大昔、魔法使いと人間は戦争をしました。人間は海を殺し、山を削り切り、たくさんの魔法使いを消しました。
 人間に家族を殺された、一人の魔法使いの生き残りは、死に場を探しているようです。
 なろうにも投稿しています。

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大昔、海は青かったらしい。

 

 

 魔法使いムウレネは、人間が大嫌いである。それはもう、一生かけても覆らぬほどの嫌悪感を抱いていた。

 しかしそれは仕方のない事であり、逆に嫌悪しなければならぬ事であった。

 

 かつて、魔法使いは人類の王のような存在であった。

 人類よりおよそ五倍は長生きで、人類には使えぬ魔法という最強の術が使えたからである。しかし、約500年前だったか。一気に風向きは変わった。

 人類は機械と化学を手に入れた。魔法使いは長生きな分、新しい技術に疎く、王のような存在であったことから、数が少なかった。その為、機械と化学で進化をして行く大勢の人類に敗北するようになって行った。

 人類は好き勝手に環境を破壊した。海や空気は汚染され、動植物は死んでいく。

 そんな人類に魔法使いは激怒した。やがてその怒りは戦争につながった。そして、結局魔法使いは王を殺される直前に降伏し、大敗北を決した。

 結局のこと、大空を飛べても、炎が出せても、それは飛行機よりも遅く、ライターより簡単なことではない。

 魔法使いは、科学に勝てなかった。

 

 そして、その100年後……現在は、その憎しみによって、新たに戦争が始まっている。

 

 

 ムウレネの家族や友も、皆この戦争で殺されて行った。今もなお、戦争は続いている。

 銃声が聞こえる。爆発音が悲鳴が、断末魔が、耳を貫く。たくさんの同族が、仲間が殺されて行く。しかし、ムウレネはいくら憎くとも、人間を殺すことはできなかった。

 ムウレネは、攻撃魔法が一切使えない。使えるのは色を吸い取って、その色をどんなものでも染め上げ、魔法のインクにする、色彩の魔法だけ。

 ムウレネは無力だった。ただの長生きの人間と同然だった。

 それなのに、母や父はムウレネを庇って死んだ。

 

「……死にたく……ない。無能な私なんかが生きていいわけ、ない。でも、死にたく……ない」

 

 ムウレネは、空き家の中に潜んでいた。誰もいない、数年前に引っ越したのであろう小さな家だ。ここなら見つかる心配はなかった。

 ムウレネは、窓にカーテンをかけて、外が見えないようにした。見つからないようにしたかったわけじゃない。

 ムウレネは怖かった。きっとみんなは自分のことを憎むのだろうと知っていた。みんなが仲間を守り、復讐を果たすために戦って居るのに、見殺しにして居るなんて、許されぬことだ。

 ムウレネは机の下に隠れて、戦争が終わるその時を待ち続けた。

 

「嫌だ、死にたくないよぉ。お母さん……助けて」

 

 何時間経ったのだろうか。家の前だったのか、一際大きく泣く少女の甲高い声がムウレネの耳に響いた。

 自分よりももっと小さな少女の声だった。

 ムウレネはその時、助けなければ、と思った。外に出るなんて、無謀なことなのはわかっている。

 

 それでも、ほんの小さな罪悪感で、ムウレネは動けた。机の下から這い出し、古くて硬いドアの鍵を開けた。

 開けた途端、ムウレネは走り出した。そして家の前で泣いていた少女の手を取り、家まで駆け出した。

 

「何するの! お姉ちゃん、人間!?」

「私は人間じゃない……! 魔法使いムウレネだ。キミを助けに来たんだよ」

 

 走りながら、ムウレネは少女に言った。ムウレネがそういうと、少女はポロポロと大粒の涙を流しながら安堵の微笑みを浮かべた。ムウレネも、少女に微笑みかける。

 ばん。軽い発砲音が響いた。それは、本当に一瞬で、儚いものだった。

 

「……あ」

 

 少女の手が、体がだらりと崩れ落ちた。赤黒い液体を地面に撒き散らして、安堵の微笑みのまま、命を散らした。

 会話を聞かれたのだろう。きっとそれで魔法使いと判断されて、偶然後ろにいた人間に撃たれたのだ。

 ムウレネはそう判断するのに何秒も費やした。

 

 ムウレネは、いつの間にか手を上げて降伏していた。

 死にたくない、生きたいという一心だった。

 

「お前は、魔法使いか? 何歳だ?」

 

 人間に、そう問われた。ムウレネは後ろを振り向かないまま、答えた。声は恐怖のあまり、今にも消えてしまいそうなほどに震えていた。

 

「魔法使いです。でも、まだ10歳なので攻撃魔法が使えないんです」

 

 本当は、12歳だった。それでも十分小さいが、年齢が小さいほど救ってくれる可能性は高いと感じた。

 ムウレネは、嘘をついてしまうくらい、死にたくなかった。

 

「……お前、人間は嫌いか?」

「……」

 

 ムウレネは、好きだ、と言おうとした。が、喉から飛び出したのはそれと似つかぬ言葉だった。

 

「嫌い……です。でも、悪い人ばかりじゃない……と思います。だって、魔法使いは長生きで魔法が使えるだけ。それしか、違わないから」

 

 色彩の魔法使いムウレネは、この戦争で、魔法使いの最初で最後の降伏者であった。

 

 

 

 

「いらっしゃいませー。魔法のインク、いかがですかー? どんなものでも綺麗に染め上げる、不思議なインクですよー」

 

 やや棒読みになりながらも、ムウレネは一人道路の端で呼びかけた。ムウレナの得意な色彩の魔法で作ったインクが並べられている。

 ムウレネは色を持つものに触れる事で、色を吸い取り、インクにする事ができるのである。

 お金の無くなったムウレネは、そのインクを売る事で、なんとか生き残っていた。

 

「あの、すみません。海の色ってありますか?」

「ないですよ。と言うことで、帰ってください。買ってくれない人に用はないし、邪魔なので」

 

 暇な中やって来たのは、十四、十五くらいの少年だった。

 だが、最近は老化止めなんて薬が流行っているらしいし、本当に少年なのかは怪しいところだ。

 ムウレネが少し……いや、かなり辛辣な事を言ったのに、彼は引く様子がない。

 

「いいえっ! 絶対に海の色が欲しいんですっ!」

「何が嫌なんだよ。ないって言ってんだろうが」

 

 思わず、するりと悪口が飛び出した。

 自分が思っているよりも、己は人間が嫌いなのかもしれないな、と思いながらため息をついた。

 これ程強い言葉を投げかけたと言うのに、少年がめげる気配はない。

 

「なら、作ってください。お金は高く支払いますので……」

「しつこいです。商売の邪魔です。営業妨害です。稼げた分弁償してください」

「いいですけど、そのかわり海の色を……」

 

 お互い、一歩も引かない。引いたら負けだと言わんばかりに、何分も何十分も睨み合いを続けた。

 先に折れたのは、ムウレネだった。

 なんだかこのやり取りが、馬鹿馬鹿しく思えて来たからだ。

 

「明日は店、休みにするのでここに来てください。一人で色作るの大変なので、手伝ってもらいます。朝七時からですよ? 遅れたらもう作りませんから」

 

 少年は少しの間、ポカンとしていたが、やがて意味を理解したのか、パァっと表情を緩めた。

 ムウレネは少年を無視して、何事もなかったかのように、商売を再開した。

 

 少年を見て、思う。やはり、人間は嫌いだと。

 人間はなぜあれほどまでに、自己中心的で、自分勝手なんだろうか。

 己と寿命が二百年も違うから? ──いや、それは関係がないか。それはともかく、人間はムウレネの家族を殺した。だから、嫌い。

 ──ただ、それだけのことである。

 本当に、それだけのことだ。

 

 

「本当に来るとは思わなかったな」

 

 次の日、ムウレネが屋台のあった場所に立っていると、少年が走ってこちらにやって来た。

 

「どうしても、欲しいので」

 

 走って来た少年は、息も絶え絶えで、今すぐに死んでしまいそうだな、と思った。もちろん、そんな事はないだろうが、それでも不思議とか弱く見えたのだ。

 人間の死とは、それほどまでに早く、儚い。

 

「なら、一度海に行こうか。どうせお前たちのせいで

 青色、少しもないと思うけど」

「なんか、すみません。そういえば……敬語」

 

 ムウレネは、意地悪に笑った。まるで極悪人のような顔だったものだから、少年はそっと一歩下がった。

 

「今、店閉まってるから。お前は客じゃないよ。ただの、邪魔者。だから敬語はなし」

「……昨日から思ってたんですけど、ちょっと口悪いですよね」

 

 少年が不意に呟くと、悪そうな顔をしていたムウレネは、さらに笑みを強めた。

 

「私は人間が嫌いなんだ。だから、お前たち人間だけに強く当たってるだけ。別に口が悪いわけじゃないよ。なんで嫌いかは……分かるよね?」

「……」

 

 少年は気まずそうに、目を逸らした。

 そのまま、罪悪感で溶けてしまえ。とムウレネは呪った。

 

「──……黒いね」

 

 海辺に着きはしたが、やはり海は濁り切っていて、空の青など写しはしない。まぁそれは、当たり前だろう。海は死んだのだから。

 死んだ海の水は赤黒いような、そんな色になっていて、表面は工場の油か何かが浮かび上がっていた。

 

「……。僕、海の色を作ったら、海に青を取り戻したいんです」

「海に青をつけることは……まぁ、出来なくはないけど。失った生き物は戻らない。それに、手にすくったら、水だって濁り切っていると思うよ」

 

 ムウレネがそう言っても、少年はおっとりと笑むだけだった。

 

「知っていますよ。でも、見た目だけでも良いのです。僕は、青い海を取り戻したいだけだから」

 

 ムウレネは少し黙ってから、一つの小瓶を取り出した。なんのインクも入っていない、ガラス製の小瓶だった。

 

「花屋でも行こうか。場合によっては宝石屋もいいかもね。いい青色があるから」

 

 そっけなくそう言ってから、すたすたと一人で歩き出したムウレネの背中を、少年は小さく笑いながら慌てて追いかけた。

 

 結局、一日中青色を探し回ったが、少年の満足のいくものはなかった。

 ムウレネが持っている青色のインクをたくさん組み合わせても、少年は首を縦には振らなかった。

 

「はぁ。もう日が暮れて来たよ。今日はもう終わりだね。明日も探すから、来てよ」

「……え。まだ探してくれるんですか?」

 

 少年が驚いてムウレネを見ると、ムウレネはごく小さな声で、まぁね、とだけ言った。

 正直、こだわりが強すぎて呆れられているのだとばかり思っていたのだ。少年は申し訳なさと喜びで、微妙な表情になった。

 

「ありがとうございま……」

 

 礼を言おうと、顔を上げた時には既にムウレネはこちらに背を向けて、反対側へ歩き出していた。

 少年は、今日のことを幻覚のように思って、何度もムウレネのいた場所を見つめていたのだった。

 

 それから毎日毎日、二人は絶えなく海の色を探した。勿論、毎日真面目に探していたのではなく、途中で飽きて、遊ぶことも少なくはなかった。

 例えば、砂浜で砂の城を作ったり。いろんな店をまわって買い物をしたり。そんなふうに、まるで友達のように過ごす内に、ムウレネは段々と態度を軟化させていった。

 今日も、色を探すついでに漂流物を集めて遊んでいた。日が低くなり、風が冷たくなりつつある、そんな時間だった。

 

「見て、ムウレネ! 綺麗な青色のガラスだよ!」

 

 少年は、ムウレネにシーグラスを渡してみせた。少年はあれからいくつも立つと言うのに、名を名乗らない。

 ムウレネが尋ねても、決して不思議な程に名乗らなかった。

 シーグラスを空に翳してみせる。薄い青色。擦り切れたガラスは日光によって、ほんのりと透き通って見えた。

 まるで、水みたいだ。でも、海の色ではないらしい。

 彼は海の色に対してだけ、厳しいのだ。

 

「……そうだね。綺麗な青色だ。小さい時にすくった海の水みたいだ」

 

 ムウレネは、少年にそう返した。少年はにっこりと嬉しそうに笑った。

 

「そう思う? よかったぁ。──……あ、そうだ、ムウレネ」

 

 少年は、ムウレネの瞳をそっと覗き込んだ。

 ムウレネのひとみは極彩色だ。色んな色が混ざり合っているのに、濁りきらない不思議な虹の色。

 少年は前から気になっていた事を、さりげなく何事もないかのように、呟いた。

 

「ムウレネはどうして、旅をしているの?」

「…………迷っているから」

「……? 何に?」

「……死ぬ事だよ」

 

 ムウレネは絞り出すように、か細い声を出した。喉がきゅっと絞り込まれて、今にも潰れてしまいそうだと錯覚した。

 

「……私の家族は、人間によって殺された。そして私は惨めな事に、人間に降参したんだ。魔法使いで唯一」

「……」

 

 少年は、惨めじゃないよ、と慰めようとしたが、ムウレネの顔はそれを望んでいないように見えた。

 きっと、自分がそう言っても、偽善を吐き出したようにしか見えぬのだろう。

 少年は黙りこくった。

 ムウレネは、ぽつりぽつりと、話し続けた。

 

「私は落ちこぼれでね。大体の魔法が使えなかった。唯一色彩の魔法は使えたけれど。……それでも、こんな魔法は要らなかった。攻撃魔法が、使いたかったんだ。……そして、その力で家族を守りたかった」

 

 ムウレネは、自分の手を眺めた。

 一番憎かったのは、人間なんかじゃない。無能で根性なしで、勇気のない己だった。

 あれから何年も何年も悔やんだ。人間から解放された時も、その後も、今もムウレネは己に堪えきれぬ激怒を抱いていた。

 

「時々、死んでしまいたくなるんだ。憎しみに溶け込んで死んだら、どれほど楽になるだろうって」

「……そんな」

 

 ムウレネがそんな感情を、抱いていた事には気づけなかった。もう一度、瞳を見た。極彩色の瞳。虹みたいに綺麗だけれど、それはどこか虹のような透明感に欠けていた。手を伸ばしても伸ばしても届かぬ沼を覗き込んでいるように。

 

「…………私は、死ぬべきだろうか」

 

 少年は、ごくりと生唾を飲んだ。手が小さく震える。次の自分の一言で、ムウレネを殺してしまうと考えると、恐ろしくて、恐ろしくて仕方がない。

 何分もたったように感じた。静寂の中、少年は全く関係のないことを、そっと呟いた。

 

「──ムウレネ。海に行かない?」

「……」

 

 ムウレネは戸惑ったように視線を彷徨わせて、そして小さく頷いた。

 

 

 ざぁっと波が引いていく。波が引いたところは赤黒く血のように見えて、ムウレネは少し目を逸らした。

 今日も海は黒い。大昔いたとされる魚の姿もない。あるのは人間が捨てたゴミだけ。

 

「大昔の話だけどね。海は青かったんだ」

「……本にはそう書いてあるね」

 

 ムウレネは、青色の海を見たことがない。本の記述や画像では見たことがあるけれど、本物はない。別に興味を示す対象でもなかった。……そんなことは考えもせず、小さい時のムウレネはひたすらに魔法の練習をしていたものだ。

 

「それでね、青い海には人魚がいたんだ」

「……人魚?」

「そう。上半身が人間で、下半身が魚! 不思議でしょう?」

 

 ……不思議と言うより、率直に言えば気持ちが悪い生物だ。魚と人間の繋ぎ目を考えると少し鳥肌が立つ。

 ムウレネの様子に気づいていないのか、それとも無視しているのか。彼は目を閉じながら、さっきのやり返しのように、続けた。

 

「僕はね、人魚だったんだ。大昔」

「……は?」

 

 素っ頓狂な、間抜けな声が漏れた。ムウレネは彼の顔を見るが、彼は大真面目な顔をしていて、嘘をついている雰囲気はない。

 美しい、どこまでも透き通った青い瞳が此方を貫いているように感じた。

 

「海は僕にとって故郷なんだ。今も、昔も、いつでも」

「それって、本当の話?」

 

 ムウレネが耐えきれなくなって尋ねても、彼はニコリと微笑み返すだけ。答えようとはしてくれない。

 ムウレネは不満気に彼を睨みつけてみたが、効果は感じなかった。

 

「……海って、どんなのだったの?」

「──そうだね」

 

 彼はぼんやりと地平線を見つめながら、目を細めた。まるで今はないかつての海を見ているかのように。

 

「水は今と比べ物にならないくらいに、透き通っていた。そんな中に色とりどりな珊瑚礁が、彩りを加えていて、燃えるように揺れる海藻の森が僕達をくすぐっていたんだ。夜になると、月光が海中にオーロラのように輝く。……とても、良いところだったよ」

「…………」

 

 彼の瞳は、きらきらと輝いていた。そんな風に話してから、彼はニヤリと笑っていった。

 

「お互いの事を話せたね。これで、平等」

「……そうだね。結局、キミは何が言いたいの?」

「人間ってね、いい人もいるんだよ?」

 

 少年は街のほうを振り返り、言った。ムウレネも少年を真似して振り向いた。

 

「人間が汚染した海によって、僕の同族は死んだ。でもね、死にかけていた僕を救ってくれたのも、また人間だったんだ」

「…………」

 

 ムウレネは内心でどきりとした。ムウレネを保護してくれた人間は、本当に全員残酷だったのだろうか。

 優しくお世話してくれた人間。悲しむムウレネを励ましてくれた人間。

 そんな人間と接するうちに、人間も魔法使いも、そんなに変わらないんだなと、そう思った。

 けれど、ムウレネの家族は人間に殺されている。だから、人間を憎まなければ、両親に申し訳なくて仕方がなかった。

 

「僕は人間も魔法使いも好きだよ。キミも、そうでしょ?」

「……そうかもね」

 

 曖昧に返しても、少年は顔を綻ばせた。ムウレネは少年の思い通りの展開になることに少し不満を持ちながらも、自然と口角を上げた。

 

「僕はキミに人間と魔法使いを繋ぐ架け橋になってほしい。だから、キミは死んじゃだめだよ。両親や同族の分も、生きるんだ」

「…………そう。キミはそう思うんだね」

 

 ムウレネは思い切り息を吸った。汚染された空気。お世辞にもおいしいものではない。

 それでも心の中に突き刺さっていたトゲが取れたような、そんな気持ちになった。

 

「実は私、海の色、持ってるんだよ」

「うん。そうだろうと思った」

 

 少年はふんわりと頷いた。ムウレネは鞄から小瓶に入っているインクを取り出した。

 綺麗な青。深い、それでいてキラキラと輝く、海の色。

 この色を取るのは、そう難しくはない。よく晴れた日に色のついていないバケツいっぱいに水を入れて、その色を取るだけ。

 

「最初は意地悪であげるつもりがなかったけど、どんどんキミと仲良くなりたくなって、一緒にいたくて、それで嘘をついたんだ」

「ふふ、ありがとう」

 

 少年は照れくさそうにころころと笑った。ムウレネは目をパチパチとさせた。

 少年がこんなふうに笑うのは初めてだった。

 いつも余裕そうな少年が、ようやく嬉しそうに笑ってくれた。ムウレネはその事実が堪らなく嬉しいのだ。

 

「でも、もう意地悪は辞める。キミに貸しを作ってしまったからね」

「そうか。ありがとう」

 

 少年の手に、海の色の入った瓶をそっと握らせた。

 少年は何度も何度も光に当てて、瓶の色を見た。

 まるで何かを思い出すように、瓶の中のインクを揺らして、揺らして、そうしてから小さく微笑んだ。

 

「僕はみんなに見せたかった。海は黒なんかじゃなくて、もっと鮮やかで世界一美しい青だってことを!」

 

 少年は瓶の蓋を開けた。

 今では滅多に見かけない、コルクでできた瓶の蓋を、少年は大切そうに握った。

 そして、赤黒い海に、海の色のインクを一気に流し込んだ。

 

「わぁ……」

 

 ムウレネの口から、らしくもない声が漏れた。

 

 海がどんどんと青に染まっていく。

 どんな青よりも鮮やかで、それでいて深いブルー。陸に近づくほどエメラルドに輝き、地平線の向こうはもっともっと深いブルーに変わる。

 

 太陽の光によって海が輝く。

 金色がゆらゆらと、波が揺れるたびに光り輝いた。

 それはどんな星よりも眩く、それでいて幻想的だった。

 

「ああ、海だ。僕は、みんなの海を取り戻せたんだ」

 

 少年は、一粒の涙を溢した。

 同族や魚たちの血に染まる海。

 大気に汚染される海。

 人間の手によって少しずつ汚される海。

 

 その度に、涙を流した。

 少年は、海を愛している。

 今も、昔も、そしてこれからも。

 

「ムウレネ。ありがとう。本当に、ありがとう」

「私は、何もしていないよ。海だって、死んだままなんだ。植物やプランクトン、魚たちやキミの同族を生き返らせることはできなかった」

 

 ムウレネは、少年の持つインクをじっと見つめた。

 確かに、ムウレネは大きな力を持っていない。

 色彩の魔法しか、使えない。

 それを恥ずかしいことだと思っていた……けれど。

 

「でも、この魔法が使えることは、悪くないかも」

 

 ムウレネは、この上なく美しい海を見て、心の底から、そう思った。

 

 

 




染めたとしても、海は元に戻らない。海水を飲んだら死に至る海は、今も変わらず、死の海のまま。

読んでくださりありがとうございます!

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