―――ゴボゴボ
溺れそうになる。ふと感じた。
水が合わないと云うより、そもそも自分は水の中で生きる動物だっただろうかと疑問が浮かぶ。否、水に慣れるよりもありえない。エラ呼吸を習得した覚えはなかった。若かりし頃に近所に出来た民間プールで覚えたバタ足やクロール、平泳ぎなんかは出来ても、水中で呼吸するなど芸当記憶の限りでは、なかったはずだ。
身体能力の優れたジイジであった自負はあるが、そこまで人間止めちゃいねえ。孫にはスーパーヒーローのようだとキャキャと喜ばれて調子に乗ったこともあるけれど。
ゆらゆらと暖かい何かに揺られているのを強制的に叩き起こされるようにして、全身を空気で晒される。ひやりとした感覚に肌が粟立ち、思わず声が零れた。
「ふにゃあ、ふにゃあ」
仔猫のような声だった。なんだか、赤ん坊の声がする。
水でも耳に入ったのだろうか。すごく音が何重にもフィルターを重ねてぼやけて聞こえる。そんなことを思った。ぴるるっと己の尾骨辺りから何かが生えてることにビビったが、なんとなくごく自然と” そんなものだろう ”と受け入れることが出来た自分に驚く。
「レオナ、……―――ああ、わたくしの
日傘をさしたかのように眦に見応えある影を生み出す睫毛をぼんやりと見上げるうちに、視覚がはっきりと色彩を分かつ。「レオナ」と呼ばれたことでそれ自分めっちゃ好きなキャラの名前ですやん被ってんじゃーん!とテンションが爆上がりしたのも束の間のこと。邪気を祓うと伝えられる翡翠を瞳に持った美女が、自分を抱えて慈しみの瞳を撓ませる。
出会えてうれしいのだと心の底から訴えてくるような柔らかな色を宿した
目の前のこの人に、自分こそ出会えてよかったのだと。会いたかったのだ。どうしてだか分からないけれど、鼻がつんとなり目頭が熱くなる。年甲斐もなくぼろぼろ零れるそれを制御することも忘れ、声をも荒げてしまう。喉が裂けんばかりの嗚咽は、何時しかただの泣き声だった。
先ほどから聞こえてくる仔猫のような声が自分の喉から出ているものだと気づいたのは、あやすように揺さぶられ、きゃっきゃ笑ってると注射器のようなものでぷすっとされたり、筋骨隆々なコンクリートの塊であろうかという質感の大男に髭でぞりぞりと顔を削られんばかりの頬ずりを受け抱っこされて激しく上下されギャン泣きしてからのことであった。
なお、なまじお綺麗な格好の父親も負けじと声よ響け喉よ避けろとばかりにギャン泣きし、思わずビックリして息子であろう自分の方が泣き止むの早かったのはなんとも言えない。
「わっ!!!!」
人生で初めて宇宙に打ち上げられた。
大きな声は、この獣の耳には聞きすぎるようだ。同じようにセルフカウンターを決め込んだのであろう夕焼け色の髪を束ねた少年は、そろりそろりと足を忍ばせながら近寄り、ふくふくの頬っぺたをこれでもかと云うほど真っ赤に染め上げて美女の顔色を覗き込む。
「母上ご無事で何よりです。<熱砂の国>より水分を多く含んだ果実を取り寄せました。公務も王子として母上の仕事を幾つか引き継ぎ、進めておりますので、今しばらくはご自愛ください。」
「あら、ふふ、ありがとうファレナ。後で侍女にお願いして持ってきてもらおうかしら。」
ははうえ。ねっさのくに。こうむ。おうじ。しごとのひきつぎ。くるくると頭上で回る単語に、生まれたばかりの仔猫は目を回した。
実質の長期休暇を実の息子から言い渡された美女からは、あなたから伝えるべき事柄なのではなくて、と謎の威圧を父親に向けており、父親は父親で砂漠と荒野の国ならではのカラッとした地帯にじめじめと湿地を生まん勢いでいじけている。
白けた眼を向けるのはそんな父親の妻である彼女だけで。―――けれども、夫婦間以前に立場を通して会話する両親の口論にマテが出来るほど少年は大人ではなかった。
「そ、それで、あの、わたしの弟は、」
「こちらですよ、ファレナ。もっと近くへおいでなさい。」
「は、はいっ」
恐る恐る。
そろりそろりと入室した時と同じように足を忍ばせて近寄る少年ファレナは、母の腕を覗き込む。ゆらりと揺れる茶色い尾先は、この獅子の獣人族にとっては男性フェロモンが強い証だ。
つまりは、見るからに強者である証。少年ファレナの夕暮れの髪は、逆に王の証だった。強き戦士になるだろうか。いいや、この瞳は知性を宿したそれである。立派な魔術師にもなれるだろう。もしかすると、鳥人やヒヒを超す賢者になるやも。
「……わあ、っああ、
この子が、このちいちゃな弟が、大きくなったら肩を並べて国を支えられる存在になりたい。立派な王になり、この子が笑って幸せに暮らせる国をつくるのだ。
興奮しながら「不純でしょうか。」と尋ねてくる長子に夫妻は顔を見合わせて微笑んだ。誰だって漠然と見知らぬ他人のために己の人生を賭けることを選べぬものだが、立場あるものとして生まれた以上、考え方は生まれ育つ中で確実に植え付けられる。あとは覚悟を伴うだけであり、大抵はそんなものから始まるものなのだと案ずるように言った。
「少なくともパパはそうだった。弟をズタボロに扱う
「えっ」
国を治める王らしからぬ、あんまりな発言にファレナは驚愕に固まる。
とんでもない家出である。事件にならず水面下でやり取りがあったと聞くが、それがまさか自分の父親だったとは少年ファレナも思わなかった。結局あまりお身体が丈夫ではなかった王弟殿下は病でお隠れになったと聞くけれど、父の様子からして円満に解決したのだろう。
「だからファレナが下町にコッソリ行くの、止めたことがないだろう?」
「ええっ」
後学のために、とひそひそ護衛を引き連れて下町を” 己の目で実態を見てくる息子 ”のことを止めたことは一度たりともなかったのだと暴露にさらに固まった。横で「言わないお約束はどうなさったの」とコロコロ鈴の音を転がすかのような笑みを零した母の追撃に項垂れる。
そんな平和な、平和な? いいや、何も考えないでおこう。平和な会話をしり目に、レオナと呼ばれた赤ん坊は湧き水のように浮き立つ記憶を順序だてて整理した。
唐突だが、一度目の人生は平々凡々だったような気がする。何処にでもありふれたような一般家庭に生まれ、学校を卒業し、就職し、恋愛結婚なんてものをして、子どもに恵まれて、気づけばその子どもも大きくなって孫も生まれ、愛する家族に見守られて旅立った。―――まさしく平和な人生であったと自負があるほどに、平々凡々の穏やかな人生だったのだ。
齢91で人生が終わってしまったはずだと記憶さえなければ、素直に第二の人生を受け入れられたのだろう。生まれたばかりの赤ん坊は、どうやら両親や兄弟からは好かれているようだし。
つらりと鮮明に移り込むようになった眼を動かすと、どうにも裕福な家庭でもあるようだ。責任がどうのこうの王子だのなんだのと聞こえてくる単語は不穏だが、どういうわけか新しい人生を歩ませてくれるらしい。
いや、一般市民である前世の記憶があるって言うのはかなりのハンデになるのでは、と危惧が浮かんだ。絢爛豪華な調度品に囲まれて過ごすうちに慣れてくるのだろうか。
ハンデは重しを持つってことだけど、前世の記憶があるのはかなりのアドバンテージになるはずだ。むしろ、メリット? を持っての二度目の人生なので、所謂『強くてニューゲーム』状態だと言えるだろう。期待する値まで自分で持ち込めるかが今後の課題となった瞬間である。
「レオナ殿下、お食事の時間ですわ。」
生まれてから数日程で、獣人族の赤ん坊は立ったり座ったり、ある程度の動作をマスターする。獣人族夫婦の間に誕生したレオナも例外はなく、同種族の中で平均しても小さな身体ではあったがその分すばしっこく、コロコロとそのあたりを歩き回った。活動範囲から見て取れるほどの成長は、歯並びにも影響しつらりと綺麗に生えそろった歯は鋭利な刃のよう。
猫科の頂点におわす獣人族である以前に、肉食獣としての血を色濃く顕現した八重歯は兄曰く、レオナのチャームポイントのひとつだ。
ミルクの卒業も早く、離乳食との別れも早く、レオナは己の生まれた日から一つの季節が回った頃には大人と同じ食事を摂れるようになっていた。それでもまだ心配した兄の配慮によって、スープ系統が多いけれど。
ちゅる、と玉ねぎのスープに手を付ける。くんくん、ちゅる。くんくん、ちゅるる。音はなくとも、擬音語を付属しちゃえばイイジャナイ!と謎に弾け飛んだ父親の眼には、レオナの食事風景がそんな風に見えるようだった。身悶えながら地を這うようにのたうち回る大男の姿は、当初は暗殺騒動に持ち込まれたが今ではすっかり慣れたものだ。
ああ、国王陛下がまたやってんな、と侍女たちの生温かな視線に晒されながら、レオナは玉ねぎのスープを飲み干し、―――飲み干し?
「ごぷっ」
「レオナ!?」
飲み込めなかった。それより溺れそうになる。
どころか、せり上がって来る熱に押し負け、レオナは口から血を吐き出した。噎せるほどのそれは更なる追撃を食らわせ、幼子の体力をじりじりと奪う。
圧迫感で押し潰されそうなものではなく、身体の中で何かがねじ切られるような燃えているのではないかと錯覚するほどの熱気がこの小さな身体に溢れている。新鮮な空気を取り込もうにもその肺が、まさに焼かれているのだと息を喘がせるしかない。許容を超えた熱量に押し負け、レオナの口からは空気が掠れて血が零れてゆく。
「がぽ……こん、コフッ、…!?」
「レオナ、吐き出せ!レオナ!」
ちいちゃな身体を胡坐の上に抱え込んだ父は、ゴプゴプ吐血する我が子の身を懸命に擦った。原因を特定するために胸や腹に手を当てて魔力を読み取るためであり、苦しみをすこしでも和らげるよう背中をさするためである。
ガタガタと痙攣し始めた身体にこれはイカンと舌打ちした父は、すぐさまスイギュウの獣人を宮殿へ招集した。彼らは草花に目がなく、逆にそう言った特性を活かして医師を目指すことが多く、父の友人のスイギュウ獣人もまたその毛色の医師なのである。権力に興味がないとあっさりと振られてしまったから宮殿お抱えというわけではなく、根無し草の医師なのだけれど。
ピンチの時には友人価値で見てくれると口約束を結んだ。―――その言葉を違えることなく、父が呼ぶと幾度となく力を貸してくれた気兼ねなく声を掛けられる存在だった。
宮殿への緊急招集を受けたスイギュウの医師は、今度こそ友人である陛下の御身の危篤かと焦ったと言ったが、気持ちの方ではまだ大人の方であってくれと願わずには居られなかった。医師あるまじき発言に、けれども父は同意の気持ちで頷く。毒に侵される小さな身体をガタガタ痙攣させる赤ん坊の姿など、もう二度と見たくはない。
もちろん、大人の身体である友人がそのような目に遭っていいというわけでもないが。思わず口から出た本音はスイギュウの医師が、子を宝だと重んずる性質である証拠だった。
「俺はお前のそゆとこ気に入ってんの。」
重責を背負うものとしての貫禄とも言えるシワを眦に幾つか刻んだ男はからりと学生時代を偲ばせる無邪気な顔をしてそんなことを言うものだから。当たり前のように大切な存在だと真摯な気持ちを伝えてくるから。
どうしようもなくなって、たまらなくなって、具現化できる表現を知らぬスイギュウの医師は、はるばる遠方からでも足を運んでしまうのだ。
照れくささにそっぽを向いても、肘でぐりぐりしても、たったそれだけのことで相手を不敬罪だと処せる立場に居る男は笑う。
こんな善い男の”
なにせこの<夕焼けの草原>においては、自然界のあるがままを最優先とするために許可なき薬剤の投与は禁じられておらず、薬草のまま投じることを良しとする傾向にあるからだ。
だが、同時に、それゆえに、<夕焼けの草原>発祥の薬草やら毒草やらを研究し、医学の発展の為と目的を掲げる<
材料を調達した人間を特定したスイギュウの行動は早かった。重々しく生えるその立派な角で下から突き上げるような一撃が如く、その医師に向かって言ったのだ。
「<
「な、なぜです!」
「上へ登りたいのでしょう? 受かれば昇れますよ。」
ある意味、医学総会における追放確定宣言であった。他者の命を預かる場所に席をつくのだから当然、失敗は資格の剥奪である。むしろ、医学総会では定期的に順位を定めるために研究発表会が開かれ、実績に応じて順位の変動が行われるそれが、実質の免許更新となるのだ。
わざわざ位の高き五本指の方々からお声がかかって免許更新をする場合は、よっぽどの実力者であるか、―――はたまたは、医師の身分でありながら他者を害する病原体となってしまったかの二択である。前者の場合は現在の地位から昇給となり、そのまま数年のうちに十本の指に組み込んで成功をおさめてみせ、後者の場合は<夕焼けの草原>のみならず世界全土の医学総会より爪弾き、すなわち追放の一択。
先にも言ったように、もう表社会で医者としての立ち居振る舞いが出来なくなる免許を剥奪した上での追放となる。
「ホッホッホ。では、<
朗らかな笑みを通したヒヒの獣人は、どちらにもチャンスは巡らうべきだろうと声を掛けはしたものの、スイギュウの獣人イスィム・ンゴムベが出した課題に先行きが見えて、今もぐったりとする赤ん坊の世話を見やりながらニコリとする。
立場ゆえに中立を装うが、生まれたばかりの赤ん坊を相手に、あろうことか医師の席を持つ人間が毒を盛ろうとは。問答無用で免許を剥奪しても良かったが、それでは国を越えてしまえば終わりだ。カッとなった頭でよくぞ冷静に相手の息の根を止めることを思いつくものだとイスィムの背を見て、ラフィは川のように長くぞろりと伸びた髭を梳かした。