昼休みは走り回って隠れるばかりで碌に休むことも出来ないまま、結局そのまま放課後を迎えてしまった。
お陰で午後の授業は全身がくたくたのまま始まってしまい、次に意識を取り戻したのは6限も半分を過ぎた時間帯。我ながらとんでもない爆睡をしてしまった。別に授業自体は問題無いけど、学費を溝に捨てた罪悪感で少し胸が痛い。
6限が終るや否や、疲れが込み上がってきた。
……もう帰ろう。嫌なことはラノベでも読んで忘れるべきだな。
「やっ」
帰り支度を整え、スクールバックを背負って今日は書店にでも寄ろうかなどと考えていれば、昼間逃げ回った相手たる空井さんが俺の席へやってきて、気軽に挨拶なんかしてきた。思わずビクつく。空井さんの挨拶にではない。こんなナリでも空井さんはクラス、いや、学年でも結構可愛い方なので、半径5m以内にいるクラスメイトの視線が一瞬俺へと注がれたのだ。
空井さんは何も考えていないほんわかした顔をしながら口を動かす。
「上貫君、やろうよ」
「やらない」
脳内補完で"柏木先生の調査をやろうよ"の省略形だということはすぐわかった。
しかし、言い方が酷い。酷いし惨い。
主語を抜いたのは柏木先生の蛮行を表に出さないようにという、空井さんにしては珍しい配慮の表れなんだと思うけど、そこを配慮するよりも主語を抜くことでクラスメイトから凄い目で見られることを予期した配慮をして欲しかった。お陰で今、凄い勢いでクラスメイトに噂されている。
「だから俺は忙しくてそもそも人の恋愛絡みのいざこざに───」
「おおっと上貫君そのことは二人っきりの秘密ってこの前言ったでしょ! ほら、着いてきた着いてきた」
「お、押すなって」
言ってないしまたこの子は紛らわしい言い方をして!
俺は周囲の目を集める中で俺は空井さんに肩を押されて教室を出た。
……もしかしなくともこれ、明日登校したらかなり気まずいんじゃないか、という懸念が一瞬脳裏を過ったが諦めて一度忘れることにする。明日の俺、ファイトッ。
空井さんに先導されて、辿り着いたのは屋上手前の踊り場だった。物珍しく周囲を窺う俺を他所に空井さんは屋上のドアノブをガチャガチャと揺らして、施錠されていることを確認した。なるほど、屋上って常時鍵掛かってるんだな。まあ校舎は四階建てだし、悪ふざけでもして落ちたら危ないもんな。ラブコメの舞台としては屋上は有りがちだけども現実はそんなに甘くないということみたいだ。
「まあここでもいいっか」
小さく息を吐いて、空井さんはこちらに向き直る。察するに屋上に入れないことを知っていた訳では無かったらしい。大方、放課後の屋上なら人気が少なそうだからという理由で選んだのだろう。
何を言うのかと眺めていると空井さんが俺に一歩近づいた。ふんわりと女の子チックな正体不明の良い香りが漂ってくる。空井さんは中身が多少変だけど、外面が普通に美少女だから模範的男子高校生の俺は少し油断すると意識しそうになる。美少女の狡いところだ。あっちは何とも思ってないのにこちらだけ意識しそうになるのが非常に悔しい。美男美女はそんな他人への影響具合を鑑みて追微課税されるべきだと思う。本当に。
空井さんは考えるように俺のことをじっと見ると、コホンと間を一度置いた。
「上貫君、一日一善って知ってるかな」
「急にどうした?」
「良いから聞いて」
柏木先生の件でまた真っ向からお願いでもされるのかと思っていた俺は、突如切り出された脈略の無い話につい素で返してしまう。
「一日一善の元は仏教の六度万行って教えで、額面通りこの言葉には六つの教えがあるんだけど、一日の中でそのどれか一つでも善行を重ねなさいという教えでね。でも私は善にも重みがあると思うの。電車でお婆さんに椅子を譲るより、川で溺れている子供を助ける方がより大きな善だと思わない? そもそも電車で椅子を譲る理由は純粋にお婆さんが辛そうだからとかじゃなくて、周囲の目を気にしてって人も多いだろうし。上貫君も感じたことあるよね?」
「そうだね、俺もそう思う」
「つまり大きな善が小さな善より価値を持つのは論理的に正しいよね。でも一日一善の考え方は昔ながらの古いままだから、電車で席を譲る行為も命懸けで人助けする行為も等しく一カウントしかならない。上貫君、それっておかしいと思わない?」
「だなあ、俺もそう思う」
ドヤ顔でつらつらと話す空井さんに適当に相槌を合わせる。
前座の話が長い。
早く終わんないかなこの無意味な導入の時間。
俺の辟易とした表情が伝わったのか、空井さんがここからが聞きどころとばかりに少し大げさに感情を乗せ始めた。
「だから私は善に重みを付けることにしました。令和最新式空井式善行レートだと、例えば人命救助であれば一週間分の善がストックされるのです」
「中華の怪しい電気製品……?」
俺の小声のツッコミは完全に無視された。
「そして柏木先生の悪行を丁寧に解決すること、これは何と1カ月分相当の善行となるのです!」
結びの句を言い終えたのか、勢いのまま人差し指を天に突き上げる。天と言っても天井だけど。
ツッコミどころは色々あるが、取り合えず一つ指摘するならば空井式善行レートの基準は恐らくアルゼンチンの経済状況くらいガバガバな気がする。確かに柏木先生がやってる行為も非道徳的だし犯罪だけど人命よりは軽いと思うんだよな。それ以前に一日一善って何の話だと思うけども。
……いや、今まで俺達どんな話してたっけ。
「それで結局どう言うこと?」
話のオチが全然見えなくてつい聞いた俺を、空井さんは鼻で笑った。
「分からないかな? つまり理論上、一カ月分の善が今なら積めるんだよ?」
「空井式善行レートとかいう謎チャート、全く信用出来ないんだけど」
「謎じゃないもん。午後の授業寝ないで頑張って考えたもん」
内容はともあれ意外とそんな哲学的なことを授業中に考えてたのか空井さん。ともあれちゃんと授業を受けなくていいのかな。高校初の定期試験が来月に迫りつつあるけど対策とか大丈夫なんだろうかこの人。
加速度的に話がとっ散らかり始めているけどそれに気付いていないのか、或いは気付いていてゴリ押しする気なのか、空井さんは語調を強めて俺に詰め寄った。
「やろうよ上貫君、今私と行動を起こせば早期決断特典で五週間分の善が積めるよ、ほらほらどうかな」
「俺詳しくないけど一日一善に対するその捉え方は絶対に間違ってると思う。もう空井さんの胸三寸じゃんそれ」
「そんなことないよーより大きな善を前にすれば小さな善なんか些事にしかならないんだよ? ほら、それに私の手を取ったら今後多少の悪事を働いたとしても功罪のバランスから一回くらいは善と悪で相殺されるよ? やらない理由なんてないじゃん、ね?」
全然「ね?」じゃないが。
言動の内容が危険思想過ぎて怖いよ俺は。空井さんってもしかしてディストピア出身の人間なんじゃないかと疑ってしまいそうになる。少なくともその考え方は同じ法治国家の日本で暮らしていたら出来上がらない思考構造をしている。本気で空井さんが何を考えているのか分からない。
ああもう何か俺も混乱してきた。論理があるようで倫理が全くない話を聞いていると俺まで空井さんの思考に染まった気分になる。
黙ってじーっと見ていれば、空井さんのライトグリーンの虹彩が不安そうに揺蕩いだ。
「……そんなに嫌なの?」
舌足らずな、女の子特有の甘い声音が耳朶を打った。
ついでとばかりに下から見つめられる。いやここで上目遣いまでするか?
次第に湿潤さを孕みつつある瞳は蛍光灯から入射した光を含んで端々で乱反射し、頬はリンゴの表面みたいに上気させて、繊細で庇護欲を掻き立てられるような表情につい俺も目を奪われる。
会話をしていて忘れかけていたけど空井さんは美少女なのだ。
困ったな。俺も異性のこの手の顔には弱い。
空井さんの身長が低いのもあって、昔泣き虫だった妹の涙を思い出してしまう。小っちゃい時は妹が泣く度に手を差し伸ばして慰めたもんだ。
女の子の泣き顔に俺は後頭部を二回を掻いて、ゆっくりと俺は首を縦に頷いた。
「嫌だよ」
「……………………ッチ」
一瞬間を置いて舌打ち音が鳴り響いた。
すぐ泣くほど空井さんがメンタル弱者とは考えられなかったから演技じゃないかとは思っていたけど、やはり女の武器を使ってきたなこの人。こういう点では空井さんは俺の予想を裏切らないな。青春に憧れる男子高校生的にはちょっとは裏切って欲しいです、はい。
しかし、コンマ一秒も無かったとはいえ空井さんの飾られた美術品みたいに綺麗な顔にドキリとしかけた気がしたのも事実。
傷が浅い内に退散しとこうかなと無言で踵を返そうとしたところで、すぐに見つかってカーディガンの背中をぐいと掴まれる。
「空井さん、生地伸びちゃうから止めてほしい」
「さっき逃げる前に、矢場先輩と柏木先生がラブホ行ってたとか言ってたよね。あれってどういう意味?」
すっかり悲劇のヒロインみたいな顔を引っ込めて、普段通りの声音で空井さんは言う。
「そのままの意味だよ。GW中にラブホへ偶然入っていくところ目撃したんだ」
「目撃したって、誰が?」
「もちろん俺が」
「……矢場先輩のストーカーじゃないよね?」
「面識も無いのにストーカーになるか」
俺と矢場先輩は学年も違えば中学すら違うんだぞ。部活動とか塾だって被ってないのにストーカーになりようもないと思う。
「でも上貫君ってその割には矢場先輩の個人情報よく知ってるよね」
疑うように目を細めて空井さんは俺を見た。これ、結構空井さんの中だと本気で俺がストーカーか何かだと思われてないか?
「弁明するとホントに偶然だ。俺ってそういう体質なんだよ」
「体質?」
「そう。なんというか、子供の時から俺は間が悪いんだ。昼休みに廊下を歩いてたら虐めっ子が上履きを隠している場所を見ちゃったり、放課後にヒトカラに行ったら隣の部屋で校内の有名な美男美女カップルの片割れが浮気してたり。俺にはそんなつもりがなくとも他人の秘密とか隠し事を無意識に知ってしまう体質ってやつで、今回もその一個でしかない」
空井さんは怪訝な顔になった。まあそうだよな。
俺のこの体質はカッコ付けて言えば超能力とも言えなくも無いが、15年付き合った心象から言えば知らなくて良い面倒事を知ってしまうだけの疫病神みたいな体質でしかない。人の知られて痛い部分をピンポイントで察知して、弱みを握る。もっと俺の性格が悪ければ利用価値があったんだろうけど、生憎と俺は普通を愛する平和主義だから知るだけ俺自身にはリスクにしかならないわけで、知った情報を有効活用することはほぼ無いと言っていい。
ふんふんと半信半疑で聞いてた空井さんは顔に好奇心を滲ませた。
「じゃあ秘密握り放題だ。私の秘密とかも知ってたり?」
「いや知らないよ。名前すら知らなかったのに」
「だよねーちょっと安心した。ねえねえ、誰でも良いから秘密教えてよ」
「空井さんは悪用しそうだから却下」
「いや……別にしないけどね?」
少し心外そうに眉を顰めた。正直なところ、常識面では俺はあんまり空井さんのことを信用していない。だってノンデリだし。
これ以上この話を続けても碌な未来が見えないのでもう終わりでいいかな。
唐突に自分が着ている制服の解れを気にし始めた空井さんに俺は切り出す。
「ともかく話がそれだけなら帰るよ俺」
「ちょっと待ってよ上貫君、まだ話せば分かるよ」
何故ここで犬養毅の遺言を?
「散々話し合っただろ俺達。俺にはもう会話の余地が無いように思えるけど」
「こんなことを頼めるのなんて上貫君くらいしかいないの」
「友達いるんじゃないの?」
「友達にはこんなこと頼めないよ?」
なんて不思議そうな顔をするんだ。その顔をしたいのは俺の方なのに。
空井さんの懐から突如スマホのアラームが一度鳴った。
「あ、ごめん上貫君。私そろそろ行かなきゃ」
「え? いや俺は良いけど今引き留めたばっかなのに?」
「今日スーパーのセールなの忘れてた」
てへりと、はにかんで空井さんが言った。空井さんって自分で買い物とかするんだ、全然そうは見えないけど人は見かけに寄らないな。
「へぇ! そっかそれなら仕方ないね」
「……何でちょっと嬉しそうなのかな」
そりゃこの不毛なやりとりから解放されるからだけど、言うまでも無く伝わらないのかなこの感覚。
納得のいかないような表情を浮かべながらも、空井さんは一度会釈した。
「じゃあ私帰るね」
「うん」
手短にそう言って空井さんが階段を飛ぶように降りていくのを俺は階上から眺める。その姿は崖を駆け降りる鹿を思わせるしなやかさだ。運動神経が良いらしい。
……うん。俺も帰るかあ。
なんだかとっても疲れた気がする。
◇ ◇ ◇
我が家は駅からバスで20分弱走らせた山の上にある分譲住宅地の一角に建っている。昔この分譲地が出来たばっかの頃はバブル経済もあってかなり高価だったらしく、その上東京まで車で一時間という距離感から人気もあったらしいが、バブルも弾けミミズみたいな下り坂で縮小してきた令和の世においてこの分譲地は昔ほど人気も無くただただ駅から遠いだけの不便な立地でしかない。何処に行くにもまずバスか自家用車必須というから首都圏にあるとは思わじき不遇さだ。
しかし唯一良い点も一応あって、それはこの分譲地向けに誘致されたスーパーが家の隣にあることだった。お陰で学校帰りに小腹が空いても食べ物に困ることは無い。コンビニは無いけど俺には東友があるから問題無し。
「ただいま」
俺はアイスとジュースが入ったスーパーのビニール袋を片手に持ちながら玄関の戸を開ける。返事は帰ってこないが土間に茶色いローファーが既に一足脱ぎ捨てられている。
手を洗って、階段を上がると二階にある自室へ。
「お帰り兄ちゃんー」
「ん」
部屋に入ると妹がベッドに寝転がって漫画をペラペラ捲っていた。
漫画やゲームのために俺の部屋に入り浸るのは普段のことだから相槌だけ打って、椅子に座ると買ってきたアイスキャンディーを取り出した。すぐさま妹の物欲しげな視線を感じる。
「なにそれ、兄ちゃん私のは?」
「買ってないよ」
「ケチじゃない? 兄は妹を一番に護るものじゃないの? だから一護なんでしょ?」
「俺の名前一護じゃないが? アイスを献上することが護ることになるのも分からないし、別に一護の名前の由来それでもないし」
「髪の毛黒から変えてないもんね」
何が可笑しいのかくつくつと笑った。そういうお前は染めてるもんなと、長い髪の毛をストレートに軽く整える妹の姿に目を遣る。
俺の妹、
元々ギャル気質っぽいところはあったが、中学を卒業してすぐに純度の高い金髪に染めてからはよりギャルっぽさが深まった我が妹である。家族としての贔屓目込みで中学時代は黒髪清楚系ギャル感があってそれも良かったのだが、更に垢抜けたことで今では下手なテレビに出てくる女性タレントよりも容姿は優れているように感じる。実際、陽香は高校入学一カ月にして校内で何回も告白を受けているとのことで、別にシスコンではないとはいえ兄としては若干、ちょっぴり、明日川に棲息するミジンコが魚とかに食べられちゃうんじゃないかと考えちゃうのと同程度には心配だ。
「陽香こそ、その髪にしてからチャラい先輩とかに絡まれてない? もし虫が付いたら社会的に片付けるからな?」
陽香は俺の心配を他所に手を振りながら笑って答える。
「やだな兄ちゃん。まだ入学して一ヶ月なんだしナンパくらいしかされてないってば」
「おいそいつ誰だ名前を教えろ」
「いや知らないって。先輩だし」
それもそうか……クソ。学年とクラスさえ分かれば情報を集めた後に置き手紙とかで脅迫してやったのに。
どうやれば陽香がナンパされないようになるか考えていると、陽香は顎に人差し指を当てて目を開いた。
「あ、でも一人凄い話しかけてくる人いるんだよね……大人の人で」
「大丈夫かそいつ」
もし男であれば社会的抹殺せねばなるまい。1秒で俺は決意した。
陽香はそんな俺の心境など知る由もなく、暢気に欠伸をしながらスマホを弄ってこちらに向けた。
「うーん、カッコいいし紳士だから大丈夫だと思うんだけど、柏木先生って知ってる? 2年の先生だからもしかしたら知らないかもしれないけど」
画面には学校紹介のページにて笑みを浮かべて控え目に親指を立てる柏木先生の写真が表示されている。俺の知っている柏木先生…いや柏木の野郎だ。もう先生などと呼ぶ気は無い。
他人事だと思って見過ごしていればあの野郎……俺の妹にまで手を出そうとは随分ナメてるな。こういうのは先手必勝、陽香が嫌な思いをする前に奴を排除するのだ。
能天気に明るい顔をする陽香を前に俺は誓った。