「……青ざめた血の夜、と呼ばれるものがある」
誰かが、呟いた。
「赤子の儀式により訪れるその夜は、
零れそうなほど赤く大きな月が登り、人は狂い、皆獣になる。
その、上位者に触れる儀式を止めることは困難を極め、
最終的にそれは蜘蛛に封ぜられ、仮初めの月夜が戻った」
パシャ……
何者かが、水を歩く。
黒い、その人影……先輩は、
月明かりの照らす澄みきった、永久へ続く湖を歩く。
その瞳には、決意……そして、どこか迷うような感情があった。
「……仮初めの月夜。
そう、訪れたのはただの仮初。
夜明けを見るには、ただ、ただそれは遠かった」
……水音が止まる。先輩が立ち止まる。
その眼前には、綿毛にも似た体毛を全身から生やし、
真っ白な頭部からは大量の人の瞳が生えた、
芋虫のようにも見える悍ましい、[蜘蛛]がいた。
「今から私は、儀式を解く。
一度赤い月を秘匿から解かねば、真なる夜明けは訪れない」
……先輩が、静かに、自身に言い聞かせるようにそう呟く。
眼前の蜘蛛はその様子を、ただ、訳も分からずじっと見上げていた。
「……セリカ。こうするしか、道はないのだ」
最後、ただ一言告げられたその言葉は、ここには居ぬ誰かへの懺悔。
これから起こるであろう、狂気と絶望に彩られた悲劇への前書き。
……先輩は、一つ息をついた。
瞬間、
バチィッ!!
ノコギリ鉈に雷光が宿ると同時、先輩は目の前の蜘蛛の側面へと回り込むと、
柔らかいその胴体目がけてそれを振り上げた。
________________________________________
「オオオオオッ!!」
白い、白い、静かな粉雪の振る、古びた廃城のレンガ造りの屋根。
そこに形作られた広場のような場所。
降り積もった新雪の上では、古びた黒みがかった血と、色鮮やかな赤の鮮血が、
サイケデリックなコントラストを描いている。
その場所に何者かの雄叫びが響き渡った。
その声の主は、金の王冠をかぶり、身体をローブで包んだミイラだった。
既に血は渇き、抜けきっているはずなのに、
ローブには切り傷と共に、今しがた流したばかりの古い血で濡れている。
そして、骨と皮ばかりの灰色の手に握られるのは、怨霊を宿し、紅に輝く大鎌と剣。
その身体が信じられないほど高く飛び上がり、
襲撃者を切り裂かんと大鎌が大きく振り上げられる。
「……っ!」
その動作を見た襲撃者であるセリカは、
今しがた自分が吐き出した鮮血を軽くぬぐうと、
輸血液を投与する時間も惜しいとシンシアリティを握りしめる。
一瞬の静寂。瞬間、
ヒュオッ
風切り音と共に、セリカ目掛けてミイラが突進。
そのまま大鎌を少女の身体に向けて振る
「そこっ!!」
タタタッ!!
小気味よい三点バーストの射撃。
シンシアリティから放たれた弾丸が敵の関節に、胴体に突き刺さり、
その体勢を大きく崩す。
そのまま無防備に曝け出された敵の胴体に、
セリカはステップで急接近すると素早く右腕を引く。
そこに、レイテルパラッシュが溶け込んだ。
「せあっ!!」
貫通、
相手との身体差を物ともせず、セリカの腕が相手の胴体を貫く。
セリカはそのまま、相手の体内をかき回した末に一気に腕を引き抜いた。
決して軽くないはずの相手の身体が、
腕を引き抜いた拍子に毬のように跳ね飛ぶ。
そして、敵の傷口からあふれだした大量の古血を浴びた瞬間、
セリカの肩口から脇腹にかけてを深々と切り裂いていた大きな傷が、
一瞬で何事もなかったかのように治癒する。
「……よし、輸血液は温存できた」
そう、自分を励ますように呟いたものの、
セリカは油断なく、吹き飛ばされた相手のことを視界にとらえ直す。
瞬間、
……パキリ
僅かに骨がきしむ音を立てて、相手はすぐに何事もなかったかのように立ち上がった。
その様子に、セリカは小さく唇を嚙み締める。
7回……7回だ。
枯れ果てた臓物に手を突っ込み、
ぐちゃぐちゃに掻き回して致命傷を負わせたはずなのに
それでもなお敵の動きに衰えは見られず、そして恐ろしく強い。
そのせいで今まで幾度となく両断されてきたのだが……
とはいえ、今までで一番うまくいっていることは事実だ。
……焦るな、焦るな。
セリカがそう自分に言い聞かせる中、敵は剣を大きく振り上げた。
その先端に紅の閃光が宿ったかと思うと、
虚空から血の短剣が形成され、それが地面に突き立てられた。
「っ!!」
その行動の意味を、何度も殺されたことによりよく知っているセリカは
慌てて単発発射のレイテルパラッシュの方で短剣を狙うが、
剣を抜き放ったまま急接近してきた敵の存在によりあえなくそれを中断。
バックステップしてそのまま遮蔽物の陰に駆け込んだ。
瞬間、先程までセリカがいた場所を紅の剣の軌跡が横切ると同時、
遮蔽物に短剣から召喚された血の剣の嵐が突き刺さる。
……どのような場合においても、敵と対峙するとき
最も危険なのはその戦いの最中に死角から確実に攻撃してくる存在だ。
今回で言うと、剣の嵐を発生させる短剣の設置物がまさにそれだ。
できれば即座に破壊して相手の攻撃の手数を減らしたかったが、
こうも距離をとられてはそうもいかない。
「……でも、もうあと少し」
セリカは小さくそう呟く。
確証はない。
けれど、段々と狩りに慣れるにつれ、
相手があと、どれだけ攻撃したら狩れそうかが、
セリカには何となくの勘で判別できるようになりつつあった。
……だからこそ、
セリカは今この時まで取っておいた奥の手をすぐに取り出せるよう、
記憶の中にその道具を予め思い浮かべておく……瞬間、
「オオッ!!」
セリカへと間合いを詰めた相手が、鎌を鋭く、横なぎに振るう。
そのわずかな間合いをセリカは受け身をとることですり抜けると、
即座に視点を血の短剣へ向ける……が、
ズシャッ
セリカの身体から鮮血が散る。
その身体には、たった今鋭く飛んできた血の剣が大量に刺さっていた。
それはすぐにほどけるように消え、
代わりに残された刺突痕から大量の血が流れ出る。
「かふっ」
セリカの口から血がこぼれる。
けれど、彼女の動きは止まらない。
そのままレイテルパラッシュの銃口を無理矢理短剣に向け、発砲。
その弾丸は寸分の狂いもなくそれの柄に着弾し、
一瞬で全体を崩壊させた。
しかし、それもつかの間。
そこにできた隙をつかんと敵が左手の直剣を振りかぶる。
それをセリカは辛うじてステップで回避すると、
懐から奥の手を取り出した。
真っ白なシルクがかぶせられた試験管……アリアンナの血だ。
「今回も頼んだわよっ!!!」
セリカは鋭く吠えると、栓から飛び出してきた針を太ももに深々と打ち込んだ。
瞬間、セリカの身体の傷が回復すると同時、
その全身を渇望にも似た何かが駆け巡る。
敵の追撃、しかしセリカはそれを素早く回避すると
レイテルパラッシュを直剣へと変形させながら正面に突き出した。
一撃、二撃、三撃
刺突が相手の身体を貫くたび、古血が舞う。
止めといわんばかりセリカがレイテルパラッシュに力を込め、身体を引き絞ったとき、
敵はたまらず後方へと飛び退った。
……普通ならば、セリカもその間にスタミナを回復するため距離をとる。
しかし、今回彼女は短く息を整えたのみで、即座に相手への追撃に移った。
「!!」
セリカの予想外の動きに驚愕するも一瞬、
ステップの勢いを乗せた横一文字の斬撃を宙に飛び上がることで回避、
そのままセリカのヘイローの中心……即ち、頭頂部目がけて
大鎌を振り上げると落下の勢いのまま振り下ろす。
セリカはその一撃を、自分の経験に任せて辛うじてステップで回避した。
……普段通りであれば、その時点でセリカのスタミナは底をついていただろう。
しかし、アリアンナの血の力を一時的に得たセリカは、
普段以上にスタミナの回復速度が高まっていた。
セリカは反転と同時、地面に大鎌の刃が突き刺さり、
一瞬、行動の止まった敵に向けてレイテルパラッシュを引き絞る。
「これで、終わり!!」
ドシャッ!!
瞬間、弾かれるように突き出されたレイテルパラッシュの先端が
敵の胸を勢いよく穿ち、貫通する。
「ガッ!?」
その衝撃で、敵の身体が震える。
……それはやがて末後の痙攣へと変わり、
それと同時にその巨躯は降りしきる雪の中に溶けるように消失した。
ただ、その頭上にあった王冠のみがその存在がいたことを示し、
心地の良い金属音を立ててセリカの足元に転がった。
YOU HUNTED
「……っはぁぁぁあ……ようやく、ようやく勝てた」
敵が雪の中に溶け消えてからも、
暫くの間敵を貫いた体勢のまま固まっていたセリカだが、
ようやく敵を撃破したことを理解したのかその場にぺたりと尻餅をついた。
……結局、ゲールマンとの対話でモチベーションは回復したものの、
その後も2回程殺されて12回目で撃破。
……今思ってみても、恐ろしい強敵だった。
「……まあ、その分収穫も大きかったし別にいっか」
そう呟くと、セリカは目の前に転がった王冠を手に取った。
少し色褪せてはいるものの、
金で作られ、各所に所狭しと宝石の嵌ったそれはずっしりと重たく、
素人目にも明らかに高価なものだった。
「えへへ……売ったら何円で売れるかな」
もしかしたらこれ1つで借金の大半を返せてしまうかもしれないな……
頬を緩ませて、幸せなひと時の妄想に浸るセリカだったが、
やがて一つ息をついて立ち上がると、懐にその王冠をしまった。
「さて……用事も終わったし、早くオドン教会に帰らないと」
また、随分と空けてしまった。
きっとリリーちゃんも寂しがっている。
勝利の余韻に浸るのもそこそこに、
セリカはいつも通り、いつの間にか現れた灯りへと向かいそこへ触れる。
……セリカの攻略していた廃城カインハーストはヤーナムから遠い。
だからこそ、セリカは起こりつつある異変に気が付かなかった。
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いつも通り狩人の夢の中で墓石に触れ、見慣れた光景を脳裏に思い描く。
すると、身体が一瞬宙を舞うような感覚と共にそこへ降り立つ。
……普段となんら変わらない帰還手順だ。
「ふぅ……」
セリカは一つ息をつくと、そのまま立ち上がる。
そして目を開ければ、いつものように……
「う、うぅ」
「……え?」
その時、苦しそうなうめき声がセリカの耳朶を打った。
その声は……確かにアリアンナのものだ。
慌ててセリカは彼女の方を見た。そこでは……
「……!!アリアンナさんっ!?」
アリアンナが椅子に座ったまま蹲り、苦しそうに自分のお腹を押さえていたのだ。
ただならぬ様子の彼女に、セリカは慌てて駆け寄る。
その足音で、漸く気が付いたのか、アリアンナがよろよろと顔を上げた。
「……ぁ、セリカさん……用事は終わったのね?」
そう言って、アリアンナは辛うじてセリカに微笑みかける。
……けれど、その額には脂汗が浮いており、息も荒い。
「そんなことよりアリアンナさんどうしたの!?
何か獣の病以外の病気でも……」
「……ふふ、安心して……体調が、少し悪いだけだから……くうっ」
セリカを安心させようとしたのか、アリアンナがそう言葉を紡ぐも
その瞬間に痛みが襲ってきたのか、苦悶の声をあげる。
その様子に、セリカの方がさらに焦る。
「ちょ、ちょっと明らかに少しって状態じゃないって!?
しばらくは血の施しもいいから安静にして!」
「……そうさせて、もらうわ。ごめんなさいね……」
セリカの言葉にアリアンナは頷くと、
ゆっくり肘掛けにもたれかか……
ろうとしたところでハッと何かに気が付いたように顔を上げた。
「そう、セリカさん……!実は……うっ」
「アリアンナさんっ!?」
アリアンナがセリカに何かを口にしようとしたものの、
その言葉は形になることなく途切れる。
そんな彼女にセリカが呼びかけた、その時、
「セ、セリカさんには俺が説明するよ!だからその、あんたは休んでてくれ!」
背後で彼女らのやり取りをはらはらとした様子で窺っていた
赤いローブの男がそう呼びかけた。
緊張しているのか、その声はとても上ずっていた。
……けれど、その申し出はセリカにとっても、
アリアンナにとってもありがたいものだった。
「わかった!……それじゃあ、アリアンナさん。安静にね」
「えぇ……」
セリカはアリアンナと頷き合うと、
彼女の下から離れそのまま男の下へ向かった。
「あぁ、ありがとう。俺なんかの言うことを気に留めてくれて……」
「いいのよ別に気にしなくて。それで、私に伝えたい事って何?」
先ほどで勇気を出し切ってしまったのか、
またマイナス思考に陥り始める男を押しとどめつつ、
セリカは彼にそう問いかける。
「ああ、そのことなんだが、リリーちゃんのことで……」
「……リリーちゃん!?」
その単語に、セリカは思わずそう聞き返した。
……そういわれて、ようやくセリカはその違和感まで思考が行きついた。
そうだ、教会内にいることこそほとんどなくなったとはいえ、
リリーはいつも教会の入り口付近にいる。
自分が帰ってこないことに、気が付かないはずはないのだ。
呆然とするセリカに、男は言葉を続ける。
「さっきから声どころか足音も全く聞こえないし、
そ、それに、外も嫌な感じがするし……俺、心配で心配で……」
「……わかった。すぐに探してくる!」
セリカはそう答えると、全力で教会の外へと駆け出した。
男が何か声をかけていたが、セリカにはすでに聞こえていなかった。
リリーがいない。
そのことが、何よりもセリカの焦燥を駆り立てていた。
「リリーちゃん、どこっ!!?」
そう声をかけながら、セリカは教会の外へと飛び出す。
けれど、リリーの姿はどこにもない。そして何より……
「……え?」
セリカは、言葉を失った。
辺り一帯が、赤い月明かりに照らされた青白さはなく、
ただひたすらに、ほんのりとした赤に染まっている。
空を見上げる、そこには……
「月、が……」
そこにあったのは、青白い静かな満月ではなかった。
どこまでも赤く、赤く、今にも蕩け落ちてしまいそうなほどの血の赤に染まった、
月だった。
周囲の夜空は、まるでその月に血を抜かれてしまったかのように青ざめ、
ただ、不気味に地上を染め上げていた。
ふと教会の外壁を見れば、
セリカが狩ったものより一回り大きいアメンドーズが張り付いて、
じっとこちらの様子を窺っている。
蕩けそうな赤は、見ているだけで狂気に堕ちて、気が狂ってしまいそうだ。
……明らかな、明らかな、狂的な異常。
それが、セリカの精神をキリキリと締め上げてゆく。
「……リリーちゃん、リリーちゃん!!!」
はたと我に返ったセリカから、もはや悲鳴のような声が発せられる。
見つけなければ、取り返しのつかないことになる。
……それを証明する手段はない。
だが、確かな確信に近い直感が、セリカの心に突き刺さった。
「リリーちゃん、返事して……!!!」
セリカはそう呼びかけながら、教会の周囲を探し続ける。
……その時、教会の端の石像の暗がりに、ちらりと蹲る小さな人影が見えた。
「……リリーちゃん!!」
その声に、小さな人影……リリーの後姿が、びくりと震える。
……リリーは別にどこかに行ってしまったわけでも、
獣に襲われてしまったわけでもなかったのだ。
セリカは、安堵の息をつくとリリーのところへと足を踏み出した。
「もう……心配したんだからね、
ダメじゃないの、私がいないのに教会の入り口から離れちゃ。
外もこんなになってるし……」
緊張がほどけたからか、
そんなことを言いながらセリカは彼女の下へと歩み寄ると、そっと手を差し出した。
「とりあえず、外が何だか変みたいだし……早く」
「来ないでっ!!!」
辺り一帯に悲鳴にも近い声が響き渡った。
セリカの言葉が、それにかき消される。
リリーは、セリカから離れるように、
更に石像の奥へ奥へと後退ると、ギュッと蹲る。
「……リリー、ちゃん?」
……ただならぬ様子のリリー。
何より、彼女に拒絶されたことに呆然とセリカが呟いた。
……銅像の陰で小さくなった彼女からは、微かな嗚咽がこぼれてくる。
こぼれた透き通るような涙が、石畳を濡らしてゆく。
「ぐすっ……セリカお姉さん……私、変になちゃったよぉ……」
リリーから、涙交じりの、そんな声が聞こえて来た。
……その言葉を聞いたセリカに、急激な悪寒が押し寄せてくる。
「お月様が急に赤くなって、教会の壁に変なのが張り付いてて……
怖くて、アリアンナさんに助けてもらおうとしたら、
お香の香りがとっても気持ち悪くて、
でも、でもそれなのに、おばあさんとアリアンナさんと赤ローブのおじさんが」
セリカに向けてリリーがぽつりぽつりと、ぐちゃぐちゃの言葉が紡いでゆく。
それをセリカは、何もできず、ただ固まっていた。
セリカの脳裏で、自分の中にある何かが叫び続ける。
……ダメだ、聞いてはいけない。これは聞いてはいけない。
そんなの嘘だ。有り得てはいけないことだ。
聞こえない、聞こえない、聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない
「……とっても、おいしそうに見えたの」
……聞こえた。
瞬間、セリカの中で、確かに時が止まっているように感じた。
……心臓の鼓動がおかしい。呼吸がうまくできない。
感じたこともないような、身を締め付けるような何かが、身体を蝕んでゆく。
その言葉を皮切りに、リリーから声が溢れ出してくる。
「みんなを殺して、血を飲みたいって、肉を食べたいって、
頭の中で響いてくるの。
身体が言うことを聞かないみたいに、ずっとずっと響いてくるの」
「……嘘よ」
セリカの口から、そんな言葉が零れた。
セリカはリリーに向けて微笑む。
自分の脳裏に響く不安を押し殺すために微笑む。
けれどその笑顔は、歪に、歪に引き攣っていた。
「あはは、嘘……そうよ、嘘よ、嘘に決まってる……!
ダメじゃないのリリーちゃん。冗談でも、そんな嘘ついたら……」
「……セリカ、お姉さん」
セリカの、どこか調子の外れた言葉に、
今にも泣きだしそうなリリーの声が答える。
俯いていたリリーの顔があげられる。
……涙で濡れたその瞳は、どこまでもどこまでも、ぐずぐずに蕩けていた。
その瞳が、セリカを射抜く。
悲しげに、セリカを射抜く。
セリカの、自分を保とうとした微笑みすら、止まる。
「……お姉さん。私……獣になんてなりたくないよ……」
「……リリーちゃん。大丈夫、きっと気のせいだよ、
ほら、誰にだって気持ちがぐちゃぐちゃになる時だってあるし、
私だってついさっきまで気持ちがぐちゃぐちゃで上手くいってなかったし、
きっとお腹がすいて変なこと考えてるだけだからねっ?」
最早文章の形すら危うい乱れた励ましを、
セリカはただひたすらにリリーにかける。
「……そうだ!前に狩人の夢にすごい人形さんがいるって話したでしょ?
あの人ってものすごく紅茶をいれるのがうまいの。
それに時々おいしいお茶菓子も作ってくれるから今度持ってきてあげるね。
だから、だから、ね?」
「……お姉さん」
セリカは、ただひたすらに、微笑みを繕い続ける。
その頬を何か熱いものが伝っていくことを素知らぬふりして、
そっとリリーに手を差し伸べる。
「……出ておいで、リリーちゃん。
しばらくは先輩の依頼も入ってこないだろうし、またたくさん遊ぼ?
外の世界の話もまだまだたくさん残ってるし……ほら」
「…お姉さん」
その黒い革手袋で包まれた手を見て、
涙を流しながら、微笑みかけるセリカを見て、リリーはぽつりと呟いた。
その顔に、ふっと小さな笑みがこぼれる。
……柔らかで、儚い、諦観の笑みが。
「……っ、あ、あー、
狩りが終わったばっかりだからもしかして血が残ってたかな?……はい」
セリカは、何かに気が付いたようにそう言うと、
手袋をとりすっかり肉刺ができたその手を差し出した。
そんな彼女に、リリーは呼びかける。
「お姉さん」
「ほら、リリーちゃん、早くそこから出てきてって」
セリカは変わらず、リリーにそう呼びかける。
……もう一度、
「お姉さん」
「ほら」
……もう一度、
「お姉さん」
「……ほら」
セリカの声が掠れる。
……もう一度、
「お姉さん」
「……」
セリカの口が、小さく、何かの形に動いた。
……もう一度、
「……お姉さん」
「…………やめて」
……小さく、小さく、沈黙の末に、そんな言葉がセリカから聞こえた。
その表情に最早微笑みはなく、今にも壊れてしまいそうな悲哀のみが宿る。
そんな彼女に、リリーが微笑みかける。
「お姉さん、ありがとう。
私を助けてくれて。
私と一緒にいてくれて
私のために、泣いてくれて。
……でも、もういいの」
「……やめて」
リリーがゆっくりとセリカにそんな言葉をかけながら、
彼女の手を取り、石像の間から出てくる。
セリカの瞳から溢れる涙の粒が、大きくなってゆく。
「ねえ、セリカお姉さん。お願いがあるの」
「やめて……!」
「私を、狩って」
……その言葉が、セリカには嫌に大きく聞こえた。
「……私、獣になんてなりたくない。せめて最後は、人として死にたい。
だから、最後はセリカお姉さんに狩ってほしい」
「……やだ」
セリカは、リリーの願いを拒否した。
掠れた声で、しかしはっきりと。
そんな彼女の頬に、リリーはそっと手を当てた。
……暖かい。
「私だってお姉さんとこれでお別れなんて嫌だよ。
もっと一緒にいたかった、一緒に夜明けを迎えたかった」
「やだ、やだよ……」
リリーはただ、柔らかくセリカに微笑みかける。
その頬に、涙が伝う。
……その時、リリーはふと思いついたように
自分の髪を止めている白リボンに手をかけると、そっとそれを解いた。
「……これね、私が物心ついたときに、
はじめてお父さんとお母さんからもらった誕生日プレゼントなんだ」
そう言うと、リリーはそのリボンをセリカの手に握らせる。
……セリカは抵抗したものの、
それは、リリーに簡単に押しのけられるほど、弱々しいものだった。
「私が死んでも、ずっとそばにいるから。
だからお姉さん、安心して、ね?」
「……」
セリカはしばらくの間、手の中の白リボンと、
蕩けた瞳のリリーを、代わる代わる見ていた。
……けれど、やがて何も言わずレイテルパラッシュを抜き放った。
赤い月の光に照らされて、その刀身は妖艶に煌めく。
それを見て、リリーは少し驚いた様子だったが、
やがて、どこか悲しむような、そんな微笑みを浮かべた。
「ありがとう。セリカお姉さん……ごめんね」
……セリカは何も言わない。
ただ、今にも崩れ落ちてしまいそうな身体を奮い立たせ、
リリーを軽く左腕で抱き寄せると、
震える手で、レイテルパラッシュの先端をリリーの胸元へ向ける。
「……ねえ、お姉さん。最後にもう一回だけ、お耳が触りたいな」
「……わかった、わかったよ」
リリーの言葉にセリカは今にも消えてしまいそうな声で、辛うじてそう答える。
リリーはそれに頷くと、
帽子の下からそっと、ゆっくりと片手を差し入れた。
……さわさわと、少女の小さな手が自分の耳へと触れる。
普段ならこそばゆいはずだというのに、
今は、不思議なほど何も感じない。
「えへへ、やっぱりふかふかしてて、気持ちいいな」
「……っ、ぅ、ああっ」
セリカの口から、必死で発すまいとこらえていた嗚咽が零れる。
……やがて、リリーはその感触を堪能して満足したのか、そっと手を下した。
「……うん、お姉さん。もう、大丈夫」
「……!」
ギリ、と。自分の歯が砕け散ってしまいそうなほど、
セリカは歯を嚙み締める。
……いつも通り、いつも通りにすればいい。
心臓を一突きすれば、それで……
それで、終わりなのだ。
貫通
鮮血
刃を引き抜けば、
セリカに、レイテルパラッシュと共に握ったままのリボンに、真紅の華が咲いてゆく。
「セリカ、お姉さん……ありが、と」
声が、聞こえる。声が、掠れる。声が、消えてゆく。
「お父さんと、お母さんと、おじいさんと……おんなじぐらい、大好き、だよ」
________________________________________
静かだ。
とても、とても静かだ。
未だ手の中でこと切れた少女の身体は暖かい。
けれど、とても静かだった。
「あ、ぁあ、あ……」
人を、殺した。守りたかった人を、最愛とすらいえた、大切な人を。
「あぁあああぁああああああああああ!!!」
自分が、殺したのだ。
<リリーの白リボン>
血に濡れた白リボン。
元の白はほとんどなく、
滴る血は未だ暖かく、ただ持ち主の生きた痕跡だけがそこに残る。
獣の病に侵された少女は、
せめて誰も殺さぬよう、自身の大切な人に迷惑をかけぬよう、死を願った。
結果として、そこには取り返しのつかぬ慟哭が残った。