※「Archive of Our Own」に英語版をUPしたのを機に加筆修正し、上げ直しました。pixivにも投稿済み。
-悪夢-
漆黒の闇の中。激痛とともに冷たい刃が身体を貫く感覚。見下ろすと、細身の剣の切っ先が自身の胸から突き出ていた。後ろを振り向こうとするが突き立てられている剣のおかげで叶わない。
「ぐっ…」
突如として勢いよく剣が引き抜かれ、その反動で前方にどう、と倒れる。朦朧とする意識の中、必死に身体を反転させたとき――窓から差し込んだ月光が背後の襲撃者を明らかにした。
「ミシェイル…」
痛みに耐える眸で自身を見下ろす息子の名を戦慄きながら呟くと、オズモンドの意識はそこで途切れた――
「はっ…!?」
ベッドの上でオズモンドは跳び起きた。自身の寝室。月光に照らされた室内は静まり返っている。
「はあっ…はあっ…」
オズモンドは肩で息をし、寝間着の袖で額の汗を拭った。
「何故、このような夢を毎晩…」
彼は自身の息子であるミシェイルに殺される夢をここのところ立て続けに見ていた。
「まさか、本当に儂がミシェイルに殺されるとでも言うのか?確かにあれとは対ドルーアへの方針で対立しているが…」
時はアカネイア暦598年。昨年突如として復活したメディウスによって形成されたドルーア帝国により、マケドニア王国は外交の決断を迫られていた。ドルーアに付くか徹底抗戦か――その対立の頂点にいるのがオズモンド王とミシェイル王子だった。王はアカネイアに背くなど考えられずに抗戦を主張していたが、王子は犠牲を出す前にドルーアと同盟を結ぶべきだと言い張っていた。
「このままミシェイルと対立した果てに“そう”なるとしたら…」
オズモンドはその夜、ある決意を固めた。
-人質-
「人質?」
「そうだ。ドルーアが同盟の証にと要求してきた。」
王太子ミシェイルが訊き返すと大臣や将軍、ミネルバ姫も出席する会議の場で、マケドニア国王オズモンドは重々しく答えた。
王は少し前に今までの方針を転換し、急遽ドルーアと同盟を結ぶに至った。その結果、戦いを回避できたことに多くの者が安堵していた。
――事ここに至ってもアカネイアから援軍どころか何の音沙汰もない。やはり最初からこうすべきだったのか?
オズモンドが自問する。”あの夢”もぱったりと見なくなった。そんな矢先、ドルーアから人質を寄越せと言われた。悪夢から解放されたのも束の間、ドルーアの難儀な要求をどうするかで今、王は頭を悩ませていた。
「儂の妻か子、ということだが…皆も知っての通り、妻は既に亡い。子は三人いるが、マリアは年齢から言っても到底考えられぬ。そこでミシェイルかミネルバ、お前たちのうちどちらかが人質としてドルーアへ赴いてほしいのだが…」
そう言って王はミシェイル、次に顔を曇らせたミネルバを見た。どちらかを選ぶと言ってもミシェイルは王太子で、ミネルバを選ばねばならぬことはわかっていた。王女は齢16になったばかり。咲く花のように美しい愛娘が若い季節(とき)を人質として過ごさねばならぬと思うとオズモンドの胸は酷く痛んだ。が、そのとき。
「俺が行く。」
ミシェイルが声を上げた。その場に居た皆が一斉に彼を見、オズモンドは信じられない思いで口を開いた。
「ミシェイル…。本当に、行ってくれるのか?」
「ドルーアとの同盟がこの俺の身一つで成るのなら安いものだ。」
「兄上…」
オズモンドとミネルバ始め、皆が辛そうな顔をするが。
「…なに、国が滅ぶよりずっとマシだ。」
ミシェイルはそう言って笑った。
*
昏いうちに出立した空は今まさに東方の稜線から昇ろうとする朝陽で随分と明るくなっていた。
「見送りはここまででいい。」
ミシェイルは中空で静止し飛竜ごと後ろを振り返ると、同じく中空で静止したミネルバと彼女の左右に控えるパオラ、カチュアに言った。人質としてドルーアに向かう日。一行はマケドニア王国とドルーア帝国の国境に差し掛かろうとしているところだった。
「兄上…」
「ミネルバ。父上とマリアを頼む。」
「はい。兄上、気を付けて。」
「わかっている。では、な。」
ミシェイルは微笑み、竜首を返すと彼に付き添う竜騎士二人とともに北の空へ飛び去った。
-ディール要塞-
ミシェイルがドルーアの人質となって四年の月日が流れた。二年前に開始されたドルーア軍の侵攻により暗黒戦争が勃発。アリティア王国は滅亡し、次いでパレスが陥落、アカネイア聖王国も倒れた。
その日ミネルバはマケドニアの代表者として定期的に開かれる軍議のためにドルーア城を訪れており、それは彼女にとって兄に会える貴重な機会だった。
回廊のバルコニーの四隅にある尖塔の一つ、塔内部の螺旋階段を上った最上階にミシェイルの部屋はあった。広いとは言えない。窓も小さく、必要最低限の家具しかない。窓辺の小机には本が何冊か積んである。城にある蔵書は好きに読んでいいことになっていると以前兄から聞いた。部屋の片隅にある棚の小箱にはミネルバが父やマリアから預かって兄に渡した手紙が保管されているのを、前に訪ねた際に(読み返していたのだろう)兄が慌てて仕舞うのを見て知っていた。今日渡した二通もそこに加わることになるに違いない。
「ディール要塞へ?」
ミネルバがミシェイルに訊き返した。
「ああ。パレスが陥ちてドルーアはアカネイア領を手に入れた。これを機に堅牢な要塞に俺を移すということだ。・・・もうお前とも会えなくなるな。」
「兄上…。オレルアンを平定すれば戦争は終わり、きっと兄上も国に帰れるはず…」
「どうだか。ドルーアは我らがマムクートに心から服従しているとは思っておらぬ。反乱を起こさせぬために俺を手放しはしないだろう。」
「……」
「そんな顔をするな。思ったよりは自由を与えられている。」
「おい、時間だ!」
荒いノックの音とともにドアの向こうから聞こえた衛兵の声を合図に、ミネルバは椅子から立ち上がった。
「…どうやら時間のようです。そろそろお暇しなければ。兄上、どうかご自愛なさって・・・」
「ああ。父上とマリアに『愛している』と伝えてくれ。」
ミシェイルも立ち上がると兄妹は別れの抱擁を交わした。
*
それから程なくしてミシェイルはドルーアからディール要塞に護送された。移送用の馬車を下りると目の前には高い灰色の壁で囲まれた巨大な要塞が聳え立っていた。ミシェイルは要塞を預かるグルニア兵に引き渡されて、だだっ広いその要塞のほぼ中央に位置する部屋に案内された。
「ミシェイル王子。ドルーアの指示により貴方を軟禁せねばなりませぬが、快適に過ごしてもらうために出来る限りのことはするつもりです。」
「お心遣い、感謝する。」
監視役だという若いグルニア騎士にミシェイルが礼を述べると、彼は黙礼し部屋を出た。ガチャリ、とドアに鍵が掛けられ、足音が遠ざかって行く。独りになってからミシェイルは改めて部屋を見回した。四方を石壁に囲まれた殺風景な部屋。見上げると高い天井には格子の嵌った天窓があり、そこから外光が入るのが救いだった。
「…やれやれ。ここが俺の終の棲家になるやも知れぬとは。」
ミシェイルは人知れず溜息を吐いた。
-旅人-
ミシェイルがディールに来て暫く経ったある日。要塞の中が俄かに騒がしくなった。いつものように練兵場で日課の鍛錬をしていたミシェイルは手を止めて、わやわやと騒ぎながら回廊を移動する兵士の一団を見た。どうやらケガをしている者がいるらしい。
「あれは…?」
部屋の外にいる間、常に自身を監視するグルニア騎士ブライアンに訊ねる。
「輸送隊を迎えに出ていた者たちですね。大方、物資を狙う盗賊とでもやり合ったのでしょう。」
「…ああ。」
ミシェイルは興味を失ったように鍛錬に戻った。
翌日。ミシェイルが練兵場に向かうと、そこには人だかりができていた。時折ワァッ、と一際大きな歓声が上がる。興味を引かれ、人混みを掻き分けて前に移動すると、二人の若者が訓練用の剣を交えていた。一人は見覚えのあるグルニア騎士でもう一人は紺色の髪の、端正な貌をした見知らぬ青年だった。
――俺より幾つか年下だろうか?
ミシェイルが青年を見つめ考えているうちに、青年が力強く素早い剣裁きで相手の剣を撥ね上げた。その反動で騎士は剣を手放してしまい、手首を押さえて『参った』と言った。
「他に俺と手合わせしたい人はいますか?」
青年は周りを見回すが、誰も名乗りを挙げない。やがて見物していた人々は徐々に散っていった。ミシェイルが立ち去ろうとした観衆の一人を捉まえて何があったのか訊くと、青年が騎士相手に五人抜きで勝ったということだった。
――正規の騎士相手に?
ミシェイルは強い関心が湧き、自身の鍛錬に戻ろうとした青年に話し掛けた。
「若者よ。少し話せるか?」
「ええ。あなたは?」
「俺は…」
「こちらはマケドニア王国のミシェイル王子だ。失礼のないようにな。」
「王子?」
ブライアンがミシェイルが名乗る前に告げ、青年は目を瞠った。
――身分など敢えて言わずともよかろうに。部外者である彼に“王子”というフィルターは必要ない。
ミシェイルは内心溜息を吐いた。実際、綿で作られたアイボリーのシャツに茶褐色のボトム姿の、街人のような今の彼を見て王子だと思う者は誰もいないだろう。
「ミシェイルだ。お前の名は?」
「クリスです。」
「その剣はどこで身に着けた?」
「じいちゃん…祖父からです。」
「祖父?お前の祖父は何者なんだ?」
「元アリティア騎士です。」
「アリティア…。アリティアの者がどうしてここに?」
「国が滅亡してから、俺と祖父はあちこち旅をしていてディールへは偶々…」
「そうではなく、なぜこの要塞に?」
矢継ぎ早の質問にクリスは少し当惑して後ろ頭を掻いた。
「えっ…と。昨日のことをご存知ではないのですか?こちらへ向かう輸送隊が盗賊に襲われているところを俺と祖父が助けて…」
「それは失礼した。」
ミシェイルはきまりが悪そうに目を泳がせた。昨日確かに騒ぎがあったのに自分はさして興味を持たなかったのだ。
「いえ。もう鍛錬に戻っても?」
「え?あ、ああ。邪魔をして済まない。」
ミシェイルの言葉に人好きのする笑みを返して立ち去ろうとするクリスを思わず。
「クリス!」
ミシェイルが呼び止め、クリスは足を止めて不思議そうな顔で振り返った。何故、彼を引き留めたのか。理由もなく相手を留めてしまったことにミシェイルは内心焦るが。
「…その、クリス。また話せるか?」
単純に、また会って話したいと思った。
「もちろんです。では俺はこれで。」
クリスは快活な笑顔で答えると行ってしまった。
-自覚-
ブライアンに依ると、ディールへ向かっていた輸送隊を助けた際にクリスの祖父が負傷し、彼の傷が癒えるまで二人は要塞に逗留するということだった。
クリスは毎日練兵場で鍛錬をしており、ミシェイルは鍛錬の合間にクリスと話すのが日々の楽しみになった。
その日は朝から雨が降っていた。アーチ型の、灰色のトンネルのような回廊にぽっかりと開いた出入り口と窓から、雨に煙る人っ子一人いない広い練兵場が見えた。
雨の日は筋トレを終えたら本を読むくらいしかすることがないため、ミシェイルは無頼アンに頼んで書庫へと連れて行ってもらい、本を借りてきたところだった。その帰り道で白く光る向こう端の出入り口を遠い前方に見ながら、長い回廊を歩いていたとき。
「クリス?」
T字に交わる通路からクリスが現れて、ミシェイルは思わず声を掛けた。
「王子。」
「ここで何をしているんだ?」
「祖父のために替えの湿布と包帯を医務室でもらってきました。」
ミシェイルが訊くと、抱えた紙袋を軽く持ち上げてクリスが言った。
「ああ。マクリルの具合はどうだ?」
「ええと…経過は順調です。この調子でいけば、あと一週間もすれば治るでしょう。」
「一週間…」
マクリルのケガが治ればクリスはディール要塞を去ってしまう。彼がいなくなると思うとミシェイルは寂しく感じた。
――今更だ。彼がいずれ去ることはわかっていたことではないか。
そう言い聞かせても寂しいという気持ちは拭えず、ミシェイルは思い切って口を開いた。「クリス。今日は雨で鍛錬もできない。それで、その…少し、話さないか?」
クリスは一瞬、意外な顔をしたがすぐに微笑んだ。
「ええ、いいですよ。」
「では談話室で待っている。」
「わかりました。ではまた後で。」
クリスは手を振って行ってしまった。
「私はここで待ちます。何かあればお声がけ下さい。」
談話室に着くとブライアンはそう言って出入り口の外側の壁に寄り掛かった。ミシェイルが頷いて室内に入る。談話室の存在は知っていたものの、中に入るのは初めてだった。談話室には六人掛けの木のテーブルが幾つか置いてあって、高い位置にある窓の白い光が鈍く室内を照らしていた。今は誰もいない。ミシェイルは適当に椅子の一つに座り、クリスを待つことにした。
ほどなくしてマクリルの世話を終えたクリスがやってきた。
「来たか。」
「お待たせしました。」
クリスがミシェイルの向かいに座る。
「それは何の本ですか?」
座るとクリスはすぐにミシェイルの傍らにある本に気付き、尋ねた。
「先ほど書庫から借りた戦術の本だ。…まあ実際に役立てる機会があるかどうかはわからないが。」
――人質の身では。
「戦術の…俺もじいちゃんの蔵書からよく読んでいました。」
「そうなのか?」
「祖父はアリティアの役に立つようにとあらゆることを俺に教えてきましたが、国が滅んでしまった今となっては俺もそんな機会は恐らくないです。」
「……ドルーアについたグルニアやマケドニア、グラが憎いか?」
自分で訊きながら胸が酷く痛んだ。もし彼に『憎い』と答えられたら耐えられそうにない。
「いえ…。国にはそれぞれの事情があります。アリティアが滅んだのも運命だったのでしょう。…輸送隊が盗賊に襲われているのを見た時、グルニアのものだとわかっていても放ってはおけなかった。そして…この要塞で過ごす中で、彼らが良い人たちだと知ることができました。…貴方も。」
「クリス…」
――良い人たち。
本来なら憎んでも当然なのに憎いとは言わなかった。それどころか良い人たちとまで言った。十分すぎるはずなのに、空虚さとそこはかとない焦燥がミシェイルの胸に広がる。
――これは何だ?
自問するがその感情の正体がわからなかった。
それから。静かな雨音を聞きながら二人で将来の夢や家族のこと、好きなもの、ことなど色んな話をした。のだが――ふいに部屋の外からくしゃみをする音が聞こえてブライアンの存在を思い出した。
「まずい。ブライアンが風邪を引いてしまう。」
「すっかり話し込んでしまいました。」
ミシェイルとクリスは出入り口の方に目を遣ると慌てて立ち上がった。
*
夕食後。ランタンの灯りの下、借りた本を自室で読んでいたミシェイルは文字を追う最中に気が付けばクリスのことを考えている自分に気付いた。彼の澄んで真っすぐな双眸。話すときの唇の動き。昼間会ったというのに、今も彼に会いたいと思う。もっと一緒に居たい。もっと見ていたい。そして――ミシェイルは少しぼんやりとしてランタンの灯りが揺らめくのを見つめた。
「ミシェイル王子!」
クリスが嬉しそうに駆け寄ってきてミシェイルの目の前で立ち止まった。そしてはにかむように微笑み、夜色の双眸に魅惑的な熱を秘めて、何かを期待するようにミシェイルを見上げた…
そこでミシェイルははっとして我に返った。揺らめくランタンの灯りとその傍に置かれた開いたままの本に焦点が合う。
――俺は何を…?
自身の妄想に呆然とするが――その時ミシェイルは突如、理解した。――クリスに恋をしてしまったのだと。
-提案-
翌日は快晴でミシェイルはブライアンが自室の鍵を開けに来るのを待って、彼とともに鍛錬のために練兵場に向かった。練兵場に着くと、既にあちこちでグルニア兵たちが鍛錬に励んでいた。
「ミシェイル王子!」
クリスがミシェイルに気付き笑顔で手を振った。ミシェイルはクリスの姿を見ただけで自然と笑顔になり彼に手を振り返したが、いつもと変わり映えしない今日という日に些か失望する。昨夜クリスへの想いを自覚したものの、何かが変わるわけではない。数日後にクリスが去るまで、今までと同じようにただ彼と鍛錬する日々。そして彼が去った後は、彼のいない日常に戻るだけだ。
――人質の身では、どうすることもできない。
ミシェイルは心の中で溜息を吐いた。
「王子。俺とスパーリングしてもらえませんか?」
基礎訓練を終えた後、クリスがミシェイルに尋ねる。
「それは構わぬが。」
「ありがとうございます!初日に5人と手合わせして以来、頼んでも誰も応じてくれなかったのです。」
――それは、そうだろう。この要塞にいる者たちはれっきとした軍人。一介の旅人相手に無様な姿は見せられまい。
「俺は手強いぞ?」
「俺だって負けません!」
不敵な笑みを浮かべるミシェイルにクリスが強い瞳で見返し、訓練用の剣を手渡した。
流浪の剣士クリスとマケドニア王国の王子ミシェイルが模擬戦闘を始めたのを見て、周囲のグルニア兵たちが集まってきた。二人が優れた剣技を繰り出す度にワァッ、と歓声が上がる。クリスの方が機敏だったが、ミシェイルも長身に依るリーチの長さを活かし、一進一退でなかなか勝負がつかない。とうとうブライアンが頃合いを見て引き分けを宣言しようと考え始めたとき。
「!」
ミシェイルが丸い石を踏んでバランスを崩し、後方に転倒してしまった。
「くそっ!俺の負けだ。」
ミシェイルは悔しそうに下唇を噛み――ふと、目の前に差し出された手に気付く。思わず見上げ、微笑んで自身を見下ろすクリスと目が合った。
「今回は引き分けです。…さあ。」
「…」
ミシェイルはクリスの温かい眼差しにふいに昨夜の妄想を思い出して彼が差し出した手を取ることを一瞬躊躇したが、観衆たちがどよめく中、ぎこちなくその手を取り、立ち上がった。
「次は勝ちます。」
自信に満ちた顔で言うと、クリスは鍛錬に戻って行った。その後ろ姿を無意識に目で追う。彼が行ってしまった後も、彼の温もりが掌に残っている気がした。
*
「王子。少し、お話よろしいですか?」
ミシェイルが鍛錬を終えて自室に戻るとブライアンが言った。いつもなら部屋に送り届けて鍵をかけるとすぐに行ってしまうのに今日はどうしたというのだろう?ミシェイルは不思議に思ったがとりあえず頷いて部屋の中央にある二人掛けの小テーブルを示し、彼と向かい合って座った。
「単刀直入に言います。王子はあのアリティアの若者が好きですよね?」
開口一番、ブライアンは尋ねた。室内唯一の光源である天窓の明かりが彼を照らし、陰影が彫りの深い顔立ちを際立たせている。
「…何故そう思うんだ?」
「見ていればわかります。」
――俺はそんなにわかりやすかっただろうか?
ミシェイルの動揺を意に介さずにブライアンが続ける。
「若い身空で何年も人質として過ごさなければならない王子をお労しく思っていました。恐らくクリスはあと数日でここを去ってしまうでしょう。その前に一度だけでも二人で過ごさせてあげたいと思いまして。…つまり、デートです。」
「この要塞の中でお勧めのデートスポットがあるのか?」
――この殺風景な灰色の空間のどこにデートするのに相応しい場所があるというのか。
ミシェイルが失笑しそうになりながら訊くと、ブライアンは真面目な貌で僅かに身を乗り出した。
「この要塞の中でではありません。例えば要塞の南西にある海の見える丘なんてどうでしょう?」
「要塞の外へ行くというのか?無理だ。あのジューコフが許すはずがない。」
もちろんクリスとのデートは魅力的に思えたが、ディール要塞を預かる提督であるジューコフが人質の身であるミシェイルに外出を許可するとは到底思えなかった。それでもブライアンは熱心に続けた。
「要は、貴方が逃げないという保証があればいいのです。クリスは祖父のマクリルがここにいる限り去ることはなく、そして貴方はクリスと一緒に居たい。そうでしょう?」
「それはそう、だが…」
「ジューコフ卿も大恋愛の末にご結婚された身。きっと理解してくれると思います。」
「……」
――もしそれが叶うならば。いつ終わるとも知れぬこの灰色の空間での軟禁生活において、思い出す度に幸せな気持ちになれる思い出を、外界の鮮やかな色彩の中で一つでもクリスと作りたい。
ブライアンの言葉にミシェイルの心が急速に傾き――
「…わかった。外出の許可が下りることを願っている。」
と期待を込めて言った。
*
「遠乗り?」
次の日の鍛錬の休憩時。ミシェイルはクリスに外出の件を切り出した。ブライアンの言った通りジューコフの許可はすぐに下りた。厩舎の馬も使っていいということで、あとはクリスの返事をもらうだけだったのだが――
「ブライアンさんも?」
「いや、俺とお前の二人だけだ。」
「人質の貴方に監視もつけずに部外者の俺と二人で要塞の外へ行くことが許可されたというのですか?」
心底不思議そうにクリスが尋ねるのにミシェイルは少し考えて、
「…俺を信用してくれている。」
と答えた。まさか彼の祖父が人質代わりだとは言えない。
「それだけ信頼されるなんて…すごいです。」
「ああ、まあ…それでクリス、返事は?」
感心するクリスに返事を促す。彼が来てくれるかどうかが肝心だった。
「えー…と俺、一応馬には乗れますが多分、乗馬はそんなに上手くないと…」
クリスが遠慮がちに言うが、灰色の壁の外の景色を些か恋しく思い始めていたところだったので、ありがたくその誘いを受けることにした。
「…けれど王子が誘って下さるなら喜んで?ご一緒します。」
「そうか、よかった!では明日行くからそのつもりでいてくれ。」
ミシェイルは晴れやかな笑顔で言った。
-外出-
翌日。ミシェイルとクリスは馬に乗り、午前中にディール要塞を出発した。空に目を遣ると晴れた空を覆う薄雲が程よく陽を遮ってくれ、緑の野を吹き渡る風も爽やかだった。ふとミシェイルの目が遠い空を旋回する飛竜の影を捉え、竜騎士が周囲の安全を確保してくれていることを理解し、心の中で感謝した。
「王子!何処へ行くのですか?」
平原を南西に向かうミシェイルの横に並んで駆けながらクリスが話し掛けると、
「海だ。」
という答えが返って来た。要塞の南に向かってもいずれ海に出るということだが、ブライアンに教えてもらった南西にある丘を目指す。
馬を気遣って時には歩かせつつ緩く駆け続け得ると、平原を曲がりくねって横切る小さな流れに出合った。
「ここで少し休憩しよう。」
ミシェイルは馬を下りて馬に小川の水を飲ませ、クリスもそれに倣った。
「…お供が俺でよかったんですか?」
馬が水を飲むのを見ながら、クリスが訊いた。
「何?」
「俺は腕に覚えはありますが、ブライアンさんとか、もっと貴方と長い時間を過ごしてきた人が幾らでもいるのに。」
――クリスは何を言っているんだ?
ミシェイルが怪訝な貌をする。
「俺はお前と来たかったんだ。」
「王子…」
クリスがはわぁ…と感動した様子でミシェイルを見たので気持ちをわかってくれたのかとほっとしたのも束の間。
「俺みたいな者を友達だと思ってくれてすごく嬉しいです。」
「と…友達?」
クリスの言葉にミシェイルが信じられない思いで彼を見返した。“友達”とわざわざ管轄者に外出の許可をとってまで二人で出掛けようと思うだろうか(しかも馬でなければ行けないような距離の場所だ)?
ミシェイルの思いを余所に、クリスは彼の反応を別の意味に捉えた。俯いて決まり悪そうに後ろ頭に手を遣る。
「あ…すみません。友達だなんておこがましいですよね?」
「…」
――クリスはこれがデートだと思っていないのか?
愕然として、思う。ミシェイルとしては彼にもデートとして今日という日を過ごして欲しかったため、これはデートなんだと言い掛けたが、寸でのところで思い止まった。デートだという認識なしに出掛けることをOKした相手に必死に説明するのは滑稽に思えたし、伝えた後に気まずくなったり、ここで引き返すことになったり、最悪クリスが一人で帰ってしまうという事態にもなりかねない。
――とりあえず、目的地に着いてからだ。
ミシェイルは心の中で結論付けた。
その後も幾度か休憩を挟みながら、二人は午近くに海の見える丘へと辿り着いた。まばらに生えている木の一つに手綱を結びつけるとミシェイルは馬の背に括りつけてあった大きな袋を取った。
「ここで昼にしよう。」
ミシェイルは葉の生い茂った比較的大きな木を選び、その木陰に袋から取り出した敷物を敷き、次いで食べ物が入っている紙袋と水筒を出していく。
「わ…何かまるでピクニックみたいですね?」
昼食が次々と敷物の上に置かれていくのを見ながらクリスが子供のように顔を輝かせる。
「『みたい』じゃなくてピクニックのつもりなんだが。」
ミシェイルがやや不機嫌に答え、敷物に座ると自身の隣りを掌で叩いた。
「座るといい。」
「はい。」
素直に隣に座ったクリスにミシェイルが彼の分の昼食を手渡す。袋の中身は薄くスライスした肉と野菜を挟んだパンにりんごが一個。水筒にはクランベリージュースが入っていた。二人は青い海を前方に見ながら食べ始める。
「美味しい。これ、今日の食事当番の兵士さんが用意してくれたのですか?」
「ああ。」
ミシェイルは夢中でサンドイッチを頬張るクリスをちらりと見た。目の前には穏やかな美しい海、白い薄雲が棚引く青空。最高のロケーションに快い海風、時折聞こえる鷗の鳴き声。そんな中で、二人きり。その“いかにも”なシチュエーションでもクリスはこれがデートだと気づいていないようだった。
――こんなに鈍感では…
ミシェイルは心の中で嘆息するが――やはり、彼にはこれがデートだと知って欲しかった。彼がディールを去った後、たとえ二度と会うことがなくとも、彼のこの先の人生で二人で過ごした今日という日を思い出したときに懐かしく温かな気持ちになってくれたら。それは切なく甘く、胸が締め付けられるような願望だった。――そしてふいに、一つの考えがミシェイルの頭に浮かぶ。
――そうだ。いっそのこと、告白しよう。
告白すればミシェイルのことも今日のことも、クリスの心により強く刻み込まれるかも知れない。
――よし!
ミシェイルは決意した。
それから。二人でランチしながら告白のチャンスを窺っていたミシェイルだったが、その機会は思わぬ形で訪れようとしていた。
「ふぁ…、食べたら俺、眠くなってきました。少し寝てもいいですか?」
「いいぞ。お伽噺みたいにキスで起こしてやる。俺は王子だからな。」
昼食を食べ終わった後クリスに訊かれ、ミシェイルがニヤリと笑って答える。クリスはミシェイルに眠そうな笑みを返し、横になった。
*
そして。
「…?…!?」
唇に柔らかく温かいものが何度も触れる感覚にクリスは驚いて目を覚ました。視界に入る赤い髪にぎょっとする。
「な…ちょ…ん…」
言い掛けた言葉は僅かに離れて直ぐ再び重ねられた唇に消えた。反射的に腕を上げて押し退けようとするが、肘を押さえ込まれていることに気付く。
「王…子…」
何度も口づけられた後、漸く離れた相手をクリスは呆然と見上げ――ぎこちない動きでゆっくりと起き上がった。
「起きたか。」
「お…お…『起きたか。』じゃありません!何でこんな…」
「キスで起こすと、言ったではないか。」
平然と宣うミシェイルにクリスは怒りも露わに。
「全っっ然、笑えません!幾ら冗談でもタチが悪すぎます!」
「悪ふざけではない。お前が好きだ。恋愛対象として。離れたくない。傍に居て欲しい。俺の恋人になってくれないか?」
もともと、ここまで言うつもりはなかった。だが言葉は自然と口をついて出た。言葉にしたら、それが嘘偽りのない自身の本心だとミシェイルは気づく。思い出だけで満足できるわけがなかった。
ミシェイルは驚きに目を見開いて固まってしまったクリスを真っすぐ見つめたまま辛抱強く彼の応えを待った。そして。ついにクリスは放心状態から我に返ると頬を染めて俯き、目を逸らした。
「……じ、」
彼の唇が動き、言葉が零れ出るのをミシェイルが見守る。
「じいちゃんに相談しないと…」
「…ああ、そうだな。返事はその後でいい。」
ミシェイルは柔らかな午後の光に煌めく海を背に、微笑った。
-手紙-
602年〇月×日
親愛なる父上、妹たち
お変わりないですか? いつも気遣いに満ちた温かい手紙をありがとう。
さて、今回は皆さんに是非ともお知らせしたいことがあって筆を執りました。
ここディールで恋人ができました。少し前から要塞に滞在していたアリティア出身の旅人でクリスと言う青年です。彼は私のために彼の祖父マクリルとともにこれからもディールに留まることになりました。とりあえずご報告まで。
どうぞお元気でお過ごし下さい。いつか再会できる日を楽しみにしています。
愛を込めて ミシェイル
―寝物語―
「それでそれで?」
小さな女の子はベッドから乗り出しそうになりながら母親にお話の続きをせがんだ。
「…それでね、東の要塞に囚われていた異国の王子様はアカネイア連合軍に助け出されたの。その後のことは・・・ルルも知っているでしょう?」
「うん!戦争が終わって世界は平和になったんだよね!」
「そうよ。…ふふ、お話はもうお終い。さ、寝なさい。」
「はぁい。」
母親が掛け布団を娘の顎まで引き上げて部屋を出ようとしたとき。
「ねえ、ママ。」
「何だい?」
「あのね、ルル、南の丘に二頭の飛竜が降り立つのをこの前見たの。」
「おや。もうあの要塞に竜騎士はいないはずだけれど・・・。海の向こうから来たのかしら?」
母親が首を傾げる。
「ルル、今度見かけたら近くに行ってみよっかな。」
「危ないからお止しなさい。…おやすみ、ルル。」
「おやすみ、ママ。」
少女は母親に微笑み、眠りに就いた。