鏡の中の青春   作:ひいろの鳥

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プロムン関係ないし初めは別枠で投稿しようかと思ったんですが、なんかもう承認欲求という名の悪魔が私の胸からゆるりと脳に這入り込んで来て巣食って仕舞ったのでこちらにあげることにしました。「ユウカに思考実験ぶん投げて困らせて~~~」が原動力の作品なので、前述の通りプロムンは関係ないです。


切り離された世界(プロムン関係ないやつ)
スワンプマン、六文字変えたらテセウスの船


 

緩やかに続く上り坂をダラダラと歩きながら、早瀬ユウカは汗を拭っていた。今日という日に限って、冬の癖に気温が高い。折角の厚着も身体中を蒸してきて、いい加減うざったくなりマフラーを外して手に持った。冬の日差しは清々しいものだが、こうなるならいっそ寒いままでもよかったと思いながらマフラーを腕で弄んでいた。近くにコンビニが見えてきたので、そこまで歩いて少し休憩を取り始めた。シャーレと呼ばれる建物に辿り着くまでの道のりは、面倒な訳ではないにも関わらずどうにも迷いやすい。ゆらゆらと霧に包まれている様に迷いやすいせいで、この辺りの土地に住む人間はおろか、近づく者すらそう居ない。住宅街ではあるが、人の気配も殆ど無いのだから仕様がない。このコンビニですら、よくこうしてまで続いているものだと感心する。窓越しに覗き込むと、一人の少女が相も変わらず忙しなく働いている。幾度かここを通ってきたが、彼女の様子は変わりそうにない。ふと目が合って、軽く会釈をされたので同じように返しながら、スマホで地図を確認した。このまま進んでいけば目的地に着くはずなのに、どうにもそんな予感はしない。連邦生徒会長も、よくこんな場所に構えたなと感心すらしてしまう。いや、誰にも見つからないからこそ、敢えてこの場所に置いたのかもしれない。そう考えられる程に大切な場所であると同時に、矢張りその為だけに姿を隠されると不便ではあるという、奇妙な存在感がシャーレにはあった。

ふと時計を見ると時間もそう無いことに気づき、急いでコンビニを離れて歩を進めた。立ち並ぶ家々を通り過ぎると、寂れた古本屋やら駄菓子屋などが目に付く。これらも何故残っているのか一見分からないが、直ぐに先生の顔が思い浮かぶ辺り、その理由も明白だった。この辺りの事情は、あの人が握っていると言っても過言ではない。その意向でこうなっているのだから、これもまた仕様が無かった。そうして歩いていると、やがてこの景色に似つかわしくない程に立派なオフィスビルが見えてきた。こここそが、シャーレだった。

 

自動ドアを通り抜け、エレベーターのボタンを押して暫くの間を待った。運動のためには階段を使ったほうがいいとは言われてはいるが、文明の利器を使わないのも損ではあるだろう。そう自分に言い聞かせながら、ユウカは到着したエレベーターに乗り込み、再びボタンを押して上に上がっていった。

チン、と音が鳴った。最上階に到着した合図だ。直ぐに金属製の扉が重々しく開き、そのまま出て真っすぐ進むと、すぐにまた新しい扉にぶち当たる。傍らには、整った字体で『連邦捜査部S.C.H.A.L.E』と刻まれた看板が打ち付けられてある。そのすぐ下には、乱雑な手書きの文字で「稼働中」の三文字と、「いるよ」と吹き出しがついている下手な鳥の絵が描かれてある張り紙が貼り付けられてある。この面が表を向いているということは、先生がその中に居るということを表している。

一応軽くノックをしてみると、中から間延びした声が聞こえてきた。上手く聞き取れなかったが、その返事を肯定だとみなして、ユウカは扉をゆっくりと開いた。

資料の詰まった書架やキッチリと整えられた段ボールが壁一面に並んでいる割に、中央にあるデスクの上はとっ散らかっている。その前に座る人間は、そんなことを気にも留めずにペットボトルに口を付けていた。

この人間こそが、連邦捜査部シャーレに属しながら超法規的な権利を握っている、先生という存在だった。とは言え、当の本人はそんなことを気にも留めない振る舞いをしているし威厳というものを示そうともしないから、首にかけられている名札が無ければただの一般人としてしか映らないだろう。

「また散らかってますね...」

「いつものことだからねえ。ああ、折角だし珈琲でも淹れてこようか」

そう言うとその人はユウカの返答を待たずに席を立って、奥のほうに引っ込んだ。その後ろ姿は、矢張り珍妙だった。ここまで来るときに見た職員の制服らしき服装とは遠く離れた、白衣のようにも見える真白い服に身を包んでいる。否、余りにも簡略すぎるし、ともすれば検診衣などにも区分されるのだろうが、先生本人からその事について触れることはない為に、ユウカもまた問い詰めきれずにいた。分かっているのは、先生が年がら年中その恰好を変えないということだ。しっかり洗ってはいるのだろうし、同じような服を何着かこの部屋で見かけたこともある為に、その事を聞くのは止めておいている。ただ、この時期にそのような格好をされると寒々しくなってしまい、外していたマフラーを再び巻き直そうかと思った。が、今日という日の妙な暑さも鑑みると、そうすることも躊躇われてそのままふためいていた。

「あ、寒かったか、そりゃ申し訳ないね」

奥から、先生が今度はマグカップを二つ持って奥から再び現れた。まあ座りなよと言いながら、その人は近くの応接用のテーブルにそれらを置いて、ソファに座り込んだ。

「いや、先生の格好が薄すぎて、こっちまで寒気が...」

そう言うと、ああとかうんとか矢張り妙に間延びした声で答えながら、先生は気に留める様子もなく珈琲を啜り始めた。この人間がこうして他人のことなど意にも介さないような態度を執ることは珍しいことではない。むしろ常に一歩引いているような、全てが他人事のようにも感じられるその振る舞いが反発を招くことも屡々あるのだという。それでも仕事はやるし生徒の手助けやアドバイスも的確に行うから、嫌われている訳では無い。ただ、この人間が遠ざかっているだけなのだと、ユウカはそう思っている。事実、何度か距離を詰めようとしたことはあれど、その度に適当な言葉を弄されてすぐに距離を取られる。何故この人間が先生になったのか、不思議なほどだ。

「あ、もしかして珈琲苦手だったっけ、こりゃすまないね」

そう口に出されて、慌ててユウカも席に着いた。カップに注がれた黒い液体を少し飲んでみると、幾分か冷めている分今の状態には合っていた。味はインスタントだが、むしろここで気張られているほうが気持ち悪く感じるのも、この大人だからなのだろう。そう思いながらチラリと先生のほうを見ると、片手では本を読みながら、もう片方の手で王冠を被った白熊のフィギュアを弄していた。先生の趣味と言えそうなものは、まさにこれらに象徴されていた。この人間は、よく何処から仕入れたかも分からない洋書を読むことが大変好みであり、それと同じぐらいこの奇妙な置物のことも気に入っているようだった。少なくとも、ユウカがここに出向くときには大抵その二つが揃っている。昔一度白熊について聞いたことはあったが、ガチャポンだよ、とだけ言われてそれ以上の情報は得られてなかった。恐らくは道中の駄菓子屋に置いてあったものなのだろうが、それを確かめようという気にもならずに、そういうものだと勝手に納得して、そのままその話は終わっていた。

暫くの間は微妙な空気の中沈黙が続いていたが、不意に先生が立ち上がると、ユウカの元に紙束を差し出してきた。

「今日の分の仕事だよ。お昼時になったらまた呼ぶね」

そう言いながら、矢張り白熊を玩びながら、先生はゆるりと自分のデスクに向かっていった。こうも気ままだと猫のようだという形容が当てはまりそうな気もするが、どういう訳か、先生からはその気配を感じ取れなかった。

 

そのまま暫くは、無言の時間が続いた。向こうから話題を出すわけでもなく、かと言ってユウカの方から話すこともそう無いので、キーボードを打つ音だけがその空間に響いていた。正確には先生が電話に出る時の声もあったが、風が吹くように一瞬で静かに終わり、再び電話が鳴るを繰り返していたからそう気にもならなかった。案外こう言った静かな時間というものは、この現代においては貴重なものなのかもしれない。普段の自分の業務と照らし合わせながら、ユウカはふとそう思った。勿論目の前の業務も用意に終わるものでは無かったが、それでも幾分か緩やかな気持ちで臨むことが出来た。

先生の方を見ると、既に半分程仕事が終わっているようだった。書類仕事だけならまだしも、電話対応も同時にやっているのだから目を見張るものがある。

また暫くして、今度は古めかしい鐘の音が響いた。丁度十二時を指す合図で、先生とユウカはほぼ同時に伸びをした。

「お疲れ様、お昼でも食べようか」

そう言いながら、いつのまに買っていたのか、弁当の入ったレジ袋を引っ提げながら、またゆるゆると先生はソファに座り込んだ。目の前には、唐揚げ弁当とそぼろ弁当が置かれてある。どちらかを選べという事なのだと、無言の言葉を同じく無言で承諾して、唐揚げの方に少し気移りしつつも、ユウカはそぼろ弁当の方を手に取った。

「あれ、唐揚げの方じゃないんだ」

先生は少し驚いた様子でそう言った。

「そっちで大丈夫なの?」

「だ、大丈夫ですから!」

実際には、唐揚げの方にユウカ目は移っていたのだが、彼女はそれを必死に隠した。この所体重で弄られるようになってきたせいで、明白にカロリーの高そうなものを避けようとしていたがための行動だったが、その事を先生に言うのは気が引けて、結局後に続く言葉も無いまま箸を進めた。すると、不意にひょいと弁当の上に唐揚げが一個乗せられた。

「ユウカは下手っぴだなあ、欲望の解放が下手...!!」

どこかで聞いたことのあるような言葉を口にしながら、先生は愉快げにそう言った。

「いえ、だから──」

「まあまあ、先生から貰ったものだし断りづらい、って事にしておこうよ、ね」

内心を見透かすように、先生はそう言って再び弁当を食べ始めた。目の前の唐揚げから漂う香りに腹の音が収まりそうにもなく、結局先生の口にした言い訳をそのまま鵜呑みにして口に移した。想像通り、芳醇な味わいが口いっぱいに広がった。それを見て、先生は少し微笑んだ。この人がそんな顔をすることは稀なので、ユウカは少し驚いた。別に感情が無いわけではないのだろうが、あまり顔に出ることが無いことが常なので、こんなことで笑うものなのかと、半ば呆れの感情も含まれていた。

そうしている間にも、いつの間にか先生は弁当の殻を無造作に置いたまま、傍に置いてあった本を再び手に取り読み始めた。

「そういえば、今は何を読んでるんですか?」

ふと気になってそう尋ねると、先生は顔も合わせないまま答えた。

「Knowing Our Own Minds...日本語で言うなら、自分自身の心を知ること、かな」

「そういうのに興味があるんですか?」

再びそう尋ねると、今度は少し唸った。

「まあそうだねぇ...好きかもね、うん」

語尾を曖昧に濁しながら、先生の言葉は言い淀んだまま終わってしまった。この人は、何かを言い切ることを嫌う癖がある。その所為で妙に語尾が間延びしがちだし、聞く人によっては苛立ったりもするのだろう。事実、キッパリした方が好みなユウカは、内心その事に幾度かむず痒くなったことがある。

「それと、その話し方も直せないんですか?」

「仕様がないんだけれどもね...まあ、検討ぐらいはしておくよ」

矢張りのらりくらりとした言葉で躱されてしまった。毎度のことだが、どこか他人事のようにも聞こえるその言葉が、またユウカの心に波風を立てた。そのことに気づいていないのか、先生はペットボトルに入っていた水を飲み干して、袋に昼食の残骸を詰め込んで面倒くさそうに捨てに行った。ユウカも急いで弁当の残りを掻き込んで、昼からの仕事に備えた。

 

 

「そういえばさ」

昼餉も終わって数時間程経ち、堆く積もっていた書類も漸く底を覗かせようかという時に、先生はそう口を開いた。こういう時に飛び出てくる言葉は大抵碌でもないものだということは、暫く前から七神リンから聞いていた。そもそも先生のほうからこうやって話題を投げかけてくることさえ珍しく、物珍しさから答えてしまいそうになるが、その度にリン行政官の顔が脳裏にチラついた。比較的面倒見がいいはずの彼女にそこまで言わせるのかと、その時の彼女の顔を思い浮かべながら、ユウカは先生の方にチラリと視線を寄越した。それに偶々向こうとの視線が克ち合って、慌てて目を逸らしたが、先生の視線はそのままユウカを刺し続けていた。

「...何ですか?」

結局、何かを訴えかけるようなそれに耐え切れずに、ユウカは返答してしまった。

「いやあ」

返答が返ってきたことが嬉しかったのか、表情は変えないながらも少し語尾を上げながら先生は一息ついて続けた。

「私、本物じゃないんだよね」

「は?」

予想の斜め遥か上を飛び越えていくその言葉に、ユウカの口から自然とその言葉が漏れ出ていた。

「私って本物じゃないんだよね」

「いや、聞こえなかった訳じゃなくてですね!」

溜息をつきながら、ユウカは辛うじてそう答えた。先生は愉快そうな眼付きで変わらずユウカを見詰めている。隣に積み上げられている書類は、仕事が既に終わっていることを意味していた。

「それで...本物じゃないってどういうことですか?」

「そうかもしれないってだけだけどね」

矢張り要領を得ない受け答えに、ユウカは少し苛立った。

「う~ん、人間じゃない、は違うか。うん、こう言っておこうか」

一人合点がいったような声を漏らしながら、先生は訂正するように言葉を付け加えた。

「私、実は泥沼から生まれたんだよね」

「いやそれでも意味が分からないんですけど」

矢張り困惑の声色を隠せないままユウカは答えたが、先生はその事を気にも留めないように、例の白熊の背中をつるりと撫でた。

「そうだねぇ...沼男って知ってる?」

「沼男...ですか?」

そう尋ね返すと、ああとかうんとか意味の無いであろう音を漏らしながら、そうだねぇと何かを承服したような独り言を呟いた。

「よし、その話から始めようか」

そう言って先生は、手に持っていた本を静かに置いた。

「沼男は、ある種の思考実験でね。今から話すことは全て仮定の上で、現実に起こりうるとは限らないっていうのは念頭に置いて欲しい。まあ逆に、現実に起こらないとも限らないんだけどね。

前置きが少し長くなったね。早速話していこうか」

そう言いながら、手元に置いていた本を静かに開いて、指で静かになぞるようにしながら先生は続けた。

「ある男が、ある日ハイキングに出かけていた。だが、その男は道中で落雷に遭ってしまい、敢え無く命を落としてしまう。

丁度同じ瞬間に、男のすぐ傍にあった沼にも同じように落雷が落ちた。すると偶然にも、落雷は沼の汚泥と化学反応を引き起こし、死んだ男と全く同一、同質形状の生成物を生み出してしまった。

その生成物には、男の記憶も刻み込まれている。原子レベルまで構造も男と同じだし、見た目も全く違わない。

そしてそれは、ハイキングを楽しみ、家に帰り、会社に通勤していく...」

そこまで言って、先生は少し間を置いた。

「さて、男と生成物──ここでは分かりやすく沼男と呼んでおこうか、これらは果たして同じといえるのだろうか?」

付け加えるようにそう言い放って、先生は再びユウカの方を向いた。

「えっと...違うんじゃないですか?」

特に間も置かずに、ただ率直にそう答えると、先生は少し笑い声を漏らした。

「そうだねえ、何故そう思ったんだい?」

「え?」

「だから、違うと思ったのなら理由があるでしょ?その理由を聞きたいなって」

そう聞かれると、何だか回答に詰まってしまう。

「その...沼男でしたっけ?それは沼から出てきた生成物なんですよね?人間では──」

「前提を忘れちゃいけないよ、ユウカ。沼男は原子レベルまで構造が元の男と同じなんだ。脳を解剖しないと...いや、解剖したところで沼男だなんて分からないだろうね」

少し間を置いた後に、先生は再びユウカに尋ねた。

「では改めて、沼男は元の男と違うと言えるかい?」

その言葉に、ユウカは再び言葉を詰まらせた。妙なところは目に付くのか、先生は平坦ながらも、普段からは想像が付かないほどに自信に溢れた声色で続けた。

「この問題の面白いところは幾つかあってね、一つは誰も沼から生成物が生まれた瞬間を目撃していないんだ。誰も生成物が沼から這い出てきたことを証明できない。そしてそれは、私達にも同じことがいえるんじゃないか?」

その言葉を否定しようと身体を乗り上げようとした瞬間、先生は手を翳してそれを制止した。

「私たちはそうじゃない...とでも言いたそうだね。うん、確かに私達は生まれた瞬間を観測された、とされている。

でも、それは本当なのかな?」

確信に満ちたような声色で投げかけられた疑問に、今度は答えようと頭を回転させながら口を開いた。

「それは本当じゃないんですか?だってそうじゃないと──」

自分の生まれ方すら分からないではないか、そう続ける前に先生は遮るように言葉を続けた。

 

「いいかいユウカ、過去は創り出せるんだ。」

 

窓は締め切っているはずなのに、その瞬間はどういう訳か冷たく刺すような風が一陣吹いた気がした。一瞬心臓が跳ねるような感覚を覚えている間にも、先生は再度疑問を投げかけてきた。

「例えばさ、ユウカは昨日の夕飯に何を食べたか覚えてる?」

また唐突な言葉に、ユウカの頭は一瞬真っ白になった。

「えっと...確かコロッケを...」

「それじゃあ一昨日は?」

「そ、そこまでは──」

「一昨昨日は、先週は、先月は、一年前のこの日には?」

立て板に水に投げかけられる疑問符の濁流に、ユウカのキャパは既に限界を迎えそうになっていた。それに気づいていないか──或いは気づいていながら無視しているのか、先生はまだ言葉を続けている。

「例えば日記帳をつけて夕飯を毎日書き込んだとしよう。でも、果たしてそれはその日に書き込んだのか?"今"書いたことは確実だけど、一年前、一月前、果ては一秒前でさえも、書いたことについては断言できないんじゃないか?」

「い、一年前ならともかく一秒前は...」

「覚えているというのなら、それが事実なのかをどうやって証明するんだい?」

その言葉に、ユウカは矢張りたじろいだ。普段ならすんなり答えられるはずの問いにも詰まってしまっている。何故一足す一は二なのかと突き詰められていく感覚と言えば近いのだろうか、どうにも気持ちの悪い感覚が付き纏っている。

「過去とは即ちブラックボックスなんだよ。決して開けない、中を覗き見ることのできない、ね。私達は如何にして生まれたか、私達には―いや、誰にも分らないんだよ。私達には、今しかないからねえ」

そう言って先生は乾いた笑いを漏らしながら、いつの間に用意していたのか今度はペットボトルの珈琲をグラスに注いで一気に飲み干した。

「さて、話が逸れたね。この沼男の例えが話したいことは、私は本物の私であるかという問いかけだね。オリジナルの"私"は既に死んでいるかもしれない。今の私は複製物かもしれない。さっきも言ったけど、誰も私達の原点を遡って言及は出来ない。その上で、果たして私は本物の私足りえるのか...これがその問題の本質、なんだろうねえ」

その言葉に、ユウカは何も答えられなくなっていた。いつの間にか語尾が何時ものように戻っていたが、そんなことは最早ユウカの頭には入ってこなかった。

「私が私なのかという問いかけは愚かしいことに他にもある。

ユウカなら、生物の細胞が生と死のサイクルを循環して更新されていくことは知ってるよね?」

「ええ、知ってはいますが...」

「そうやって全ての細胞が新しいものに入れ替わった時に、私は果たして前の自分と同じなのか、そういう問いだね。」

再び珈琲を仰ぎながら、先生は続けた。

「例えば、ある木製の船を端からパーツ毎に鉄製に変えていったとき、どの時点で木製の船は鉄製の船に変わってしまうんだろうねえ...」

「で、でも、私達には名前があるじゃないですか...!」

辛うじて絞り出したその言葉に、先生は少し頷いて黙った後、再び言い放った。

「ああ、更に例えて言えば、船に番号が振られていたとして、さ。その番号さえも組み変わらない確証は無いんじゃないかな。名前なんて容易に変えられるものなら猶更ね」

ユウカは黙っている他無かったが、先生は構わずに続けた。

「何が私を私足らしめているのか、何処から私は私じゃなくなるのか、或いは、今の私でさえも──」

そこまで言って、ふうと一息ついた後、先生は言い放った。

 

「それじゃあ、改めて問おうか。

 

君は何故、自分が君だと断言出来るんだ?」

 

「先生は──先生は、断言出来るんですか?」

喉奥から、胸の内から、その言葉が込み上げてきた。先生はそれに対して、何も答える素振りを見せなかった。他人のことが端から眼中にすら無いようなその態度に、ユウカが抱いたのは怒りなどではなく、言い知れぬ焦燥感だった。

「先生はそうやって言い切れるのかと聞いてるんです!!」

最早その言葉は、一種の防衛反応と言っても差し支えなかった。その叫びがなければ、身体が圧し潰れてしまいそうな感覚が心臓に蟠っていた。

「出来るよ。」

先生は、至極簡単にそう言い放った。同時に、部屋の扉が数回叩かれて、ユウカは一瞬で我に返った。扉が音を立てて開き、そこから顔を覗かせたのは生塩ノアだった。どれだけ自分の顔が酷いことになっているかユウカには分からなかったが、ノアは不思議そうな顔でこちらを見詰めていた。

「どうしたのノア、今日当番だっけ」

先生は振り返って尋ねると、ノアは答えた。

「いえ、セミナー管轄の仕事がまた増えたので、ユウカちゃんにお伝えしなきゃと思いまして」

そうしてノアに顔を向けられて、先程までの取り乱し方が急に恥ずかしくなって顔を俯けた。

「えっと、も、もしかして聞こえてた...?」

「...?何がですか?」

ノアは再びキョトンとした声で答えた。その声色に、ユウカは少し胸を撫で下ろした。ノアは先生の方にも顔を向けて尋ねた。

「それよりも、何か話をしてたんですか?」

「沼男だよ、あとはちょっとテセウスも混ぜてみたりしたけど」

「ああ、スワンプマンですか」

懐かしそうにその言葉を繰り返すノアに、先生は尋ね返した。

「ノアは、自分が自分だって断言できる?」

その言葉に、ノアは暫し逡巡した後に答えた。

「たとえ私が本物じゃなかったとして、問題があるでしょうか?」

その答えに、先生は興味深げに息を漏らして、すぐに笑い出した。

「正解だよノア、うん、大正解だろうねえ」

先生はひとしきり笑った後、直ぐにまた表情を無くして、白熊の置物を指でなぞった。同時に、また鐘の音が部屋に鳴り響いた。今度は恐らく退勤の時報だろう。窓の外では、既に日が落ちようとしていた。

「ユウカちゃん、ミレニアムの方にもお仕事があるので、早く帰ったほうがいいと思いますよ?」

ノアのその言葉にハッとして、ユウカは急いで帰り支度をした。ノアにはまだ用事があるのか、まだ残るつもりでいるようだった。

「今日はお疲れさまでした!」

「ああ、さっきの疑問に答えてあげるとね」

その言葉だけを残して部屋から出ようとすると、先生が不意に背中越しに声をかけてきた。だが、どうにも振り返る気にはならなかった。

「全ては自己認識だよ、ユウカ。私が自分自身を私だと観測しているからこそ、私は私なんだ。全ては認識の上で成り立っている、逆に認識の埒外にあるものは世界に存在すら出来ない。何も難しくは無いさ」

その言葉を聞いた瞬間に、ふと視界がぐにゃりとレンズのように歪む心地がした。その感覚に底知れない恐怖感を煽られて、ユウカは逃げるように慌てて階段を駆け下りた。外に出ると、すっかり暗くなってしまっていた。闇に包まれようとしているせいで、行く時より一層自分の立ち所が分からなくなってしまっている。どれだけ歩いても、自分が同じところをずっと廻っているような、奇妙な感覚が拭えない。

果てしない迷路に独り取り残されたような心地がした。そうしてまた、足元が、視界が、世界が、ぐわんと歪み横転した。

 


 

「...意地悪ですね、先生」

二人しかいない空間に、少女の声が静かに響いた。

「何がよ」

「私は私なのかという疑問に一番答えが出せないのは、あなたじゃないんですか?」

その言葉に、大人は一瞬目を丸くしながらも平易に答えた。

「...よく気付くね、鏡でも見た?

まあ、どちらにせよ私は自己観測を終えてる訳だし、やっぱり私は私だよ。それ以外在り得ない」

その言葉に納得がいかなかったのか、少女は続けざまに問うた。

「他の世界にも居たんですよね?」

「プレ先はありゃNPCだよ、考慮するなら他の端末でも奪ってくることだね」

「もしそうしたら?」

三度問われながらも、大人は相も変わらずに奇妙なフィギュアの、今度は王冠の部分をつるりと撫でた。

「この戴冠した熊が有る限り、私はこの世界に繋ぎ止められるだろうね。遍く散らばる先生とは違って、これを撫でながら話をするのは私しかいないでしょ?」

その言葉を契機に、暫くは沈黙が続いた。

「それと、もう一つ」

再び、少女の声が静寂を破った。

「今度は何?」

「私の記憶もまやかしですかね」

「そう思いたいなら」

至極簡単そうにそう答える大人に、矢張り少女は不満げな表情を浮かべた。

「...ずるいですね」

「人間だから...いや、存在してるからね。逃れられんよ」

「...そうですね」

その時の少女の表情を見たからか、大人は付け加えるように言った。

「ああでも、確かなことはあるよ」

「何ですか?」

 

「私たちはこうしてこの世界に立っている。例え全てがまやかしでも、その事実は変わんないよ」

 

少女の疑問に、大人は率直に答えた。その言葉に、少女は漸く、違う表情を見せた。

「...ふふっ、そうですね。ありがとうございます」

「ノアも気をつけて帰りなね、この辺りは暗くなると迷いやすくなるし、景色が殆ど変わらないせいで眩暈さえ起きてくるものだから困ったものだよねえ」

そう言いながら、大人は懐中電灯を少女の手に握らせた。

「あと、ユウカのことも励ましておいてくれると嬉しいかな。そうだなあ...『君が生きてる今は確実だよ』、とでも言ってあげなよ」

「それは先生の仕事じゃ無いですか?」

鋭い言葉に大人は咳払いしながらも続けた。

「私が言っても逆効果じゃないかな、あの子の過去観念を壊したのは私だし、それに...」

そう言いながら、大人はフィギュアを和やかな目で見た。

「私はほら、電気信号の通った安楽椅子で眠る用事があるから...。」

そう言って先生は、手元に置いてあったフィギュアを少し撫でながら、目を閉じた。

プロムン関係無い純粋なブルアカ創作をここに載せてもいいか

  • ええよ
  • あかんで
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