扉を開けると、図書室特有の古びた紙の匂いが鼻孔を揺らした。
視線を室内に巡らせると、放課後とあって人影はさして多くない。読書をしながら仕事をしている受付の図書委員と、長机で読書や勉強をする生徒が数人。その中に矢場先輩がいた。群青色のショートカットで、少しボーイッシュな顔立ちをしつつも前髪に留まった水色のクリップや、つるっとした桜色の唇、スカートから伸びた白く細い足が女子であることを誇示している。身長は俺より低く、柏木よりは大分低い。長机に参考書を広げて、淡々と数Ⅰの勉強をしてるようだった。
「アレだよ上貫君」
空井さんがちょんちょんといつもより小さな動きで矢場先輩へ指を差した。図書室だから配慮したのだろう。でももっと配慮する部分があると俺は思うよ。小声にするとか、先輩のことをアレと言うなとか、そもそも人に向けて指を差すなとか。
俺はその指摘事項全てを呑み込んで空井さんを無視すると、矢場先輩に話しかけることにした。
「あのすみません、矢場先輩ですよね」
申し訳なさそうに声を掛けると、矢場先輩は少し不機嫌そうに眉を顰めて、こちらを観察するような瞳を向ける。
「……え、誰?」
「あ、俺は一年の上貫と言います。後ろにいるのはクラスメイトの空井さんです。ちょっと聞きたいことがあるんですが」
「あれ、もしかして君って吹子と友達だった子? 空井ちゃんだったかな?」
矢場先輩の視線が俺の横を通り抜けていったのを感じる。
空井さんが矢場先輩に覚えられていたのは意外だな……いや。考えてみれば順当かもしれない。この強烈な個性は中々記憶から消せるものでもない。
自分の話題が出て嬉しくなったのか、満面の笑みで俺を押しのけて空井さんは前に躍り出た。
「はい! スーコちゃんとは親友でした!」
「懐かしいねえ……。中学の頃の話だけど、君の話はよく聞いてたよ。可愛いけど何かヤバいくて面白い子だって」
「ヤバくないです可愛いだけです」
空井さんは至って真顔で言った。
でもあれだな。中学時代の空井さんに友達がいたという話は少し不思議だったけどやっと納得が行った。なにせ空井さんを観察するのはダイナマイトで地盤を爆破するのを見届けるようなスリルがある。いつ爆破するのか気になって目が離せない感じだ。まあ爆破するのは人間関係だけど。
矢場先輩の視線が俺へと戻った。少し口元をニヤニヤとさせながら参考書を閉じる。
「いや〜空井ちゃんとは話してみたかったんだよね。……そうだ、上貫くんだったね。空井ちゃんについてはこんな話があるんだよ」
「……?」
「これは吹子から聞いた話だけど、空井ちゃんは中学二年の頃、文化祭直前に告白されたんだ。一旦その場は保留として、翌日に文化祭実行委員だった空井ちゃんは文化祭最後の放送で最も合唱が上手かったクラスを読み上げる係だった」
あー。なんとなく察しがついたかもしれない。
矢場先輩は面白可笑しそうに口角を上げながら、その時の情景を思い浮かべるかのように目を閉じた。
「で、空井ちゃんは何とその放送の最後についでとばかりに告白に対する断りの返事を返したのさ。当時聞いてた私もビックリしたよ。なんせ告白してきた男子生徒の名前までフルネームで読み上げていたからね」
うわぁ…………予想通りだけど惨すぎる。
ドン引いた俺に空井さんがちょっと待ってとばかりに手をこちらに立てた。
「勘違いしないでね上貫くん。全く可能性の無い私のことはさっさと諦めてもらって、彼に次の恋愛へ目を向けてもらうためのアシストなんだよこれって。それに断るためにまた一対一で会うのも気まずいし面倒じゃない? 連絡先も知らなかったからこれが手っ取り早かったんだよ」
「む、酷すぎる……」
「え、どの辺が?」
本当に分からなそうな顔をして空井さんは小首を傾げた。空井さんの容姿に騙された男子生徒が哀れでならない。
「それから暫くは空井ちゃんへの告白の件で揶揄われたそうだよその男子は」
「そうなんですね」
「そこで私は思ったのさ。空井ちゃんって子、本当に面白い生態してるんだねと。残念ながらその当時は受験期だったから話す機会無かったけど、今こうして
「私宇宙人とかじゃないんですけど?」
不服そうに空井さんは軽く息を吐いた。
なるほど。空井さんは一般受けしなくとも、こういう珍獣観察班みたいな方々からの評価は上々らしい。なんとなく空井さんと吹子さんの関係が見えてしまった。
矢場先輩はそこで少し視線を落として軽く頭を振った。
「しかし、吹子がこの学校に落ちたのは残念だったね……。まぁ言っても仕方ないんだけどさ、勉強出来ない方だったし」
「地頭良いのに努力だけは人百倍嫌いでしたからねえスーコちゃん」
「惜しい人材を無くしたよ。あの子はあの子で結構暴れて部活2、3個くらい実質潰してたし、受かってたら面白かったんだけどね」
「この高校の事務室の人説得して補欠合格掴もうと画策していましたね。失敗しましたけど」
「頭悪いなぁ……でも普段通りで安心した」
なるほど違った。空井さんの類友だったか。俺としては空井さんで手一杯なので少し安心してしまった。
心底空井さんと同じ中学じゃなくてよかったと安堵していると、矢場先輩は前髪を触りながら表情をほんのり硬くした。
「で、
「上貫です」
俺はそんな下ネタみたいな名字じゃない。てかさっきはちゃんと呼んでたよな?
「その、矢場先輩の交友関係について教えて頂きたいと思って……」
「私の交友関係? 刑事みたいな聞き込みをするね」
直接柏木について聞いて逃げられたら不味いのでつい迂遠な言い方になる。それが矢場先輩的にも引っかかったようで、少し目を細めた。
「そう大層なものじゃないからねぇ、平凡なものだよ。家に家族がいて、クラスに友人がいて、それで終わり」
「彼氏さんとかいないんですか? 例えば高身長で高学歴で人に物を教えるのが得意そうな彼氏さんとか」
うわ、直接聞きやがった……!
つい中学時代の空井さんの話に聞き入って完全に忘れていた。空井さんに迂遠な言い回しとか通じるはずがなった!
「なるほどね。会得が行ったよ。二人してそれを聞きに来たと」
そう言って矢場先輩は俺と空井さんを確認するように見て頷いた。
「そういうことなら惚気話させてもらおうかな」
「え、良いんですか?」
「隠すようなことでもないからね。ただ私と柏木さんがどれだけ深く繋がっているかを君たちに話せば良いんだろう」
めちゃくちゃ隠れて密会とかしてなかったっけ。
「深く繋がっているかどうかは興味ないです」
「お家デートでYes、No枕を片手に何をしたか気にならないかな?」
「はい。とても気にならないです」
空井さんもほら、心底どうでも良さそうだ。表情筋が笑顔のまま一ミリも動いていない。
でもここで柏木の話を躊躇いなく触れるのはプラスだ。口が裂けても言う機会は無いと思っていたけど空井さんのファインプレーとしか言いようがない。
「じゃあもう正直に聞きますが」
「ちょっと待って上貫くん」
一緒にラブホまで行った柏木が何股もしていて俺の妹にまで手を出そうとしているその真相を聞こうとした直前、空井さんがひったくるみたいに俺の肩を手繰り寄せると力付くで離される。
ほんのり焦ったように空井さんが口を近づけて小声で耳打ちしてきた。
「流石に良くないんじゃないかな」
「え、何が?」
「"あなたの彼氏さん浮気しまくってます"なんて、私とてもじゃないけど矢場先輩に言えないよ……!」
この空井さんの時々常識を発揮するの何なんだろう。お陰でまるで俺が常識無いみたいに感じてくるから少し困る。
「何でも聞いていい雰囲気だから別に良いんじゃないか」
「バカじゃないの! 上貫くんは女の子と付き合ったこともなければ話したこともないから分かんないだろうけど、こういう話は繊細に取り扱われるべきなの!」
俺は乾いた視線を目の前のクラスメイトに送る。
付き合ったことは確かに無いけど話したことはあるだろ。空井さん、俺を否定するためだけに自分の性別すら忘れてしまったのだろうか。
「分かった分かった理解した。じゃあ可能な限りそこは触れずに聞くから」
「頼むよ……?」
五歳児のおつかいを見守るような目で見られながら、俺は矢場先輩に向き合う。
「内緒話?」
「ええ、で、一つ聞いてもいいですか?」
「なにかな?」
「柏木が陽香……俺の妹に二股掛けようとしてるんですけど、彼女さんとして止めてもらえませんか?」
「上貫くん、こっち」
後ろ襟を掴まれてまた矢場先輩から離された。
顔が近い。良く分からないけど空井さんからヤンキーみたいに凄い至近距離で睨まれてる。
「さっき分かったとか言ったよね?」
「理解したと言った認識はあるな」
「二股三股してる話も触れないって言ってたよね?」
「可能な限りと断りを入れたよね俺」
「全然可能な限りじゃないじゃん。5秒と経ってなかったじゃん」
「一瞬考えてみて思ったんだ。柏木のことなんて聞く必要ないなと。それより妹が誑かされるのを阻止する方が優先度高いなと」
「…………。」
口では語らなかったが、こいつシスコンじゃんという目をしつつ空井さんが両手を組んだ。違う。俺はシスコンじゃない。ただ家族として妹のことが心配なだけで邪な感情は一切ないのだ。
しかし、シスコンという濡れ衣を晴らすためにはこの言い訳では不十分な気がする。
仕方ないな。
「……分かったよ、柏木のことをもう少し探ろうか」
「今はそれで納得してあげる」
空井さんは俺を仕方ないなぁという顔をして一度頷いた。少々イラっと来たけどそこは心をきつく縛って何も思っていない風な表情を取り繕いつつ、再度矢場先輩の下へ戻る。
「中断多くないかい、そんなに作戦タイム取るなら惚気話は別日にしようか」
矢場先輩は欠伸を堪えながらこちらに目を向けた。
別日にはやってくれるんだ。律儀なのか話したいだけなのか分からないな。
俺を信用できなくなったのか、何か言う前に空井さんが先んじて口を開く。
「すみません。それよりも聞きたいんですけど柏木先生って私生活だとどんな人ですか」
「謝罪のすぐ後にそれよりもとか言う人間初めて見たなあ、いや良いんだけどね」
「ありがとうございます」
褒められてない。褒められてないぞ空井さん。
「良い人だよ。私の事を受け入れてくれる数少ない男性だからね。それに……まあこれはいいか」
「これは良いか? 何を言おうとしたんですか?」
「普通人が言い淀んだら聞かなかったことにするよね?」
「いえ、私が気になったので」
空井さんは追及の手を緩めず、矢場先輩の真意を確認するように直視した。相変わらず空井さんは空気が読めない。しかしもう俺が止めても無駄だろうから、このまま任せることにする。
矢場先輩はそれを手で払うようにして、楽しそうに微笑む。
「何だろうね。それは他人の恋路を野暮に探る君たちが考えることじゃないかな」
「それは教えられない理由があるってこと?」
「馬に蹴られてくたばれってことだよ」
「馬なんてここにいないですけど?」
矢場先輩は口をポカンと開けて、奇妙な生物でも見たかのような表情をした。
空井さんの今の言葉は常識が足りないのか学力が足りてないのか敢えて言ったのかどれだろう判断に困るなとか、矢場先輩は意図を測っているみたいな顔をして首を傾げた。少なくとも前者は間違いない。空井さんに常識はほぼ無い。
「そうかなるほど……吹子と仲良くなれる訳だね。寧ろ吹子がいない空井ちゃんが心配になってきたけども、友達とかいるの?」
「いますよ! クラスに10人はいます!」
「10人……」
疑懼の眼差しが矢場先輩から飛ぶが空井さんは全く動じない。多分他からは友達と思われていないけど空井さんは認知が歪んでいる。空井さんの友達判定は謎なのだ。
それを察しただろう矢場先輩は信用ならないとばかりに目を一瞬伏せると、次に俺を見た。俺がクラスメイトと名乗ったのを覚えていたのだろう。取りあえず首を振って否定しておく。なんかさっきもこんなことあったな。
「これは上貫君に対する質問だけど、空井ちゃんはクラスでやれてる? 私としても吹子の友達がそうなってるのは忍びないしさ」
「そうなってる?」
「大丈夫です。無視されていたり虐められていたりは無いです」
「上貫君??」
心外そうにこちらを凝視する空井さんは意図的に無視した。矢場先輩の懸念は的を射てると俺も思う。
「ならいいんだけど……あ、ごめん。私トイレ行くから」
「あ、はい」
そう言って矢場先輩は立ち上がって図書室から立ち去った。
取り残された俺と空井さん一先ず座って待つこと5分、10分、20分、そして悟った。
───あ、これ逃げられたと。
────── ────── ──────
「逃げるとかありえないよね矢場先輩は。別に私たちの質問に答える義務があるわけじゃないんだから」
30分待っても帰ってこなかったため、諦めて図書室を後にすると俺と空井さんは一旦学食へと続く外廊下を歩いていた。放課後になれば桜沢先輩か、或いは柏木本人と接触できるかもしれない。それまで待機する算段である。
「本当に腹痛だったかもしれないだろ」
「幾ら何でも30分は長すぎるよ。生理でもそんな掛からないからね」
「空井さん。そういう話は男の前では止めない?」
「あ、でも凄い重い人ならワンチャンあるのかな」
頷きながら空井さんは独りでに納得している。よし、俺は何も聞かなかったことにしよう。幼気な男子高校生からは触れづらすぎる話題だ。
「喉乾いたよね。空井さん何飲む?」
「なになに、すごい突然話題変えるじゃん。もしかして今の私の話聞いてなくて誤魔化そうとしてる感じ?」
「付き合わしちゃってるし一本くらいなら奢るよ」
「え、いいの? ならハットブルで良い?」
「……うんわかった」
上手く話題を逸らせそうなのはいいけどエナドリか……高いけど生理の話に付き合うよりは安いかな……。
空井さんには天気の話とか無害そうな話を適当に振りつつ、本棟から少し離れた場所にある体育棟の一階にある食堂に辿り着くと、当然ながら食堂自体は既にやっていない。昼休み以外は食堂は営業していないのだ。しかし長机や自販機、あと二階にある購買はこの時間も開いているので休憩スペースとしては全然活用できる。
空井さんにエナドリを購入して渡すと、自分用にコーラを買うことにする。合計350円の出費だ。正直懐が痛いな……高校生なんだしバイトでもしようかな……。
帰ったらスマホで求人でも探そうかと考えながら取り出し口に落ちたコーラを回収しようと姿勢を屈めて、俺は自販機下の隙間に何かポイントカードのような紙が落ちていることに気付く。拾い上げる。黒を基調としていて、斜め十字にピンクのラインが入っているちゃっちい紙のカードだ。ポイントカードの表面にはスタンプが押せる空欄があって、様々な女性らしき名前の印鑑によって既に八つほど埋まっている。
「どうしたの?」
ハットブルをちびちびと飲んでいた空井さんが近寄ってきた。
横から覗いてポイントカードを眺めている。
「何か落ちてた」
「ふーん」
明らかに興味を失った空井さんの相槌をBGMに裏面も見てみる。氏名欄に『柏木秀雄』と書かれている。……柏木秀雄。柏木先生のフルネームだ。
もう一度表にひっくり返す。
良く見ると店名は『コスプレエンジェル』と書いてある。
……これはその、アレじゃないか。
「風的な俗のポイントカード?」
「空井さん、単語をぼかそうとして全くぼかせてない。けど俺も恐らくそう思う」
「え、誰の誰の? もしかして上貫くん?」
「高校生は行けんわ」
思わず大きい声で反駁しながら、スマホで店名を検索してみる。
コスプレエンジェルだけだとコスプレ衣装ばかりヒットしたので、川崎周辺の地名も検索条件を含めればビンゴ。どうやら横浜、日の出町にある風俗店らしい。
ここで空井さんもこのポイントカードの持ち主に気付いたようで、大きく目を見開いて「えっ」と驚いた声を出す。
「柏木先生、あんな感じなのに風俗行ってるんだ……。男の人って皆そうなの?」
「いや俺に聞かないでくれないか。俺が知ってるはずないだろ」
「でも将来風俗客になり得る素質を持っているのはこの場で上貫くんしかいないからさ」
「人聞きが悪いことを言うな。仮に成人した俺が風俗に行ったとして、それが陽香にバレたらそれ以降どう接すれば良いんだよ俺は」
「別に普通で良くない? たかが兄妹でしょ?」
「兄貴は妹の模範であるべきだ、そうだろ? 風俗通いの兄貴なんてゴミカスに俺はなれないね」
空井さんは一歩俺から離れた。何故だろう。真っ当なことしか言ってないのに。
「上貫くん、薄々感づいてたけどシスコンだよね」
「違う。これは家族愛だ」
「妹と結婚は出来ないからね」
「しないからな。どういえば信じてもらえるか分からないけど、例えば俺は妹に彼氏が出来ても結構ゆるゆると容認するからな?」
そう言うと空井さんも多少は認めてくれたのか、それならいいけどという顔をしてハットブルを仰いだ。そう、彼氏が出来ようが全然構わない。将来の推定年収1000万円以上で、人柄は王道ジャンプ系漫画主人公(ハーレム系はNG)のような明るく真っ直ぐがあって、俺の事を蔑ろにせずでも妹を世界で一番にリスペクトする相手なら俺だって何も言わないのだ。……いや、それだけだと少し緩すぎるな。あとは容姿も俳優とは行かずとも芸能人レベルにはそこそこ良くて学歴も偏差値60くらいの国立大学を出れる頭があって、それでいて実家が太ければもう俺は文句はない。自由に結婚生活を謳歌してほしい。
悩む俺をさておいて空井さんは口を開いた。
「で、どうする? このお店行く?」
「流石に門前払いだろ……でもこのカードは持っておこう。多分使える。」
空井さんは首を傾げた。
何となくだけど俺の体質を鑑みればこんなことも起こり得るんじゃないかとは思っていたんだよな。
恒常的な風俗通いという、きっと誰も知らない柏木の秘密。
これは絶対に柏木を強請るネタになる。
俺は財布に柏木が愛用していると思われる風俗のポイントカードを大事に仕舞いこむと、勝鬨代わりにコーラを掲げてプルを引いた。