「ドーナツの穴だけを残して食べられるか」
ことねのバイト先であるドーナツショップに来た、コーヒー1杯とドーナツ1つで長居するつもり満々の大学生2人組は、サブカル好きが好みそうな、いかにもな話題を展開している。YOUTUBEで得たであろう知識を誰かに披露したくて堪らないといった顔つきであった。周りの迷惑など考えずに大声で知識自慢をする2人に声を抑えてくれと時々頼みに行くことも仕事の内である。
アクセルとブレーキを踏み間違えた高齢ドライバーが偶然ピンポイントにその席に駐車してくれないかと祈ることねであったが現実はそう上手く行かないことを知らぬ歳ではない。
休憩中、ことねはため息交じりに廃棄時間になったドーナツを齧る。時間の経ったドーナツは柔らかな食感で噛んだ部分から油が少し浮き出てくる。揚げたてとと比べると味は劣るものの、食べられぬほどではない。
バイトを始めたての頃はこれを持ち帰ってチビたちに食べさせた。大変、評判は良かったが、店頭に並ぶドーナツを前にした客が、それはもうよく喋る。飛沫が降り注ぐのを見て、持ち帰るのをやめた。それでも、まだ食べられるものが目の前で捨てられるのは見るに堪えない。貧乏性の悪い部分である。自分の食費を浮かすため。そう自分に言い聞かせてドーナツを二口、三口と食べ進める。
可愛いを自称するアイドル候補生であることを、この瞬間だけ都合よく忘れよう。そう頭の隅で考えていると視界がぼやけてくる。温かな雫がドーナツを握る手に落ちた。
「あれ……?」
自分はどうやら泣いているらしい。と遅れて知る。一度でも感情に自覚的になってしまうと、もはや止めるすべはない。ことねは声を抑える事さえ忘れて大きな声で小さな子供のように泣いた。今日はもう帰りなさいと店長は困った顔をして言った。ことねはその優しさに甘えて、青白い街灯を頼りに夜道を帰る。
薄く暗い夜道の中でやってくる、どこかの家から香るカレーの匂いと子供の笑い声。遠くを走る電車の音に甘ったるい金木犀の香り。秋の少し乾いた風がどこからともなく吹き付けて、セットした髪を崩して、またどこかへ行った。
ふと大学生のしていた会話を思い出す。
「ドーナツの穴だけを残して食べられるか」
ぽっかりと空いた心。その周りはとうに社会に喰い尽くされ、もう何も残っていない。そこにはただ穴だけが残っていた。
「あたしじゃん…」
ことねはその場に蹲った。もう歩けない。もう、歩きたくない。