでしかない溢れ出る感情に身を委ねている。
「脚がふやけてしまうよ」
いつもの様にぼうっと波の動きを見ていれば突如、1人の世界に流れたもう一つの音。
肩を揺らし振り向けば、1人の老人がコンクリートの階段に座っている。
知らない男。少なくとも、アタシの記憶には今見ている老人の顔はない。
「ここにヒト、いや、ウマ娘さんが来るのは珍しい……ほら、もう上がりなさい」
「海にドレだけいようガ、アタシの勝手だ」
「帰る時に、靴の中でふやけた脚の皮が捲れても良いのかい?」
柔らかく、けれどしっかりとした芯を持つ声に舌打ちを一つ。その後に、ため息を一つ。
波が届かないギリギリに投げ捨てたバッグからタオルと、ミネラルウォーターを取り出して軽く塩水を洗い流す。
「座って見る海も、良いものだよ」
「アタシは海カラ出たぞ」
「俺が君と、話してみたいんだよ」
「ジイサン……お前、不審者カ?」
「不審者か。たしかに、昔からレース場に入り浸る不審者ではあるかもしれないね」
ジイサンから離れた場所、日差しで適度に熱せられたコンクリートの上に座る。
海の水が光を反射して、酷く目が眩む。
不思議と誰もいない海を見つめながら名前も知らないジイサンと、同じ時間を過ごす不思議な体験。
「……ここら辺にはレース場が無くて、ウマ娘の娘は皆ある程度の歳になると他の県に移ってしまう事が多くてね、君の様な娘は珍しいからつい話し掛けてしまった」
「ソーカヨ」
「君は、どうしてこの場所に?」
「カワイイコーハイチャンがレースに出っから一緒ニ連れて来られたンだよ」
「へぇ。九州だと小倉か佐賀かな。後輩と言ったけれど、此処へは1人で?」
「悪イか?」
「いや。この場所を選んでくれて、嬉しい限りだ」
杖を携えるジイサンの顔が海から離れる事は無い。
それなのに、その瞳は海では無い別の場所を、海を通したナニカを見ている様だった。
「ジイサン。ジイサンは、何を見てンダ?」
「何って、海だよ。大好きなんだ」
「違ウ。海の先、別のモンだ」
一瞬、驚いた様にアタシを映した両目。
「……その昔、この場所にはレース場があったんだ」
酷く懐かしそうにジイサンの口から出る、アタシの知らない歴史。
ジイサンがその目の中に何を映したのか理解する。
「海が見えてね。荒尾の大きな海を背景に、沢山のウマ娘が競っていたんだ。俺も、小さい頃に親へは何も言わず、勝手に入り込んでね。凄く、特別だったんだ」
「ナンダ。意外と悪ガキだったんダナ」
「あぁ。とても、ヤンチャな子供だったよ」
はっはっは。と呑気に笑うジイサンを見て、ふと思った事を口にしてみる。
「……もし、アタシがソノ無くなった荒尾のレース場で走ってたラ、ジイサンは応援シテたか?」
適当に会話の糸口にでもと思って、何となく口にした言葉だった筈なのに、ジイサンはアタシがビビるくらい、真っ直ぐに何の迷いもなく言葉を紡ぐ。
「勿論。最前列できっと、応援しているよ。年甲斐もなく声を荒げてね」
「ハハッ! そりゃア、不気味な光景ダナ!」
ジイサンはまた笑って、酷いなとアタシの肩を優しく杖で突いてくる。
ジイサンはずっと少年の様な顔で笑っていた。