短編1話完結。
織田信長と斎藤義龍の争いは、拮抗から織田に傾いた。
墨俣に砦ができた。義龍の居城がある稲葉山を狙える。稲葉山城は地形を活かした強固な守りで、織田の侵攻を退けてきた。
簡易的な拠点だが、戦局への影響は大きい。墨俣城の呼び名を認められた。織田の士気が高まる。
前田利家が、柴田勝家の助力で築城した。新参の藤吉郎も関わったと言われる。
冷えた風が吹いた。
「殿。お寒ければ火を用意します」
「いらぬ」
墨俣城を出て稲葉山城に向かう。稲葉山、そして稲葉山城が見えたあたりで、信長は兵を止めた。
「雪が降る前に乗り込もうぞ」
寒さを忘れる熱意に、勝家は控えた。雪の気配を感じる時季。長く続いた戦争を終わらせる。
墨俣城を足ががりにしても、地の利はまだ斎藤にある。さらに義龍は妖怪を兵士に用いているという噂だった。
張り詰めた空気は、寒さによるものだけではない。
「の、信長様!」
前方にいる兵がざわめく。物見役が報告に来た。
「稲葉山より、こちらに向かってくる兵がおります!」
「ほう……?」
「まことか。して、数は。将は誰がおる?」
勝家が眉をひそめる。
「それが、ご、ごくわずかのようです。先頭にいるあの風貌は、おそらく……」
「案内せよ」
信長が先陣まで歩く。勝家も続いた。
見間違えようのない大鎧。重厚な威圧感は、稲葉山城そのものだった。身分相応の装飾に、前線での戦闘も想定された、堅牢な作りがわかる。
斎藤義龍。
家督を譲り受けたのち、父親の道三を殺し、稲葉山城と美濃を掌握した。先代から続く織田との均衡を、武力で断とうとしている。
「殿。これは、いかがしましょう」
勝家は困惑しながらも、険しい顔に変わる。敵将を見据える。
「戦う腹ではあるまい。わしが参ろうぞ」
進軍にしては人数が少ない。義龍に稲葉山城を出る理由はなく、意思を持って現れたと考えられた。
信長は先頭に立ち、待ち構える。
対峙する。尾張の魔王と美濃の玄龍。
信長の顔を見つけた義龍は、兵を止めさせる。数名の供回りだけを連れて近付いてきた。
信長もまた、勝家らとともに陣立てから進む。
稲葉山のふもとで、信長と義龍が向かい合う。両軍の兵は、固唾をのんで将の背を見た。
「大将みずから物見遊山かい。尾張のうつけはあいかわらずだな」
「山から下りてきた、美濃のうつけを、物笑いに来たのよ」
面頬の奥で義龍が笑う。
「用向きを聞こうか。戦がしたいのではないと見受けられる」
「帰蝶を返せ」
「うん?」
一切の皮肉も駆け引きもない。信長は意表を突かれた。
信長の妻、濃姫は、本名を帰蝶という。斎藤道三の娘。義龍とは義理の兄妹にあたる。道三が当主だったころ、織田に嫁いだ。
斎藤と織田をつなげる線。美濃の姫としか呼ばれない。
やがて道三が横死。義龍は織田と敵対する。今の斎藤家に、濃姫を気にする者などいなかった。
「人質にするつもりなら無駄だ。巻き添えで死ぬ前に、故郷に戻してやれよ」
兜の奥にある瞳と目が合う。人ならざる眼光の中、確かに宿る、妹への思い。
「……あれが望めば、すぐにでも稲葉山城まで送ろうぞ」
誰の目にもあきらかな政略結婚だった。当人達も納得していた。
作られた縁を通じて、思いが惹かれ合い、重なっていく。
いつしか信長と濃姫は、真の夫婦になる。斎藤と対立してからも、濃姫は織田に残り、信長のそばにいた。
「教えてやる。帰蝶は毒針だ。お前を殺す隙を見ている」
「信長の進む道を見せた。今やお濃は、ともに道を歩いておる」
義龍が歯を噛みしめる。
「座していては、なにも得られぬ」
うつけと呼ばれながら、歩き続けた道は、魔王の覇道。濃姫が付き従う。
「与えられるものなど、たかが知れておる。真に求めるのであれば、作り出すか、さもなくば奪い取れ」
「俺……は、あ、ぐぁ」
不意に苦しそうな声が出る。鎧からわずかに、黒い煙がこぼれて見えた。
「俺は、独りじゃない」
「加減が悪いのか。病人を斬るなど興が乗らんが、戦となれば容赦はせぬぞ」
病気ではない。義龍を蝕む荒魂に、義龍自身もまだ気付いていない。
しばしの沈黙。信長は戦意の霧散を感じ、本隊に戻ろうとした。勝家を見る。
「待て!」
義龍が声を張る。
「ここでお前を斬る。美濃は斎藤家が治める。文句はないよな?」
「来るがいい。うぬの首を取れば、稲葉山城は信長のものよ」
周囲がざわめくより早く信長が応じた。
兵達が顔を見合わせる。織田も斎藤も困惑していた。冷えた空気に、信長の声がよく響く。
「皆の者、控えよ。手出しは無用ぞ」
義龍が大鎧で足を踏みしめる。己を取り戻す。
「斎藤、全員下がれ!」
戦場が耀変する。
訪れるは総大将の一騎討ち。命と一国一城を刃に乗せた果たし合い。舞台ができた。幕が上がる。
信長を残し戻ってきた。柴田勝家を前田利家が迎える。
「勝家殿、これは何事が?」
「わしらが……殿を止めてはならぬ」
事態を聞き、織田に騒ぎが広がる。稲葉山近くでは、斎藤も同じ様子だった。主君の戦いを、ただ見ているしかできない。
信長は武術と兵法を修めた達人でもある。力量のほどは家臣ならば誰もが知る。
「だが、決闘など認められん」
義龍の奇妙な気配を間近で見てきた。申し入れたからには自信がうかがえる。信長には、禁じられた。
「俺が行きます。あとで腹を切ってもいい。義龍を討つ!」
「やめい。馬で駆けても間に合わんわ」
割って入るには距離がある。火縄銃や大筒では信長を巻き込む。勝家は目を伏せ、歯ぎしりした。
「誰ぞ、策を出さんか!」
「と、藤吉郎が、墨俣城に戻りました」
「ああん。猿めが、なんだと?」
「信長様と勝家殿が陣を出たあと、助けを呼ぶ、と……」
藤吉郎も出陣に参加していた。今は姿を見かけない。
「あやかしの手勢がなんになる。木材を運ぶとはわけが違うというのに、しょせん猿知恵よ」
墨俣には川並衆と呼ばれる妖怪の組合がある。顔役の蜂須賀小六に藤吉郎が渡りをつけ、墨俣城の築城を手伝わせた。
勝家は妖怪が嫌いだった。川並衆が協力したと聞いた時も苦い顔をした。蜂須賀小六とはたびたび対立している。
「武士の魂じゃ。あやかしにはわからんわ」
武士であるがゆえに、勝家は葛藤する。忠義心に迷う。
「殿が一人の武士として立ち会うと決めた。わしらは、下がるように……命じられた」
「勝家殿……」
利家にも勝家の気持ちが見て取れた。止めてはならない。止めなくてはならない。
まだ信長と義龍は動かない。
「ええい、わしらはあやかしではない、侍であるぞ。主を守らずしてどうする!」
己の中にある忠義を見出した。周囲に命じる。
「責はわしが負う。長引くならば助太刀に向かおうぞ。利家も続けい」
「承知した。戦うも死ぬも、信長様と勝家殿にお供します!」
「鉄砲に自信のある者はおらぬか。殿と義龍に距離ができる機を見よ」
それぞれが準備を始めた瞬間。
炎にすら似た熱い風が吹いた。獣が駆け回ったかのように、沸き立ち渦巻く。中心にいるは、織田信長と斎藤義龍。
冷気が焼き飛ばされる。勝家達は遠巻きに二人を見た。
刀に手をやる。すぐには抜かず腰を落とす。ともに居合いの構え。
浮かび上がる、炎の守護霊。信長は豹が、義龍は狼が、その背に付き従った。
時が着火する。
居合いの軌跡が交差する。互いに弾かれながらも、信長は足運びを加え、義龍の懐に押し入る。刀ごと体当りした。
義龍が姿勢をくずした。信長は刀を持ち直す。狙う先は首元、大鎧の隙間。定めた一点を突いた。
手甲で防ぐ。義龍は片手を放して眼前に引いていた。刀を頭上に持ち、再び両手で握る。
天に棲まう龍のごとき上段構えから、身をひねり、全力で斬り下ろした。
両断される間合い。信長は太刀筋を見切り、義龍の前にいた。竜の角を、受けもせず、避けもせずに、空振らせた。
地に伏せた玄龍が爪を放つ。下段から信長の脚を狙い、斜めに刀を払った。力を入れにくい体勢でありながら、強く速く迫る。
信長は義龍の刀を見た。龍の一閃。回し蹴りで刀身を弾く。反動を受け流して回り込んだ。義龍が振り返る。
「よく、見やがる」
思わずこぼれた、素直な感嘆。
濃姫の婚姻もあり、一時ではあるが織田家と斎藤家の仲は取り持たれた。信長と義龍は義兄弟となる。宴の席などをともにした。
ただ、試合の経験はない。流派も知らない武を、信長はことごとく見切る。
「信長の目は天眼にあり」
剣客には得られない。武将であるがゆえの周辺視。戦場を見渡す目で、信長は義龍を見ていた。
魔王の天眼が、天下布武を見据える。美濃との戦争も、道半ばでしかなかった。
義龍が構え直す。
刀を右手だけで持った。姿勢を落ち着かせる。不動の大鎧。呼吸すら感じない。威風堂々たる玄龍のたたずまい。
信長は眉を動かした。
「興じようぞ。うぬの力、見極めてくれる」
ほどなくして龍は翔ける。刀は牙。白刃から剣気が昂ぶる。
後の先を取る。信長は足元近くを突き刺した。踏み出していた義龍は止まらない。昴龍牙が信長を襲う。
地に刺した刀に力をこめ、斬り上げる。逆風の秘伝が義龍を押し返した。どこで学んだのか。失われた古武術。
石と砂が打ち上がり、二人をさえぎる。ともに足が止まる。
土煙が消えていく。信長と義龍は刀を手に、向き合おうとした。目前に人影が浮かび上がる。
濃姫がいた。
陣中全員に響くほどの怒号で、勝家が叫ぶ。
「猿……よ。なあ、にを、しおったかああぁ!」
「いえいえいえあの。えっ、あれ、姫様は?」
藤吉郎もうろたえた。
「わ、わ、私は、濃姫様を、お連れしただけでしてその。近くにいらっしゃると、聞きましてですね」
濃姫は墨俣に来ていた。陣中見舞いを兼ねた散策。
義龍の様子を見て展開を先読みした。藤吉郎流で水を差す。濃姫を呼べば、信長は興を削がれる。義龍も熱が引くと考えた。
今まさに、織田の陣立てまで連れてきた。勝家に報告する。
すでに濃姫は信長と義龍の間にいた。
一足で行ける距離ではない。向かう姿を見た者もない。忍者か、妖怪か。しかし、藤吉郎は確かに濃姫を連れてきていた。
勝家がしびれを切らす。
「もう見てられん、行くぞ。姫様が危険じゃ!」
どよめきながらも、織田の兵が動き出した。
舞い遊ぶ蝶は花鳥風月。見出すまでは風景でしかない。合戦のさなか、景色を見ている者はいない。
「お濃?」
「帰蝶!」
信長と義龍も驚く。
どこからともなく濃姫が現れた。立ち会いに集中していたとはいえ、信じがたい。
「ごきげんよう。殿、義龍様」
こともなげに言う。透き通りながらも、姿がある、氷のような立ち振る舞い。二人にはわかる。間違いなく濃姫だった。
「うつけとうつけが、じゃれ合っていると聞いて来ました」
思わず、顔を見合わせる。
氷に熱を抜き取られた。口に出さなくとも、互いに通じる。真剣勝負の熱気が消えた。
周囲が騒がしくなる。遠くから、織田と斎藤、双方の兵が向かってきた。
「余興はこれまでか」
信長が刀を収める。義龍も応じた。そして濃姫に話しかける。
「帰蝶、美濃に帰ろう」
「義龍様……」
事の次第を察する。信長を見た。黙して返される。
「もう、信長といなくていいんだ」
「真のうつけであれば刺せと言われました」
「なら、今すぐ刺せ!」
義龍の表情は面頬で隠れていた。
「どうやら、短刀を稲葉山城に忘れてきたようにございます」
冷気が舞う。風向きを知らない気流は、蝶に似ていた。
「いつも……昔から、変わらない。急にいなくなっては現れ、身仕度もできやしない」
「なんだ、お濃。お転婆だったのか?」
信長が笑う。濃姫は顔をそむけた。
「義龍様、私は信長様のおそばにいます。お気に召さなければ、いかようにも」
「信長を討ってから、また迎えに行く」
自在な蝶を龍が追う。苦しみながら。なにを求め、欲しているのか、義龍にもわからない。
「なかなかに楽しめた」
勝家の顔が見えた。終わりの時。
「昔話ついでに聞いておきたい。義龍よ、うぬに歳の近い男兄弟はおるか?」
「あん?」
斎藤道三は波を家紋としていた。斎藤家の因果は、さざ波となり、他家に流れる。やがて波紋が乱世に広がる。
「あら……」
濃姫が手元を見た。溶けた氷の水滴が、腕を濡らす。
「降るようですね」
雪の降り始めた空を、三人で見上げた。