君は、朝に目覚める。
……そこは、ほんの小さな執務室だった。
最低限、仕事ができ、簡単な茶器が置けるほどの大きさの執務机。
最低限、自身が座り、そして1人の客人をもてなせるだけの簡素な椅子。
あとは、古い資料と本と、それを置くための棚ばかりが部屋を埋めている。
唯一部屋にある大きな窓の外は、深い霧ばかりが立ち込め、景色を窺い知る事はできない。
……そして、その部屋には今、茶器に紅茶が注がれる温かな音ばかりが響いていた。
「こうして2人だけでお茶をするというのは久しぶりだね、マリー」
ティーカップに注がれる琥珀色の紅茶を見ながら、
頭髪に白髪の混じった男性が、懐かしそうに呟く。
「……そう、ですね」
男性の言葉に対面の椅子に座ったマリーは辛うじて返答した。
その声に宿るのは、警戒、疑問、混乱……
そして、それら全てを塗りつぶしてしまいそうな、暗い情念。
そんな彼女の目の前に、少しの間を置きコトリと音を立ててティーカップが置かれた。
……湯気がゆらゆらと揺れる。
鼻をくすぐる香りが心地よい。
けれど、マリーはそのカップの持ち手に、手を伸ばせずにいた。
「遠慮はいらないとも。これはただの紅茶だよ」
「…………」
そんな彼女に、男性は穏やかにそう言うと自分の分の紅茶にゆっくりと口をつけた。
その動作に導かれるように、マリーはカップへと手を伸ばすと、ゆっくりと口元へと移動させる。
……琥珀色の液面に映る自分の瞳は蕩けておらず、在りし日のままだ。
「…………」
その液面に、マリーは恐る恐る口をつけると、紅茶を飲んだ。
ふわりとした香りが広がり、温かな紅茶の味が染みる。
間違いなく、それは紅茶の味だった。
……あぁ、これは夢なのだ。
マリーの脳裏に、そんな言葉が浮かんだ。
そうでなければ、今の状況は説明がつかない。
今も自分の目の前で微笑んでいる人が、いるはずもないのだ。
……マリーはゆっくりとカップを置き、静かに息をつくと、声を発する。
「ありがとうございます。ローレンス様」
「……別に、もう敬称を使う必要はないんだよ?」
マリーの言葉に、ローレンスは虚を突かれたようだった。
そんな彼に向けて、マリーはゆっくりと言葉を告げる。
「それは私の性のようなものなので。それに……」
……恐らく、この先の言葉を発することも、誰かに告げることも。
自分の生の中でこれが最初で最後になるだろう。
例えこれが夢であり、自身が作り上げた一時の虚像だとしても、だ。
あぁ、我が主よ。どうか、教えを守れぬ私をお許しください。
心の中で、マリーは口ずさむ。
けれどその祈りは、純粋で敬虔な信徒であったあの頃の自分のものと比べると、何処か空っぽに聞こえた。
「ローレンス様」
マリーはその名を呼ぶと、
目の前にいる彼に向けて微笑む。
その微笑みは何処か、暗く澱んでいた。
「私は、あなたのことが嫌いです」
はっきりと、そう彼女は口にした。
……しばらくの間、小さな執務室の中に沈黙が流れる。
その中で、ローレンスは考え込み、何か言葉を選んでいる様子だった。
そしてその末、マリーにゆっくりと問いかける。
「……本当に、それだけかい?」
「ふふ、まさか。
これでもできるだけオブラートに包んだんですよ?」
マリーはそう言ってくすりと笑った。
この、自分の奥底に巣食う感情を言語化することは自分にはできないだろう。
人々を救うという目標に、何処までも一途だった。
罪のない人々を、医療の進歩の命の元に鏖殺した。
ヤーナムにただ1人投げ出された自分を、助けてくれた。
自分から、人としてのまともを奪い去った。
目標の達成の為なら、自身の犠牲すら厭わなかった。
その願いは終ぞ叶うことなく、自身が獣へと成り果てた。
尊敬、恐怖、親愛、憎悪。
それらがぐちゃぐちゃに入り混じった暗い感情。
それをできる限り纏めて言うならば、
自分はローレンスの事が、[嫌い]……なのだ。
「……そうか」
マリーの言葉を聞いて、ローレンスはぽつりと。
呟くように返答すると、カップを置いた。
……その口元には寂しそうな、しかし何処か安堵したような笑みが浮かんでいた。
「君がそう言ってくれて、安心している自分が何処かにいる気がするよ。君に恨まれているという事実が心地よいというか……不思議なものだ」
「……後悔、しているのですか?」
「してもしきれないさ」
マリーの問いかけにローレンスはそう言って、自嘲した。
「[兼ねて血を恐れ給え]
私は、結局のところ今この時まで先生の言葉を知ることはなかった。友人へ誓いも果たせず仕舞いだ。
……今更、追憶が戻るはずもないのだけれどね」
諦観、後悔。
ローレンスの声に滲むのは、言葉通りの感情の色。
その姿に在りし日の、良くも悪くも真っ直ぐだった彼はいない。
……
「ローレンス様。懺悔、なさいますか?」
「……マリー?」
少し考え込んだ後、マリーはローレンスにそう問いかけてた。
不思議そうに名を呼ぶ彼に向けて、
彼女は軽く、祈るように腕を組むと、柔らかく微笑む。
「私達の教会には、懺悔というものがあります。
懺悔室で罪を告白し悔い改めれば、我が主は許してくださる……
……あちらだと、私は懺悔室の聞き手であったもので」
「……なるほど。敬虔な君らしいことだね」
マリーの説明にローレンスはそう返答した後、少しの間をおいて考え込むように自身の掌を見つめた。
「懺悔、か……」
その手には、年を重ねてきたことによる皺と、
ヤーナムの各地を巡り、その都度作られた様々な跡が刻まれている。
ローレンスはその痕跡を、しばらくの間見ていた。
……けれど、やがてその手を握りしめると、改めてマリーの方向へと視線を移す。
「いや、辞めておこう」
ローレンスは、はっきりとそう口にした。
……マリーは何も言わない。ただ、静かに彼を見つめている。
静寂の中で、ローレンスは言葉を続ける。
「私に許される資格も、そもそも懺悔する資格もない。
……これは、警句を忘れた私の罪だ」
「……そう、ですか」
その言葉に、マリーは一瞬驚きの表情になった後、短くそう返答した。
……しばらくの静寂の末、マリーはふっと笑みを溢すと、組んでいた手をゆっくりと解くと、口を開いた。
「そう答えていただいて、安心しました」
「……おや」
マリーの言葉に、ローレンスは少し驚いた様子だった。
「ひょっとすると、私は試されていたのかな?」
「……はい。少し、試させてもらいました」
ローレンスからの問いかけに、
マリーは少しの間をおいてそう返答すると、淀んだ記憶を思い返す。
「……あの時、ローレンス様は仰いました」
……それは、自身が医療教会の暗部を知ることとなった漁村の悪夢。今も確かに脳裏に刻み込まれている記憶。
「[せめて彼らが、獣の病を克服するための確かな糧となってくれることを祈って。彼らの死が、無駄死でないことを祈って]
……確かに、そう仰いました」
「そうだね。確かに、そう言ったとも」
「ふふ。覚えてくださっているようで何よりです」
マリーの言葉に、ローレンスは頷く。
その返答に、彼女はまた、笑みを溢した。
……柔らかく、そして、薄暗い。そんな笑みだった。
「ローレンス様。あなたの願いの為に、或いは誓いの為に。
死んだいった数多の人々の死が、無駄死であってはいけないんです。だから……」
マリーは静かに言葉を続ける。
ゆっくりと、柔らかく、ローレンスにそれを突きつける。
「だから、例えその誓いが終に叶わぬものであったとしても、あなただけはこれを否定してはいけないんです。背負わなければいけないんです。
……懺悔して、許されては、逃げてはいけないんです」
「……あぁ、そうとも。わかっているとも」
マリーの言葉にローレンスは力強く返答する。
……ああ、戻ってきてくれた。
揺らがぬ意識を宿した、その瞳が。
その姿を見て、少女は心の中で嬉しそうに、歌うように口ずさむ。
ああ、ローレンス様。ローレンス様。
あなたはいつまでも、そのままでいてください。
私は揺らがぬその姿を、尊敬し……そして、憎んでいるのですから。
「ふふふ、それなら良かったです」
マリーはそう言って笑った。
心の底から、嬉しそうに。
「……良くはわからないが、
君がうれしそうなら、私はそれでいいとも」
そんな彼女を見てローレンスは不思議そうな表情をしたものの、やがてそう言うと、安堵したように1つ息をついた。
……そこからまたしばらく、彼らの間に静寂が流れる。
その後、紅茶をまた一口飲んだマリーは、
カップを置くとローレンスに問いかけた。
「ローレンス様。私がヤーナムから消失した後、マリアさんについて何か知りませんか?」
「ん、あぁ……彼の一番弟子の彼女か。
そう言えば、君は彼女と特に親しかったね」
口にしたのは、マリーが抱えるヤーナムで最も大きな心残り。
彼の地で得た大切な友人……漁村での惨劇を経て、狩人であることを捨ててしまった女性の名前。
あの時以来文通こそしていたものの、それは唐突に途切れることになってしまった。
せめて、せめて無事であることが知りたかった。
……しかし、
「……すまない」
ローレンスの返答は歯切れの悪いものだった。
「君が呼びかけの実験に巻き込まれて消失したすぐ後に、私も限界が来てしまってね。理性なき聖職者の獣として狩られて、悪夢に囚われて……そしてその残滓も狩られ、それっきりだ」
「……そう、ですか」
その言葉に、マリーは途切れ途切れの返答を辛うじて返した。
……心の何処かではわかっていた。
あの時のローレンスの様子は見るからに手遅れだった。
けれど、それでも……それでも
………
「……?」
その時、ふと下へと視線を落としたマリーは何かに気がついた。
……それは、オレンジ色の光の破片。
煌々と輝くそれはゆらりゆらりと揺らめいた後、解けて消える。
気の所為、だろうか?
脳裏を駆け抜けるのはそんな言葉。
……しかし、
「……え?」
その燐光は然程立たぬ内に、再びマリーの視界の中へと飛び込んできた。
ゆらり、ゆらり。
ゆらり、ゆらり。
……段々と揺らめく燐光は増えてゆく。
その時、漸くマリーはそれの正体に気がついた。
これは……火の粉だ。
「どうやら、そろそろお別れみたいだね」
その時、明らかな異常に驚くマリーに向けて、
そんな声が聞こえてきた。
見れば、ローレンスが寂しそうな表情でこちらを見ている。
……いつの間にか、執務室の中全体で火種が燻っていた。
「お別れ……って、ローレンス、様……?」
「簡単なことだよ。君は故郷へと帰り、朝に目覚めるんだ」
そう言って、ローレンスは紅茶のカップを傾けた。
その間にも火種は炎となり、部屋を焼いてゆく。
部屋を覆う古ぼけた本棚を。
積まれた数多の本の山を。
使い古された執務机を。
オレンジ色に焼いてゆく。
……夢は、いつか終わるもの。
脳裏をそんな言葉が巡る。
……でも、そんなこと……!
「……帰るって、そんな、今更何処へ帰ればいいって言うんですか……!?」
気がつけば、マリーはそう叫んでいた。
そうだ、今更何処に帰ればいい。
自分の現実の身は恐ろしい獣に成り果てた。
これは、薄らぐ己の意識が作り出した最後の幻想……そうでは、なかったのか?
その時、広がりゆく炎がマリーの肌へと触れた。
……けれど、それが彼女を焼くことはない。
ただ優しく、温かい。
「……君は、私とは違う」
混乱するマリーに、ローレンスはただ静かにそう告げた。
炎は周囲の把握が困難になるほど燃え上がり、2人の姿を取り囲む。
……その時、ローレンスの頬に火が灯った。
「マリー、君には私にはない神秘の祝福がある。
そして、獣と成り果てて尚、君の帰りを待ち望んでいる友人がいる」
「……そんな、そんな、こと……」
まだ、帰れる場所があるのか?
獣へと転じた自分が、帰っても良い場所があるのか……?
……ふと手を落とした先にある、夢の中の自分の掌。
獣の様相を示さぬ、無垢の掌。
それを見て尚、マリーは未だにローレンスの言葉を信じ切ることが出来ずにいた。
彼女は再びローレンスへと視線を向ける
彼の頬にあったほんの小さな火種に過ぎなかったそれは、
いつの間にか全身へと燃え広がり、彼の身体を焼いていた。
「……すまないね」
炎の中、ローレンスがほんの短くそう口にした。
「君から獣としての全てを取り去ることはできない。
血への渇望は変わらず、瞳は蕩けたままだろう。
残滓たる私からせめてもの贖罪に贈れるものは、ほんの僅かなものだ」
ローレンスの肌が焼け落ちる。
そこから。燃え立つ灰色の毛皮が現れる。
……段々と、その姿が膨れてゆく。
「許してくれ、とは言わない。
私の行動が、君を取り返しのつかない場所へ導いた事実は消えない」
「……あ、ぁ」
炎の渦の中、そこには燃え盛る灰色の獣がいた。
嘗て、ローレンスという名のあった獣は、足元の少女にむけて、
ゆっくりと手を伸ばす。
「……だから、君にせめて。血の加護があらんことを祈って。
この悪夢が、記憶から霧と消えることを祈って」
「ローレンス、様……待って、待ってください……!」
マリーの口から、掠れた声が溢れる。
……けれど、その言葉を獣が聞き届ける事はなかった。
「おやすみ、マリー」
瞬間、獣の手が少女の身体を包み込むと同時、その姿が焼け落ちる。
その姿を最後に、マリーの意識は途切れた。
………………………
…………
…………
……
……
…
…
________________
「……う、ぅ」
白い、清潔な病室の中、そのベットの一つで小さなうめき声が上がった。
ベッドに寝かしつけられたその声の主の少女……マリーはゆっくりと起き上がると、
蕩けた空色の瞳の目をぱちぱちと瞬かせた。
……よほど長く眠っていたのだろうか?記憶がどうも曖昧だ。
そんなマリーがふと懐へと視線を落とすと、
丁度太もも辺りに焼け焦げた何かの破片が乗っていた。
……何故だろう、その破片を見ていると、心の奥底が妙に落ち着かない。
「……これは……」
「大丈夫そうね」
「ひゃうっ!?」
その時、突然真横から全く聞き覚えのない声が聞こえてきた。
慌ててマリーがそちらの方へ視線を向けると、そこには……
「……あれ、救護騎士団の方では……?」
そこにいたのは、救護騎士団の生徒ではない少女だった。
全身を包む黒いマントに、銀色の兜。
頭上にヘイローが浮かんでいることから辛うじて生徒とはわかるが、少なくともトリニティの所属では……
「"マリー!"」
瞬間、別方向から声が聞こえた。
……今度は、聞き覚えのある声。
「え、先生……?」
声がした方へと視線を向ければ、そこには記憶の通り、自分もよく知るキヴォトス唯一の大人……先生がそこにいた。
何故だかその表情は切迫しているように見える。
「"身体の方は問題ない?何か変な感じとかは……"」
「え、えと、一応大丈夫、ですけど……」
駆け寄ってきたかと思えば次々と放たれる先生からの質問に、混乱しながらも返答するマリー。
……と、
「安心して」
そんな彼女達に話しかけたのは、先程の謎の少女だった。
「今回の事は長期間血を摂取しなかったことによる極度の空腹が原因。
さっき輸血液を投与したし、変異することはないはず。
……あの頭蓋が焼け落ちた原因まではわからないけど」
「空腹……?輸血液……?」
少女の言葉をマリーはオウム返しに呟く。
自分は、空腹で倒れてしまったのだろうか?
でもだとしたらどうして輸血液が……?
何か引っかかる。けれど、思い出すことが出来ない。
彼女の脳裏をぐるぐると疑問が渦巻く中、
兜の少女は先生とマリーを置いて病室の出口へと向かう。
「それじゃあ、私はこれで」
「"え、もう帰っちゃうのセリ……じゃないや銀鴉!?"」
そんな彼女の背に先生が慌てて声をかける。
……銀鴉と呼ばれた少女はその声に立ち止まると、危うく自身の正体を漏らしそうになった先生にため息をつきつつも振り返った。
「再会の場所に部外者の私がいるのも野暮でしょ。
この後依頼も入ってるし……」
「あ、あの……」
そんな彼女に恐る恐る、と言った様子の声がかかった。
……マリーだ。
返答の代わりに銀鴉の兜が彼女の方へカクリと傾けられる。
かなり無愛想な態度だが、不思議とその動作は柔らかいように思えた。
「何が起こったのかまだわからないのですが、ひょっとして、助けていただい「勘違いしないで」へ?」
マリーの言葉に被せるように、淡々と銀鴉は言葉を紡いだ。
「私は薬を提供しただけ。
あなたが戻ってこられたのは
あなたを大切にしてる人達のお陰だから」
そこで一度言葉を区切ると、銀鴉は、呆然としているマリーに向けて改めて言葉を紡ぐ。
「……今はまだ記憶が混濁しているんだろうけど、
それが戻って、現実の全てから目を背けたくなったとしても
あの人達とちゃんと顔を合わせなさい。
ずっと目を覆ってると取り返しのつかないことになる」
そう言うと同時、銀鴉は懐から何かを取り出すと、
それをマリーの方へ投げた。
「あっ!?」
マリーが慌てて手を伸ばせば、
それはぽすりと音を立てて彼女の手元に収まった。
手に伝わってくるのは金属のひんやりとした感触。
銀鴉が投げよこしたのは……
「……ペンダント?」
それは、古ぼけた金のペンダントだった。
何故だろう、それを見ていると奥底から何かが湧き上がってくる。
「あ、あの、これは……」
「来歴から言えばそれはあなたが持っておくべきもの……って、先輩が言ってたから。それじゃ」
それだけ言うと、銀鴉は今度こそ病室から出ていってしまった。
「"その、悪い子じゃないんだけど……"」
「……それは、私にも何となくわかります」
困ったようにそう言う先生に、マリーはそう返答する。
その後に、先程銀鴉から渡されたペンダントへと視線を落とした。
「でも、このペンダントは……」
これは、自分ではない誰かのものだった筈だ。
そう、あの人がいつも身につけていた……
……あの、人?
その単語に、奥底にあるものが大きく引っかかった。
それと同時、霞んでいた記憶が一気に蘇ってくる。
「……ぁ」
あの夜の惨劇が、燃える執務室の情景が……
「あ、ぁぁ、あ……!」
「"マリー?どうしたの!?"」
呼びかける先生の声は既に彼女には届いていない。
一気に押し寄せる血濡れの情景が、狂的な記憶が。
彼女の精神を侵してゆく。
どうして、どうして、嫌だ、嫌だ、
嫌……「マリーさぁあああああんっ!!!」むぎゅっ!?」
瞬間、錯乱するマリー目掛けて病室に飛び込んできた人影が勢い良く抱きついた。
その人物との体格差も相まって、マリーの顔が相手の胸の中に埋まる。
その衝撃で、彼女の脳裏を埋め尽くしていた記憶の数々が一気に消し飛んだ。
……何処となく既視感のある光景だがその人物……ヒナタの行動は止まらない。
「う、ぁうぅ、よかった……
本当に、本当にマリーさんが戻ってきて、
無事で居てくれて……!」
大粒の涙をこぼしながら、ヒナタはぎゅっと、
もう二度と彼女のことを放すまいといわんばかりに抱きしめる。
……そして、案の定
ぴー、ぴー、ぴー
近くの機械から何やら甲高い電子音が鳴り始めた。
「……あ、あれ?」
その音に気がついたヒナタにより、若干マリーに対する拘束が緩む。
そして……
「"ヒナター!!顔、顔がっ!?"」
「ヒナタさん、早くマリーさんを離してください、窒息しますよ!!」
「気持ちは、気持ちはきっと伝わりましたから!?」
……彼女の豊満な胸と強大な筋力により窒息しかけている少女が、ここに1人。
それと同時、大慌てで彼女に呼びかける若干数名の声。
「へ……?あ、ぁああああっ!?すいませんすいませんすいません!?」
彼女らの言葉で、ようやく事態に気が付いたヒナタが慌てて身体を離した。
漸く碌に息ができない状態から解放されたマリーは、
何度か深呼吸して肺一杯に空気を吸い込むと正面のヒナタの方へと視線を向ける。
「ぜぇ、ふぅ……あ、ありがとうございます、ヒナタさん……
お陰で少し、落ち着けました……」
「そ、そんなお礼なんて……そもそも私が力加減を誤ったばっかりに」
「いえ、その、少し言いにくいんですけど……」
ヒナタの言葉に迷ったようにマリーはそう言葉を紡いだ後、少しの間考え込む。
……その表情に、少し暗い色が宿った。
「あの時のことを思い出して、
先程少し、混乱してしまっていたので……」
「……あ」
あの時の事。
マリーの見た悪夢の全ては知らぬ彼女達でも、その言葉で何が起こったか察するには十分だったようだ。
……けれど、過程はどうあれ心を落ち着けることはできた。
マリーは手元のペンダントへと視線を落とす。
古ぼけている故鈍色に。
けれど確かに輝いているそれは、彼女に大丈夫だと呼びかけているようだった。
マリーはゆっくりと深呼吸をすると、改めて彼女らへと視線を戻した。
不安気にこちらを見つめるヒナタと先生。
いつも通りの表情ではあるものの、何処か落ち着かない様子のサクラコ。
各所に包帯を巻き、片腕を三角布で吊っているミネ。
あの時、この身を焼き焦がしてしまいそうなほど発せられていた獣性は、それが夢であったかのように静かになり、血肉への渇望も気にしなければ分からぬほど静かなものだ。
……一先ず、大丈夫なのだろうか?
マリーがそう思ったその時、
「………!」
彼女らと共にあの大聖堂に居たはずのツルギとハスミの姿は何故か見えない事に気がついた。
マリーの掌が小さく震える。
「あの、ツルギ委員長とハスミ副委員長は……」
「その件なら安心してください、マリーさん」
その言葉を彼女が言い終わらぬ内に、何を言わんとしているのか察したのか、返答が聞こえてきた。
声の主はミネだ。
「お2人は委員会の任務でここには居ないだけです。
ツルギ委員長の方は確かにあの時負傷しましたが、もう完治しています」
全く、あの回復力はどうなっているのやら……と、言葉を付け加えるミネ。
……その声色に嘘をついているような色は見られず、そして、不思議と柔らかい。
「今回の件での負傷者はツルギ委員長と私、あとはセイア様だけです。それも私を除く2名は既に全快しています。
それに、最前線で戦っていたのです。この傷も覚悟の上の事」
「……覚悟の、上……」
ミネの発した言葉を、マリーは呆然と口ずさむ。
……それだけで、済ませていいものなのか?
それだけの傷を、ともすれば命すら失いかねないそれを。
その傷を負わせた自分のことを、たったそれだけで……
「マリー」
その時、ミネとはまた別の声……
普段通りの微笑を浮かべたサクラコが、彼女に呼びかける。
「今回の件の発端は特異な病気が原因であると聞いています。
だから、あなたが責任を感じる必要はないのです」
「サクラコ様の言う通りです。
それに私達も、ここには居ない皆さんも、マリーさんが戻ってきてほしいって願っていますから」
サクラコの言葉に、ヒナタが更に付け加えるようにそう言った。
やはり、その言葉達は温かい。
ちゃんと顔を合わせなさい。
銀鴉と呼ばれた少女の言葉が蘇る。
あの時は何故そんな事を言われたのかわからなかったが、今なら少し、わかる気がする。
……本当に、いいのだろうか?
未だに獣性が巣食っているこの身のままでも。
もう一度、日常へと帰っていいのだろうか?
そんな言葉が、マリーの脳裏を駆け抜けた。
少しずつ、少しずつ。
彼女の心を締め付ける拘束が、解きほぐされてゆく。
少しずつ、少しずつ。
元に、戻ってゆく。
……と、
「その様子だと、もう心配はいらないようだね」
突然、その場に全く別の人物の声が響いた。
しかし、声が聞こえてきた方向は病室の入り口ではない。
……窓だ。
「"え、セイア!?"」
「この病室の窓が外からでは判別しにくい位置にあって助かったよ。私が正面から入ろうものなら余計な騒ぎを起こしかねないからね」
驚く少女たちを余所に、
そんなことを言いながら窓を開けてゆっくりと病室に入ってくるセイア。
その動作はやけに手慣れている。
セイアはそのまま軽やかに床へと降りたつと、改めて彼女らに視線を合わせた。
「セイア様、事後処理の件で本日は来ることが難しいと……」
「幸いにも少し時間に余裕ができてね。
とはいえほんの少しの余裕、今日の所はすぐに戻るよ。ただ……」
サクラコの言葉にそう返答しつつ、セイアはマリーの方へと視線を移した。
空色の蕩けた瞳と、吸い込まれそうな薄紅色の瞳が交差する。
……過去の記憶によるものか、身を少なからず固くするマリー。
そんな彼女に向けて、セイアは柔らかく微笑んだ。
「マリー、君に1つ言伝を預かっている」
「……言伝、ですか?」
予想だにしなかった言葉に、マリーは戸惑った。
言伝……ここにはいないツルギ達の姿が思い浮かぶが、マリーはすぐにそれを打ち消した。
彼女が何か言伝をするとすれば、来れるかどうかが不確定なセイアではなく、ミネやサクラコにするはずだ。
とすれば、一体誰から……?
……そんな彼女の目の前で、セイアは懐に手を入れる。
「名前までは伝えられていなくてね。
先のことまで確信を持てずにいたのだが……けれど、今ならわかる。
君なら、これの持ち主について知っているはずだ」
そう言うと同時、セイアはそれを取り出した。
それは、特異な形状の両刃刀だった。
「……あ」
それを、その仕掛け武器を。
マリーは知っている……知らない筈もない。
セイアから差し出されたそっと差し出されたそれに、
彼女は恐る恐る触れる。
……手に伝わる感覚はひんやりとして冷たい。
[……ん、貴公。私の愛刀が気になるのかい?]
……記憶が瞬く。
まだ何も知らなかった頃、温かな記憶が……
「……彼女から、言伝を預かっている」
微かに震えるマリーの表情を見てそれを察したのか、
セイアは改めて彼女に向けて、そう呼びかけた。
「[君もまた、どこか遠い悪夢に囚われているかもしれない。
或いは、記憶が獣性の彼方に過ぎ去ってしまったかもしれない。
けれど、この言葉が君に届いているなら。どうか、生きていて欲しい]
……そう、彼女は言っていたよ」
「……マリア、さん……」
言伝の主の名が、少女の口からぽろりと零れ落ちた。
……生きて欲しい。
ほんの短い願いの言葉。
けれど、たった1つだけの願いが、
マリーの心にあった最後の重みを消し去った。
「あ、ぁぁ……」
少女の口から、言葉にならぬ声が零れる。
けれど、それは今までのような苦痛のそれでも、悲痛のそれでもない。
涙が零れ落ちる。
それは白いシーツの上で円形に広がり、小さな模様を作ってゆく。
……あぁ、けれど、いつまでも泣いているままでいるわけにはいかない。
マリーは視界が涙で霞む中、自分の目の前にいる大切な人達に。
現実の象徴である少女達をしっかりと見る。
そして、心の底から笑う。
「皆さん。おはよう、ございます」
病室の窓から差し込む朝日が、彼女の頬を照らしていた。
____________________
……次の日、夕暮れ時のトリニティ。
その寮の一室の扉が恐る恐る、と言った様子でゆっくりと開かれる。
「……ただい、ま?」
部屋の中に入ってきたのは無論、この部屋の主……つい先程退院してきたマリーだ。
あの時、ある種の夢遊状態で部屋を出てしまったため部屋の鍵は空けたままになっていたが、
幸いなことに誰かが入ってきたような形跡はない。
玄関先からそれを確認してマリーはほっと息をつくと、漸く部屋の中に入った。
乱れたベッド、その周りを覆う未だしまいきれていない退院祝い。
洗面所へと点々と続く血の痕跡。
……確かにここは自分の部屋で、数日しか開けていないはずなのに。まるで全く別の部屋であるかのような錯覚を覚える。
それは未だ帰ってこられたことを信じきれていないためか、或いは……
「……いえ、一先ず今は……」
マリーはポツリとそう呟くと、洗面所の方へと向かった。
近づけば、くらりと眩めきそうな死血の香りが漂ってくる。
最も、これは全て自分のものなのだが……
「……ここも掃除しないといけませんね」
マリーは淀んだ血溜まりを見てポツリとそう呟いた後、
その上にある鏡の方へと視線を合わせた。
それと同時、退院してからずっと身につけていた円縁のサングラスに手をかけると、ゆっくりとそれを取った。
「……」
鏡に映るのは、隠されていた瞳が露わになった自分の顔。
その蕩けた瞳が、静かに自らを見つめ返す。
……いつまでも消えることのない傷痕はある。
蕩けた瞳が、そう嘯いているようだった。
あの日の出来事は、人狼事件の犯人は大聖堂で討伐されたという事実
無論、真実を知るものも少なからずいるが、病院で顔を合わせたその誰もが、逆にこちらを気遣ってくれた。
こうして真実は、自分があの場所にいたという事実は消えることになる。
全てを忘れて日常へと帰るという選択を得ることができる。
……それは、素晴らしいことなのだろう。
そもそも、それは自分が乞い願っていたことだ。
けれど……
「……やっぱり、忘れることはできませんね」
マリーは今もポケットに入ったままのペンダントの感触を感じながら、そう呟いた。
そもそも、あれだけの記憶を忘れ去ることなど不可能な話だ。
それに……
「……絶対に、忘れませんから」
あぁ、絶対に忘れない。
病に塗れたあの地で、けれど確かに医療を志したことも。
ただ無力で、何もできなかった悲哀ばかりの漁村と実験棟の記憶も。
その中でも確かにあった、温かな記憶も。
……そして、ローレンスとの記憶も、全て。
絶対に、絶対に、忘れてなんか……
ドクン
その時、マリーの意識の奥底で、何かが胎動した。
……い
「あ……また……」
あの時と同じ感覚……
完全に消えたわけではないと分かっていたとはいえ、この感覚というものは慣れないものだ。
けれど、あの時と違うのは明確な対処法があること。
……欲しい
「えっと、もらった鎮静剤は……」
だんだんと強くなる渇望、
それを感じながらも、マリーは冷静に近くに置いたバッグの中を探る。
程なくして、彼女は帰り際に先生から渡された、銀鴉からのものだという幾つかの瓶のうちの1つを取り出した。
蓋を開ければ、ドロリとした濃縮された血の色が見える。
そして……
血が……
「んむっ」
渇望が一際強く響く直前、マリーはそれを一息に飲み干した。
瓶の中から香り立つ人血が溢れ、焼け付くようなその色は獣性を鎮めてゆく。
「……ふぅ」
やがて、完全に獣性が収まったことを確認すると、
マリーは1つ息をついて空になった瓶を近くの棚においた。
効果は覿面。これならふとした時に衝動に襲われても大丈夫だろう。
……とは言え、先生が定期的に持ってきてくれると伝えてくれたが、在庫には気をつけ……
ドクン
「え……?」
その時、再びマリーの奥底に渇望が宿った。
そのことに、彼女の声色に少なからず動揺が宿る。
……いや、流石に間隔が短すぎる。
一つとは言わずいくらかを一気に飲んだほうか良かったのだろうか?
となれば流石に早めに先生に連絡を入れて追加の薬を……
マリーが思考に耽っている間にも、渇望は高まってゆく。
そして……
「……あれ?」
それが理性に影響を及ぼすまでになった時、マリーの口から疑問が溢れた。
未だ血肉への渇望があることは変わらない、それは確かだ。
だが、そこに若干の違和感があるのだ。
その渇望の行く先。それが、今までと少しばかり異なるのだ
それは……
「紅茶が、飲みたい?」
……自分で改めて口にしてみても訳がわからない。
マリーは疑問でかくりと首を傾げた。
何故、何故自分は紅茶を飲みたがっている?
何故……
「……あ」
その時、彼女の記憶から思い起こされたものがあった。
それは霧に包まれたあの場所で、ローレンスと最後に会話を交わした記憶の中。
そこで、別れ際に彼が言っていた言葉……
[残滓たる私からせめてもの贖罪に贈れるものは、ほんの僅かなものだ]
………
「……そうなのですか、ローレンス様?」
マリーはぽつりと、もう聞こえるはずもない言葉を紡ぐ。
もう血肉の味しか感じられなくなった筈の自分に、
ほんの僅かな人らしい味覚を残してくれた……そういう、ことなのだろうか?
……真実は、もうわからない。
けれど……
「……ふふ」
マリーは小さく笑みを溢すと、洗面所を後にした。
確か、贈り物の中に紅茶もいくらかあったはずだ。
丁度いい機会だ、この時に飲んでしまうとしよう。
「ローレンス様。一応、お礼は言っておきます」
マリーは、何処か弾むように言葉を口ずさむ。
「でも、あなたの罪も……そして、思い出も。
絶対に、絶対に忘れませんから。
例えあなたの姿を覚えているのが私だけであったとしても、絶対に……忘れませんから」
……そう、歌うように口ずさむのだ。
どもー、時空未知です。
ということで今回の作品は如何だったでしょうか?
久々の投稿……そして、マリーさん編は一旦の完結です。
セリカちゃんが迎えた結末が夜の明けでありながら日の昇ることのない極夜であるなら、
マリーさんが迎えたのは薄暗くはあるものの確かな夜明けです。
これからはきちんと渇きを満たせるご飯の供給がありますしね、大丈夫大丈夫……
……トラウマで精神が複雑骨折してローレンスに敬憎入り混じった矢印向けてるのはまあ、さておきです。
尚、この後最終編が控えている模様。
キヴォトスの明日はどっちだ